[475]福島行

長谷川高士 投稿日:2011/04/21 06:40

会員番号3792の長谷川高士です。初めて投稿します。
先週4月16日(土)と17日(日)に原発周辺に行きました。その報告と所感を述べます。

私は福井県で消防防災関連の会社を経営しております。ある企業と共同開発を行なっている関係で、かねてより、そちらの小名浜工場で実験を行なうことにして居りました。もう少し早く行ければよかったのですが、いろんな事情が重なって、些か遅れました。
金曜日の夜に車で現地に入り、土曜の早朝から実験を開始しました。その甲斐あって、予想以上に早く順調に終了しました。その後は自由時間です。
出発前の心積りでは、土曜日はいわき市から広野町までを動き、日曜には北側からアクセスしようと考えておりました。取り扱い商品は出来るだけそのサンプルを所有する方針ですが、サーベイメータ(一般的にはガイガーカウンター)は持っておりませんでした。偶々ポケット線量計何本か手元にありましたので、運転助手の息子と私の分2本を携行しました。この線量計はスイッチがONになっている間、検知した放射線を積算値として表示します。その時点での放射線の強度をμSv/hで表示するサーベイメータとは違い、表示単位はμSvです。
小名浜の社員さんは情報を持っていました。「最近になって事故地域の出入りが厳しくチェックされるようになった。」「知り合いが現地で働いている。」「良かったら、何か情報を貰おうか」と言うことで昼食時に電話をかけてもらいました。電話の相手は関東の建築会社の部長さんだそうで、その返答は「現地にいる社員に電話して、原発の前でもどこでも、幾らでも連れて行ってもらってあげる」と言う、驚くべきものでした。
実験の後片付けもそこそこに部長氏の指示のまま、高速に乗り四倉ICまで行き、一旦外に出てUターンし、一般車両通行止めの広野ICまでの区間を進み、高速を降りました。そのままJビレッジで部下の方と落ち合いました。広野ICからJビレッジまでの間に警察の検問がありましたが、実験時の作業服のままだったせいででしょうか、身分証の掲示だけで簡単に通れました。あとで気づいたのですが、そこが20Km圏の検問だったような気がします。ここまでは予想を超えた展開でした。
社員の方はJビレッジの駐車場まで車を誘導してくれましたが、Jビレッジを見せてやってくれと言う程度の指示しか貰っていなかったようです。
数百台の作業員の通勤車両がグリーンに停められていました。帰宅してからJビレッジのHPを確認したのですが、駐車場になっていたのはメイン建屋の裏のサッカーコート3面分だったようです。建屋1階の約半分が作業員向けのスペースで、東電支給の防護服を着て指示を受け、正面玄関から出発するシャトルバスで事故現場に向かうのだそうです。人数は駐車車両の数以上になりますが、全て圏外から通勤しているとのことです。前線基地としての様相はかなり良く理解できました。
Jビレッジから原発までは約20Kmですから車だと30分間程度です。原発の近くまで行って良いですかと聞いたところ「行った車は出る際、洗わなければならない」とのこと、行くのが憚られましたのでそのまま南下しました。
入った時とは違う検問所を抜けましたが、その際は何も言われませんでした。広野町を市街地から海岸線へと通り抜けました。折からの強風も相俟って、津波に襲われた地域は凄惨でした。不自然に感じられたのは、被害を受けなかった地域に人気が感じられなかったことです。何軒かは残っていたのかもしれませんが、店もガソリンスタンドも営業しておらず寄る辺ない生活になっているだろうと思われました。海岸と並行して走る旧街道のコンビニだけが営業しており、かなりのお客さんが入っていました。
この日は福島市近くの宿に泊まることにしました。朝7時から広野町を出るまでの積算線量は3μSv、穴原温泉に着くまでに1上昇して4μSvとなっていました。
17日は399号線を通って飯舘村と南相馬市を走りました。昨夕と打って変って日曜日は穏やか日でした。誰もいない早朝の飯舘村役場とは対照的に旧原町市役所(南相馬市原町庁舎)の駐車場は満杯でした。何か集会でもあるのかと覗いたところそうではなく、多くの人が罹災証明書を受け取る為の混雑でした。数人の方が掲示板犠牲者名簿を食い入るように見ておられました。別の掲示板にはA2程度の市地図モノクロコピーが貼り出され、第1原発から20Km圏、30Km圏を示す円弧が赤鉛筆で示されていました。旧原町地区は人出が多く、津波罹災地区を除き、広野町とは違った、活きた町でした。
海岸線を南下して双葉町に隣接する小浜という地区に入りました。津波で壊滅状態です。消防団のトラックが先を走っていたお陰で車を進めることができましたが、そうでなければ引き返していたはずの危なっかしい道路状態でした。
道なりに走っていた結果、いつのまにか20Km圏内に入っていたようです。警官から「もう入りませんね。念のためナンバーは控えさせてもらいます。」と言われのですから、そこで圏外に出たということです。
帰宅モードのナビの命じるまま、20Km圏の外周を少々走りました。ナビがどうしても検問所を通過せよというので、3つ目の検問所で警官に聞いたところ「通過は駄目です」と言われました。多摩ナンバーの警視庁の警官でした。道路地図で調べてもらい、迂回して東北道ニ本松ICを通るしかないと判りました。しかし先行して交渉していた軽トラックは「気をつけて行ってください」と言われて中に入りましたので、きっと圏内の住民の方だったのです。ですから圏内の住民の出入りは禁止されているわけではありません。
二本松で線量計を見たところ、数値は7μSv。朝、宿を出た7時過ぎの数値は昨夜と同じ4μSv。7時から12時まで、飯舘村→南相馬市→双葉町直近→南相馬市→飯舘村→二本松で我々が受けた放射線の総量は3μSvだったことになります。飯舘村→二本松間は約1時間だったと思われますので、4時間の単純平均線量率を敢えて採れば、0.75μSv/h。ところでポケット線量計は指向性が高く左程正確ではないといわれていますが、二つの線量計の数値は一致しています。
因みに、同じロットの線量計を3月末から小名浜の工場に貸してあります。3月28日午後4時から4月1日の8時までの88時間の数値が残っています。積算線量は29μSvでした。平均すると0.33μSv/hと言うことになります。

地震発生後、夜7時のニュースで津波の映像を見て心底驚きました。しかし福島第一原発の冷却系等に異常があるとの報道を耳にしてからの私の心理状態は別物でした。不安で堪らず、13日からは仙台の妹に15日からは関東の兄弟達に脱出を奨めるメールを送って居りました。チェルノブイリの再来必至と本気で恐れました。私は福井で原発事故が発生することをいつも恐れています。
不真面目な読者で、学問道場の頁を見始めたのは17日です。何と副島先生が現地に行く?私には恐怖でした。自分の血もイヤですが、人の血も怖い。従って3月20日、副島先生の現地調査の報に触れ、本当に安堵しました。有難うございました。即座に脱出中止メールを兄弟に送りました。日頃は仲が良いわけでもないのですが。
福井県で暮らしているだけでなく、原発銀座と呼ばれる地域の消防機関をお客さんにしている関係で、放射性物質・放射線、原子力事故に関してはそれなりの知識を持っている積りでした。チェルノブイリがあれだけの大災害になったのは単なる水素爆発で原子炉が壊れた為だけではなく、減速材として使われていた黒鉛が燃え核燃料を上空高く巻上げたためだということです。本来高純度黒鉛は燃えるはずがないのですが、所謂想定外の不運の連鎖が成した業。これは石川迪夫先生の著書「原子炉の暴走第2版」に述べられていることです。私が先生とお呼びするのは、本の内容が優れているためというだけでなく、その姿勢が首尾一貫しているためです。この本はあの難解な原子炉内での物理的な動きに関する説明において、素人でも何とか理解が出来るほどに優れているだけでなく、信念が貫かれている印象を持ちました。しかし残念なことに、原子力発電システムに内在する脆弱な部分、矛盾には触れられていません。
どなたの言葉だったか名前を覚えていないのが悔やまれますが「原子力発電は単なるボイラーだ。但し石炭・石油を使うボイラーとは決定的な違いがある。後者の場合は機嫌が悪ければお守りをする我々が聴診器を当てたり、触ってみたりして不具合箇所をほぼ完全に治せる。但し、直接触れることが出来なければどんなボイラーだって危険である。一旦動き始めた原発は、生身のわれわれの手が届かないところにある。」運転に関する限り、私はこれが本質だと考えております。石川先生は核燃料のコントロール、原子炉の運用のプロなのであって、配管材料を始めとする原子力発電システム全体に責任を持つわけでも、廃棄物の責任者でもないのでしょう。
気の毒なことに80歳近くの先生はアメリカの委員会に呼びつけられて事故の釈明をさせられました。「今回事故は、保安院が発表したようなレベル5ではありえない。レベル6だ」と発言されたそうです。先週の突発的なレベル7への格上げを、どのような思いで見ておられたのでしょうか。不肖の弟子を育てたと言うことかもしれません。

チェルノブイリ事故の際は風の通り道となった地域が汚染されました。ヨーロッパのかなりの広範な地域が、恐らく今回の比ではないくらいに汚染されたはずです。ではその時ヨーロッパ人はどうしたか?結果としては、風と雨が汚染物質を掃き流してくれるのを、耐えて待っただけだったはずです。少なくとも現段階では、チェルノブイリと比較した汚染物漏出はたいした量ではありません。発表された冷静な分析を根拠として言っているのではなく、チェルノブイリとは事故の様相が全く違うのです。それは副島先生が3月19日に現地で体を張って確認されたとおりで、幸運にも地獄の釜の蓋は開かなかったのです。同じ町でも津波が作った一本のラインの陸地側は、何事もなかったような様相を呈します。災害の特徴です。今回の原発事故もあと一歩のところで、あわやと言うところで、とどまっています。そうでなければ今頃東京は惨憺たる状態に陥っていたはずです。
だからごく一部の地域を除いて、大したことはないのだ。そのように、私も頭では理解しています。
しかし告白をしなければなりません。私は放射線・放射性物質について全く何も考えたことがありませんでした。字面ではそれなりの説明が出来ます。しかしただ単に恐ろしいものとズーッと怯えていただけでした。副島先生がマスクも何にも身に付けずに19日の原発前で放射線を測っている写真を見て恐怖しました。しかし、逃げようのない現実は受け容れなければなりません。副島先生の仰るとおり、がつがつ食べることには抵抗がありますが。

今回の福島行は従って、そんな私を啓蒙するためのものでした。息子の蒙の方もついでに啓いてしまったことになります。

先ほど小沢一郎さんの一般市民との対談を見ました。一刻も早く、国民を代表する政治家が主導して事態を収拾して欲しいと心から願います。多少の失敗など私は容認します。