[419]「人はとことん困らないと変わらない」と「言葉は正確に遣おう」の二点について

川端優美子 投稿日:2011/04/10 17:58

群馬のゆみこです。本名は川端優美子です。

まず、「人はとことん困らないと変わらない」ということについて。
わたしは実体験から、人は本当に心底困った状況にならないと変わらない(考え方、生き方を変えない)ことを知っています。困らなければ、そのまま生きていればいいだけです。

人が心底困ったときに採(と)る道は二つです。ひとつは、困って困って困って、ほかにはもう道がないと思い込んで自殺する。もうひとつは、困って困って困って、でも死にたくないから、いま握り締めている考え方を捨てて生き方を大きく方向転換させる。

(念のために言いますが、わたしは自殺した人を批判しません。人には死ぬ自由もあると思うからです。なにか制限があったら、それは「自由」とは呼べません。)

困った状況になるのは、ある考え方に固執して自分を追い込んでしまうからです。これは洗脳状態とも言えます。ですから、考え方を大きく変えることは脱洗脳です。わたしたちは奴隷として使いやすいように教育(洗脳)されてきました。だから体を壊してまで働いたりします。洗脳されていなければ、自分の体調が悪くなったら体を休めるのが正常な反応です。

今、福島県民をはじめ、日本人全体が困っています。わたしは困ることは悪いことではない、むしろ良いことだと思います。今までの考え方、生き方を大きく変えるチャンスです。ピンチはチャンス。今しがみついている考え方のせいで困った状況になっているのだから、考えを変えれば違う結果を得られる。大変だけど、やる価値は大いにあります。

次に、「言葉は正確に遣おう」ということについて。
[417]の磯貝太(いそがいはじめ)さんの投稿について、思うことがあります。

>福島県の小中高校生の生徒さんらが被爆者だとかいう意味不明の名目で修学旅行に行けなくなる

この部分ですが、福島県民が被曝者だというのは意味明確、そのとおりだと、わたしは思います。前から思っていたのですが、福島県民は被曝していますよね。被曝しているでしょう?だって、原発から放射能が漏れてしまったのですから。わたしは群馬に住んでいるので、わたしもやはり少し被曝しているだろうと思います。「わたしたちは被曝している」これは事実です。

肝心なことは、「被曝していると言っても、ちょびっとだから大丈夫だ」ということです。そして炉心が大爆発したわけではないので、放射性物質が福島県中に飛び散ったりしていない、だから福島県民の体に放射性物質が付いているわけではないので「福島県民に近寄っても放射性物質を吸い込んだりしない」ということです。そう相手に納得してもらえば、子どもたちが修学旅行に行けるでしょう。

物事は分けて考えて、言葉を正確に遣うことが大事だと思います。福島県の皆さんはとても大変な目に遭っているので、あのような文章になるお気持ちはお察しします。しかし、事実を隠してやわらかい雰囲気で包むと誤解を生むし、何より自分自身がその不正確な言葉に騙されてしまい、物事をきちんと認識できなくなり、覚醒(脱洗脳)が遅れます。だから言葉は正確に遣ったほうがいいと思います。

この磯貝さんの文は、例として挙げただけで、ほかにも「おや?」と思うことが時々あります。言葉を正確に遣うことは、たとえそれがこの時代の「何でもやわらかく、相手を傷つけないよう配慮して表現する」という雰囲気に合わなくても、学問道場の思想には合致すると思ったので、書きました。

それから、ちょっと自信がないのですが、もし「わたしたちは被曝している」という認識が事実でなく、わたしの勘違いだとしたら、この話はぜんぶわたしの勘違いです。ご指摘ください。そして許してください。
また、「被曝していると言っても、ちょびっとだから大丈夫だ」の「ちょびっと」の部分を数値で言えると説得力が出るとは思うのですが、わたしは数字を見るとちょっとした思考停止を起こすので、困ったもんだわと思っています。 以上です。