[3541]二つの正史(旧唐書と新唐書)について
お久しぶりです。また歴史について書かせていただきます。
中国正史『唐書』は、二つあります。西暦945年に成立したものと、西暦1060年成立したものです。両書を区別するため、先に出来た方を『旧』、後に出来た方を『新』と呼んでいます。両書とも奉勅撰のれっきとした「正史」です。
既に正史『(旧)唐書』が成立していたのに、どうして新たな「正史」を必要としたのか?
『(旧)唐書』は、唐末の戦乱で史料に欠損があり唐末期の記事が不十分であった。宋の時代に入り、新たな史料が多数発見され、より充実した「歴史書」の作成が求められた、と説明している。
日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指し、『旧唐書』は無視されてきた。
豊富な史料を基に、宋朝と言う安定した政権のもと、当時の第一級の学者を集めて編纂したのだから『旧唐書』よりはるかに出来の良い「史書」が出来たはずである。
しかし『新唐書』の評判は極めて悪い。1064年に編纂を開始した『資治通鑑』の司馬光は、唐代の記事を『新唐書』に依らず『旧唐書』に依拠している。
考証学が盛んになった清の時代の学者たちも『旧唐書』の方が『新唐書』より信頼性に勝ると言う。これは現代の中国史学の定説でもある。
しかし、日本では『唐書』と言えば『新唐書』を指してきた、その理由を見て行きます。
両書の最も大きな違いは、日本記事にあります。以前に書いたように『旧唐書』は、七世紀半ばまで日本を代表していたのは倭国(筑紫王朝)と書き、八世紀初頭から日本国(大和王朝)と書く。つまり日本では七世紀の後半に代表王朝の交代があった、と。
663年の「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍と戦ったのは倭国(筑紫王朝)であったと明記する。
983年成立した『太平御覧』は『旧唐書』に基づき倭国と日本国の王朝交代説を採っている。つまり宋の代に入っても七世紀後半に日本では王朝の交代があった、と認識されていたのである。(宋の成立は960年)
いっぽう『新唐書』は、日本には開闢以来王朝の交代はなく、天御中主(あめのみなかぬし)の神を祖先とする天皇家が途絶えることなく今に続いているとする「万世一系」の天皇の歴史として書かれている。
つまり、宋朝では『太平御覧』が成立した983年から『新唐書』が成立した1060年の間に、日本に対する認識を変えたのである。驚くべきことである、中国は歴史の国である、何よりも歴史を重んずる。先の歴史書の記述を変えるなど絶対に許されることではない。しかし『新唐書』の編者たちは、先の「正史」の記載を捨て、やすやすと新しい認識を書いている。ただ事ではない、いったいどのような事件が在ったのだろう。
(次回につづく)