[3516]真実の徳川家康  加筆後の 松永知彦君の文の 再掲載

1つ前の松永知彦 君の文。 本人が加筆訂正した。 投稿日:2023/02/09 11:57

副島隆彦です。今日は、2023年2月9日(木)です。

 以下に載せる文は、この重たい掲示板の 「3515番」の文を、書き直して、加筆して、載せ直したものである。書いた人は、名古屋市に在住の、私たちの会員の松永知彦(まつながともひこ)君です。

 以下のとおり、今日のぼやき の 方を読みに行ってください。一体、歴史の真実とは何か、を、皆で、真剣に考えましょう。

現在、毎週放送されている、NHKの大河ドラマ「どうする家康」のウソつき に対して、私たちの学問道場は、真実暴(あば)き刀(とう)を振りかざして突撃してゆきます。 奮闘する 松永君の歴史研究の精緻な腕前と能力に、皆さんも声援を送ってください。ここに至る、松永君の古文書(こもんじょ)収集と、その読み込み、そして現地調査の労苦に思いを致しましょう。 

 今日のぼやき 「2039」番  【再掲載】「1456」番の   村岡素(もと)一郎 著 『史疑(しぎ) 徳川家康事績』(1902年刊)についての 松永知彦氏の長文の歴史論文を載せます。 2014年6月10日【再掲載】(第1回・全2回)  2023年2月8日

 私は、松永君とは、8年前(2014年)に名古屋市でお会いして、「真実の徳川家康は、こういう人物だった」の話をしました。 あれから8年が経(た)ちました。昨日、松永君と久しぶりに電話で話しました。
全くもって、歳月(さいげつ)は慈悲(じひ)を生(しょう)ず、で有ります。

 以下の文は、おととい松永君が投稿した重たい掲示板の文を、一昨日、彼から送って来た、新しい文に、私が、張り替えます。

 以下の松永君の文に、さらに私が、少しだけ手を入れます。そうしないと、ただでさえ、「隠されれている歴史の真実 を 表に出す」と言っても、興味も関心もない人たち(その程度の頭、思考力)を、文章で説得することは難(むずか)しい。それでも、真実を(は)明らかにしなければいけない。何100年も、そして今猶(いまなお)、ウソが堂々とまかり通ってはいけない。それが私たちの学問道場に集まる者たちの信念であり、深い決意である。

(転載貼り付け始め)

学問道場の会員で、名古屋の松永知彦 と言います。
  今年のNHKの大河ドラマ 「どうする家康」が1月から始まった。
今までとは違うあらたな家康像を描いているということで、表面上は好評のようだ。
ドラマはドラマという創作なので、その構成や筋書きに対して、私はあれこれと書くことはしない、と思っていた。

 しかし、放送5回目にして、私は、もう我慢ができなくなってしまった。
清州城(きよす)で、松平元康(まつだいら・もとやす)と 、お市の方が婚姻を結ぶ寸前までいったり、服部正成が忍びの姿で瀬名姫を救出しに駿府へ向かったりと色々驚かせてくれるのだが、だからといって通史をもとに構成、脚色されているドラマに目くじらを立ててあれこれ批判したところで、やはりどうしようもないと思い直した。

 それで、ここでは、今年のNHKの大河ドラマの初回放送から5回目までに描かれた時代背景を中心に、ドラマでは描けるはずもない真実の家康の姿をざっと書いていきたいと思う。

 ただし出典からの引用文や結論に行き着くのまでの解釈などを書いていると長大になってしまうので、ここでは真実のみを極力簡潔に書いていきます。時々脱線するかもしれませんが。

 最初に、大きな真実として、(副島隆彦注記。三河(みかわ)大名だった)松平元康(まつだいらもとやす)と、のちの徳川家康とはまったくの別人ということを再確認しておく。ここでは松平元康が、摩り替った、徳川家康は、当時、自身をどのように名乗っていたかははっきりしないので、先駆者たる村岡素一郎(むらおかもといちろう)に、敬意を表し世良田次郎三郎元信(せらだ・じろうさぶろう・もとのぶ) とする。

 世良田元信(せらだもとのぶ)の生まれは、駿府(すんぷ。今の静岡市)であり、祖母の於岩(於万=おまん=とする説もある)と、府中少将の井宮前(ふちゅうしょうじょうのいみやのまえ)町 に居住していた。 (『三河紀』『岡崎物語』『松平開運録』『駿河誌』『駿河近在巡見集』)

 この府中少将の井は、少将井の 社前(やしろまえ)の、下層民の、ささら者 の集団や、願人坊主(がんじんぼうず。 諸国を旅してまわる遊行=ゆぎょう=僧、隠密=おんみつ=の役目も負っていた ) が居住していたところだ。

(副島隆彦加筆。NHKのテレビで描かれているような)宮ケ崎にあった今川の人質館 (駿府城の北側の武家屋敷の中の、立派なお屋敷 )とは場所が違う。(『武徳編年集成』『烈祖成績』『逸史』)

(副島隆彦加筆。それに対して、駿府城の東の方の、下層民が住んでいた)この宮の前町に住んでいた ささら者たちの集団は「お社(やしろ)の前にて不浄なり」とのことで天正年間に八幡小路(はちまんこうじ)に移転させられ、のち、延宝(えんぽう)年間に、川の辺・馬淵に移転させられている。

 於岩(副島隆彦加筆。のちに源応尼(げんのうに)と名乗らされた、真実の家康の、祖母の於万=おまん)である。この祖母は、近くの、刑場であった、狐ケ崎(きつねがさき)の傍らにある末寺の知源院(のちの華陽院(けいよういん) = 現在の誉田町(ほんだちょう)にある府中寺 。副島隆彦注記。現在も残っている。皆で見学に行くべきだ。私は行った。この於まん(源応尼)の墓が有り、幼稚園も経営している。江戸時代の大名たちは、参勤交代の時に、この華陽院の前で降りて参拝したという)に、ほとんど住み込みのようにして出入りしていた。

(副島隆彦注記。。静岡市=駿府(すんぷ)の 華陽院に引き換え、今の愛知県の三河岡崎城の松平氏の累代の居城の方は、大名たちに忌避され、素通りされた。岡崎城は、深い謎が有って煙たがられた。私、副島隆彦が40年前、1980年頃に訪れた時には、岡崎城の周囲は、草ぼうぼうの荒れ放題だった。 ) 

  お岩(真実の家康の祖母)は、(刑死者を弔う)比丘尼(びくに。尼さん)だったからである。世良田元信は幼少期を八幡小路にある円光院(えんこういん)の智短上人(ちたんしょうにん)のもとで、読み書きを習いながら元気に暮らしている。 (『咬雑物語』)

 これは竹千代( 松平元康の方、当時8歳 ) が 、天文十八年(1549)十一月に人質として初めて駿府に送られる(副島隆彦加筆。 ことになっている。おそらく岡崎上の中で、殺されて摩り替られた、三河大名・松平元康=まつだいもとやす=)方のよりも、一世代、前の話である。村岡素一郎氏は根拠を示していないものの松平元康は世良田元信よりも4歳年上だとしている。

 駿府到着後の竹千代は、(三河松平氏 から、駿府今川家への少年人質として)宮ケ崎の今川館に居住している。松平元康が教えを受けたのは、(立派で高名な )禅宗の僧侶の、太原雪斎(たいげんせっさい)で 清見寺(せいけんじ)もしくは、臨済寺でのことである。
 
 元康は病気がちで終始元気がないため世話役として祖母の於富=源応尼(げんのうに) が岡崎から呼ばれている。(『府中寺々記』)  徳川家康となって以降、各々の祖母である於岩(真実の家康の祖母) と、於富(源応尼。三河大名松平元康の祖母 )がひとりの人物となってしまった。

 のちに家康によって慶長十四年 (西暦1609年)に立派に建て替えられた華陽院(けよういん)には「家康生い立ちの地」の立て看板があったが、今もあるかどうかはわからない。加えて『大日本駿州城(すんぷじょう)府分(ふぶん)時鐘銘(じしょうめい)』には、「そもそも駿府というは、なかんずく東照大権現(とうしょうだいごんげん)垂迹地(すいじゃくのち)なり 」と書かれている。

 垂迹(すいじゃく)とは、仏教用語で、出現とか生誕の意味である。『駿河誌』にも、その場所は「今の華陽院境内なり」と書かれている。すなわち華陽院の前身である知源院の境内こそが、真実の徳川家康生誕の場所なのである。

(副島隆彦注記。 真実の家康の真実の父親は、上州=今の群馬県=世良田村から、駿府=静岡市=に流れ着いていた、下層民の 願人坊主(がんじんぼうず)の江田松本坊=えだまともとぼう=である。当時の戦国の世の、荒くれ者の流浪人だろう)

(副島隆彦加筆。1560年5月の桶狭間の戦いの直後、総大将の今川義元を失って、困り果てて)大高(おおたか)城から岡崎に戻った時点で松平元康は亡くなっている。(家康研究家の)木宮高彦氏 が主張する瘴癘(しょうれい。現代のマラリアにあたる)だったかもしれないし、大樹寺(だいじゅじ)到着後、自害したのかもしれない。

 あるいは世良田元信に誘い出されて小幡が原(名古屋市守山区)で暗殺されたのかもしれない。いすれにせよ桶狭間の戦いの後(あと)で、松平元康は、世良田元信と入れ替わったのである。その証拠がある。

 永禄三年(1560)六月七日付けで地元、中山庄(なかやましょう)の、天野与惣(あまのよそう)と、鈴木右衛門三(すずきうえもんざ) のふたりにあてたお墨付きの書状である。

 これは桶狭間の戦い以後、最初の元康の花押(かおう)入り書状である。その字体はのちの徳川家康時代の花押とその字体や筆裁きがそっくりである。それなら問題ないではないか、とはならない。

 桶狭間の戦い直前の、永禄三年四月七日付けの書状でほぼ同じ内容のお墨付きが前述のふたりに対して元康の花押で出されているのである。問題はその花押である。桶狭間の戦い前の元康の花押は、丸く線の細い、駿河大名の今川義元(いまがわよしもと)の花押によく似たものである。

 だが、桶狭間の戦いの後に出された書状の元康の花押は、のちの家康と花押と字体もよく似た角張った字で筆の太い花押である。しかもこの花押はその後6通出されたあとしばらく姿を消し、また元の丸く細い花押に戻っている。(『徳川家康・下巻(木宮高彦)』) 家臣がこれはまずいと世良田元信に練習でもさせたか。

 木宮高彦氏は、このお墨付きをもらった天野与惣と鈴木右衛門三が桶狭間の戦い後、お家の大事と岡崎城へ駆け付けたら、なんと主人が変わっていたので慌てて同じ内容の書状を再度もらったのであろう、と推測している。

 これが6通あるということは同様のケースが6回あったということであろう。だが家康風元康の花押の書状について説明されている公式の資料や専門家の方々の意見はこれまでまったくない。この二通りの書状は『参河誌』にも記載されているし大変重要な歴史資料だと思う。だから 歴史学者の皆様方、自説でよいのでいつか必ず説明してくださいね。素通りなどせずに。

 NHKの大河ドラマ「どうする家康」では描写はなかったが、桶狭間の戦いは、実は桶狭間ではおこなわれていない。主戦場は、田楽ケ窪(でんがくがくぼ。田楽久保または田楽坪)である。 田楽狭間とする文献もあるが田楽ケ窪が正しい。田楽ケ窪は桶狭間道からは鎌倉街道を挟みかなり離れている。その田楽ケ窪の南側周辺に桶狭間山(おけはざまやま) はある。 だが桶狭間山というのは固有の山の名称ではなくこのあたりの山々の総称である。

 そもそも狭間とは山と山の谷間のことであるから山の名称にはなり得ない。このあたりは桶のように見えるので桶狭間と呼ばれるようになった。今川義元が討たれた場所は田楽ケ窪からさらに北西2百メートルほどであろうか。

 地形的に今では織田軍は今川軍に対し奇襲ではなく正面衝突だったというのが通説であり、わたしもその説に異論はない。ではなぜ古来より奇襲説が語られ桶狭間の戦いではないのに桶狭間の戦いと言われているのか。

 それはこの時、世良田元信一党が、今川家臣が宴会をしていた田楽ケ窪か、もしくは今川義元の休息地を見下ろせる桶狭間山のどこかに潜んでいたからである。そこから戦況を見極め、好機とみるや、一気に山を駆け下り織田側に加勢をしたのだ。このことが「桶狭間の戦い」と伝わり、「山を駆け下る奇襲」の口伝の元となったとわたしは考える。

 今川義元に一番槍をつけた服部小平太(はっとりこへいた)も首級をとった毛利新介(もうりしんすけ)も、織田氏の家臣ではない。『尾張誌』には、服部小平太は今川軍に最初から従軍していたかのような記述もある。織田信長も一番の功労者であるこのふたりに何の恩賞も与えていない。服部小平太はこの戦いののち徳川家康に仕え、その後、豊臣の家臣として送られている。毛利新介は、そのまま残り、織田信長の嫡男、信忠(のぶただ)の家臣となった。ふたりとも(副島隆彦注記。以前から今川方に潜り込んでいたスパイであり、尾張大名の織田信長の忠実な家来だったのだ。そしてこのあとの人生は)徳川方の間諜の役目を担ったであろう。

 第八代将軍吉宗(よしむね)公の時世に、堀杏庵(ほりなんあん。きょうあん?)が、『庚申闘記(こうしんとうき)』に「神君家康公のお力添えとお導きがあってこそ、織田信長公は今川義元公を討ちとり徳川家も開運の基をひらいた。」と書いてしまっている。

 しかもそれを書物(しょもつ)奉行の堀田恒山(ほったこうざん)が後押している。そればかりか、堀田恒山(ほったこうざん)は、『石ガ瀬 合戦 始末記』で、松平元康と徳川家康は、石ガ瀬と和田山で二度対戦しているとまで書いてしまって、大岡越前守忠相(ただすけ)から発禁処分を受けたあげく、尾張七代宗春(はるむね)も謹慎処分となっている。『松平紀 徳川合戦資料大成(八切止夫)』

 桶狭間の戦いで、世良田元信が織田勢に加勢したことは間違いなく、松平元康と徳川家康が別人であることは、実は尾張では昔から言われていたことなのである。

 ちなみに桶狭間の戦いの後、松平元康が大高城から岡崎城へ戻ったルートは2説ある。一般的に言われている大高から池鯉鮒( ちりふ。現在の知立(ちりゅう)市)、今村、大門などを通る陸上の鎌倉街道説と、大高から大野浦、常滑(とこなめ)、亀崎、高浜から船で岡崎、という海上ルートである。

 どちらの説もその途中の寺社に家康公が立ち寄った時のことを詳細に記されたものが残されており、ここ愛知県の地元では、各ルートの支持者の間で論争が続いていて未決着である。だが、何のことはない。陸上ルートが松平元康で、海上ルートが世良田元信(副島隆彦注記。摩り替わる前年の、戦場スパイの一団を率いていた)である。

 ここでは書かないが、それぞれに付き従った家臣の名を確認すればわかるのだ。(歴史研究家の)木宮高彦(きみやたかひこ)氏は、別の海上ルートの方を「知多半島横断説」と名付けて『徳川家康・上巻』の中でそちらを主に紹介している。だが、わたし松永は、大高から大野浦、常滑(とこなめ)、亀崎、高浜から船で岡崎、が世良田元信のルートだと思っている。

 その桶狭間の戦いの約1ケ月前の永禄三年(1560)五月六日、今川義元が上洛するにあたって狐ケ埼で(副島隆彦加筆。尾張の信長勢に対する)戦勝を祈念する祭事があった。そこで軍神の血祭として処刑されたのが、世良田元信の祖母の於岩(松平元康に摩り替わる前の世良田元信の真実の祖母 )である。

 『松平啓運録』に「狐ケ崎の知源院に尼公を葬り去る。慶長十四年これを移す」とある。処刑の理由は、その数日前、世良田元信とその一味が、今川館から竹千代( 副島隆彦注記。のちの岡崎三郎信康=のぶやす= 。

 殺されて摩り替られた、三河大名・松平信康の長男。2歳の幼児 )を 誘拐したことが露見したからである。於岩の甥であり、のちに大河内(おうこうち)姓を引き継ぐ源三郎の妻が乳母として今川館に仕えていた。この女が手引きしたのだ。源三郎もこの時、捕らえられ8年後の駿府落城まで牢に入れられている。
 
(副島隆彦注記。この時、家康の真実の母である、於大=おだい=、のちの江戸(東京)に今も有る文京区の伝通院=でんつういん=さま のこと )も、一緒に8年間、とらわれていた。家康の実の弟たちも、駿府で捕まっていた。たとえば、のちに沼津城主、大名になる 久松正俊 =ひさまつまさとし)=がいる。おかしいだろう。家康の真実の母親である於大が、このあと久松・・と結婚して、この弟たちを生んだのだ。だから、16家ある松平氏の中に、久松松平家がある。今も続いている。実の母親のお大=伝通院=は、慶長7(1602)年に死んでいる。

 コラー、 歴史学者ども。これらの事実を、辻褄が合うように、きちんと説明、釈明、白状せよ。いつまでも、大ウソがまかり通ると思うな。 副島隆彦は、ずっと怒り狂っている。

 困り果てた、江戸時代から『徳川実紀(とくがわじっき)』を書き続けて、家康の経歴について、ウソの上塗りを続けた、歴史学者たちは、家康の母親が、三河の境川(さかいがわ)沿いの水野家から松平氏に嫁いで、出たり、入(はい)ったりする、ヘンな書き方をして、ウソを取り繕(つくろ)っている。全く、ご苦労なことである。あの、嘘八百の「小説徳川家康」の大著(? ハ? )を書いた、バカ野郎の本は、今では、もう誰からも、見向きもされない。さすがに 史実捏造加担歴史学者たちでも、困り果てて、一切、言及しない。

 家康の真実の弟のひとりは、牢屋で、足が萎えて障害者になった。母親は、この息子をずっと不憫がった。8年後に、大名になっていた家康が、掛川城まで進軍して、ようやく、今川から自分の真実の母や弟たちを捕虜交換で取り戻したのである。副島隆彦注記終わり )

 世良田元信が、血祭りに挙げられた、実の祖母の於岩(於まん)の死の知らせを聞いたのは、浜松城(当時は曳馬城=ひくまじょう=) を攻める陣中である。 「幼少のころ父母のように慈愛を受けた祖母の訃報を聞いても駆け付けることもかなわず、使者を送り葬った」と、征夷大将軍になったあと催した於岩の五十回忌の折、華陽院(けよういん)の扁額(へんがく)に、自らの筆で書き記している。 この時に知源院を格上の立派な華陽院 に建て替え改葬したのだ。

 この家康自筆の扁額(へんがく。横文字の額=がく=の漢文)は、「この寺は、禅尼(自分の祖母) の旧地である」から始まり「この府下で禅尼の家に住んだ」そして「はじめて(私が)浜松に義軍(ぎぐん)を発し数州を征した」とも書き記している。はじめて旗揚げしたのは ( 副島隆彦加筆。だから、三河大名の松平氏の居城の三河岡崎ではなく ) 浜松だ、と本人が書いている。徳川家康の真実に迫る重要な記述がいくつもある。 

 (副島隆彦注記。松平元康を殺して、摩り替ったあとの、家康は、ほとんと岡崎城にいない。家康は18年間ほとんど浜松城にいる。なぜなら、三河の松平の家臣団に摩り替ったと、バレているから遠慮したのだ。)

 この扁額は、昭和15年の大火で焼けてしまったが、徳川家正(いえまさ)公が、自筆で一字一句正確に書き写してくれていたおかげで現在に伝わっている。

 世良田元信一党(副島隆彦注記。戦場スパイの一団。凶悪な野武士の集団のように動いた)は、この時、駿府で誘拐した竹千代( 岡崎三郎 松平信康=のぶやす= 2歳 )を、掛塚(かけづか)の鍛冶屋の平太の家に預け隠した。『阿部家夢物語』にその時の記述がある。この鍛冶屋の平太がのちの服部平太夫(はっとりへいだゆう)でありその娘の於愛(おあい)がのちの西郷の局、すなわち、2代将軍秀忠(ひでただ)と 次男・・の生母である。「西郷弾正左衛門員の養女、実は服部平太夫保章が女(むすめ)なり」と『泰平年表』にある。

(副島隆彦注記。私は、この忍者の頭目の服部平太夫が拠点にしていた掛塚=かけづか=の港に行った。暴れ川だった天竜川の河口だ。浜松から東に10キロぐらい。三方ヶ原(みかったぱら)の戦いに敗れて、武田信玄の猛攻を受けて、真実は、浜松城も落とされた。城兵は皆殺しにされた。家康が、ここで立て籠もって生き延びた、というのはウソだ。家康は、共の者、数名とだけ、東の方に落ち延びた。家康はこの掛塚に逃げ込んだ。そして船で沖に出ただろう。それで生き延びた。信長の援軍は、浜松のそばまで来ていたが、間に合わなかった。これが歴史の真実だ。このことは、私の信長、家康本に現地の写真と共に、書いた。皆さんも、この掛塚に行ってみてください。)

 その後、潮見坂(しおみざか)で、織田側に信康(三河大名松平元康の嫡嗣=ちゃくし=。20歳まで生きて、殺された) を引き渡している。清州同盟(この言葉は、ウソ)の際、信長と交渉して、あたかも元康の遺児を、自分の力で取り戻してきたかのごとく凱旋し瀬名姫と 、三河武士たちの信望を得たのである。

( 副島隆彦注記。瀬名姫(せなひめ)とは、築山殿=つきやまどの=のことで、三河大名・松平元康の正室である。瀬名川は、静岡市の東側で、清水市に近い。この川のそばに有る私立大学に、私、副島隆彦は、12年間、勤務した。

 その築山殿は、息子の信康と共に、用済みになって、摩り替りの隠滅のために、浜名湖の畔(ほとり)で、首を絞められて殺された。20歳になっていた岡崎城主の信康は、二股城(ふたまたじょう)で殺された。 家康にとっては、自分の長男の秀忠が、西郷の局(お愛)との間に、生まれたからでもある。信長の許可を取って、家康がやった。2代目服部半蔵が、自分の主君である松平信康を、泣きながら殺した。副島隆彦注記、終わり )

 すべては三河を今川から切り離し織田側につけるための信長と世良田元信の筋書きである。
 (副島隆彦注記。真実の徳川家康を追究した、優れた小説家の)南條範夫(なんじょうのりお)氏によると、世良田元信が清州城に入場する際、集まった群衆の中に、松平元康の顔を知る者がおり、あれは元康どのではない、と叫んで騒ぎになりかけたところ、本田(平八郎)忠勝(ただかつ)が一喝しておさめた、という記述が『大成記』に書かれてあるとしている。

 岡崎三郎信康が一時、織田家の人質となっていたことは、寛政二年(1790)四月付、加藤忠三郎の「雛人形二対」という書き出し書に書かれている。(『尾州藩資料』)
 
 それによると、「東照宮御幼年の時、」という書き出しではあるが「塩見坂(潮見坂)で内府(ないふ)織田信長公の元に送られ加藤図書之助(ずしょのすけ)宅 にて六歳~八歳までいたが、日夜泣くので加藤隼人佐の妻である於与女(およめ)が、幼君を御守りし雛人形で慰めた。賜(たまわ)った桐の紋の盃(さかづき)も所蔵している。」とある。

 何かおかしいと気づく。織田信秀時代の竹千代(松平元康)のことであるようにこじつけたいが、はっきりと 内府織田信長公 にと書かれ、しかも八歳になる武将の男子を雛人形であやすわけがない。これはこの時二歳だった岡崎三郎信康のことである。

  紋といえば、NHKの初回の放送で、主演の松本潤氏(松平元康)が、大高城を目指して駆けているシーンなどで、家臣ののぼり旗に三葉葵紋が描かれていたが、あれはいただけない。
 松平家の家紋は代々「五々の桐」をはじめとする桐紋(きりもん)である。広忠(ただひろ。元康の父 )の家紋は「剣銀杏紋」だったとの説もあり、清康( 元康の祖父。いずれも三河大名 )が、伊奈(いな)城主 (愛知県宝飯郡(ほいぐん)) の本田正忠から葵紋(あおいもん)を譲り受けたという伝承もあるにはある。

 だが家紋として使われた形跡はない。徳川家が三葉葵紋(みつばあおいもん)を家紋として使うようになったのは、世良田元信が徳川家康と改名してからであり、その由来は、上野国(こうづけのくに。今の群馬県)の 新田庄(にったのしょう)の 得川郷(とくがわごおり)の世良田村 ( 別名葵村 ) である。

 この得川(とくがわ、あるいは、とこがわ)郷の満徳寺から天海(てんかい)僧正が、公儀御用と称して新田氏の系図を(自分のものにするからと)召し上げた、のは有名な話である。

 ここで、どうしても松平清康の身におこった「森山崩れ」について述べておきたい。 徳川の通史では、天文四年(1535) 十二月、春日井(かすがい)郡 森山(現在の名古屋市守山区 )の陣中で、清康(きよやす )が、家臣阿部大蔵定吉(あべだいぜん・さだきち)の息子弥七郎(やひちろう)に惨殺されたという事件である。

事件のあった場所は現在の小幡が原(おばたがはら)とされている。

 (副島隆彦加筆。真実の徳川家康を書いた)村岡素一郎(むらおかもといちろう)は、『史疑(しぎ)』の中で、実際は、永禄四年(1561)に、世良田元信に誘い出された元康の身に起こった事件であるとしている。世良田元信が元康をここで暗殺したかどうかの判断は難しいが、清康の森山崩れなど、ここではおこっていない。これは確かである。

 『岡崎領主古記』に清康公は「上野(うえの)広久手(ひろくて)の合戦の時に戦死され、之により、西三河の御一門をはじめ、御譜代(ふだい)衆も面々心々になりぬ」と書かれており、欄外には朱文字で「広久手は山の名、上野は地名という」という但し書きまである。

 「面々心々」とはどう読むのか、礫川全次(こいしかわぜんじ)氏は読み方も意味も不明としている。だが、榛葉英治(しんばひではる)氏は、「譜代の家来は散りぢりになった」と訳している。

  わたし、松永知彦は、平成27年(2015)に運よく『岡崎領主古記』の写しを手に入れることができ、この原文に初めて触れた時は、感慨深いものがあった。だが、写本入手前、平成18年(2006)に初めて『史疑』でこの一文を読んだときには、大変驚き、いずれ上野・広久手 (現在の豊田市=とよだし= トヨタ自動車の本社がある )を訪れたいと思っていた。私は、翌平成19年8月頃、ようやく現地に行くことができた。

 上野町、広久手町は双方小高い丘陵地帯で住宅や工場、商店街が立ち並び活気に溢れた町であった。その後、清康と縁深い安祥城(あんしょうじょ。愛知県安城市 )に向かい、そこで読んだ地元の歴史書に、「この地方では林や森はヤマと呼ぶのが普通である」という記述を見つけた。また本丸跡の大乗寺の看板には「安祥城は別名森山城と呼ばれていた」と書かれてあった。

 この後、長縄観音院( 愛知県西尾市 )へ向かい清康の仮墳(かりのはか)を確認した。上野・広久手の合戦で討ち死にした清康の亡骸を家臣の大河内喜平次 がここまで運んで密葬した、と伝わっている。地理的に妥当である。

 この仮墳は、寛政七年(1795)、清康の死から実に260年後に、時の住職が偶然見つけて掘り起こしたものだ。当時の寺社奉行から元のように埋め戻し内密にするよう命じられたと『朝野旧聞裒(ほう)稿』にある。今は手厚く改葬されて、わたしも墓前に手を合わせることができた。

 わたしは清康(きよやす。真実の松平元康の祖父 )の森山崩れの真相にかなりこだわっている。
 なぜならこの事件の書き換えが、徳川神話の遡りと改竄(かいざん)作業の最終点であり、今は逆に、神話の起点になっていると思うからである。家系図の詐称もあるが、それはこの時代はよくあることで、さほど問題ではない。多くの武家が源平藤橘( 平はないか )に自分の先祖を繋(つな)げたい、と系図を書き替えたことはよくあったという。
 けいず屋という商売も成り立っていたぐらいだ。それに松平初代親氏(ちかうじ)と、二代泰親(やすちか)が何者かということは、私は、以前の調査で明らかにしている。

 いまの通説では、徳川家康は新田源氏の子孫でない、としている。松平初代親氏(ちかうじ)を無理に、新田氏と繋げた系図詐称との見解だが、それは徳川家康と松平元康を同じ人物としているからである。松平家が新田源氏と無関係なのは間違いない。

 だが、家康の実父は上野(こうずけ。今の群馬県)の新田庄(にったのしょう。新田義貞=にったよしざだ=の一族の地。その南側の、利根川沿いの湿地帯が、世良田郡であり、その一部にある) 得川郷(とくがわのさと)の出身だったかもしれないので、徳川家康個人に限って言えば新田源氏の子孫である可能性はある。

(副島隆彦注記。だから、真実の徳川家康の実父は、この上州世良田(せらだ)郷から、流浪して来ていた願人坊主という、勝手に僧を名乗って、買っての門付け=かどづけ=をして、経文を唱えて金持ちたちからカネを強請(ゆす)ることを生業=なりわい=とする下層民である。)

 話を戻す。この松平清康(まつだいらきよやす。三河大名。松平元康 の祖父 )の討ち死に の真実を、私が、明かし正史とすることが、江戸幕府が開かれてから400年以上たった現在まで続く徳川神話を糺(ただ)す、第一歩になると信じている。

 松永知彦です。結局、長文になってしまった。しかも一部の内容は、今回、今日のぼやきの「2039番」として、再掲載として、昨日、載せていただいている拙文と重複している。ご容赦ください。

さあ私は、次は何を書きたくなるか。
 大河ドラマの流れだと、次は永禄六年(1563)の三河一向一揆か、もう少しあとの天正七年(1579)の築山殿(つきやまどの)と息子の信康(のぶやす)事件か。三河一向一揆も築山殿・信康事件もドラマの構成によっては書きたくなる。

  いや、この三河一向一揆は、複雑な話ではないので、私は、以下に要点を先に書く。この一揆は、このままでは、駿府生まれのよそ者である世良田元信に、三河が乗っ取られると危惧した西三河(にしみかわ)衆の反乱である。だから、松平元康に摩り替った世良田元信が、用意周到に準備して挑発し、計画どおり鎮圧したのだ。

最後にこれを書いて終わりとしよう。
 実は徳川四天王は、4人とも三河出身ではない。榊原康政(さかきばらやすまさ)は伊勢、井伊直正(いいなおまさ)と酒井忠次(さかいただつぐ)は駿府、本田忠勝(ほんだただかつ)は遠江である。出身地までの描写はほとんどの文献で、まずない。だから、なんとなく皆、三河出身と思っているが違う。
 三河出身者は、世良田元信が徳川家康となったのち、皆、石高を低く抑えられ、戦では常に前線に向かわされ、ことごとく冷遇されている。  松永知彦筆  
( おわり)