[3512]NHK紅白の 石川さゆりの「天城越え」の背景に真実の心中事件があった

副島隆彦 投稿日:2023/01/08 20:05

副島隆彦です。今日は、2023年1月8日(日)です。

 今年は世界中で、まだ何も起きていない。 
 もうすぐ何か起きる、というよりも、計画的に起こされるだろう。 それを待って考えるしかない。 何か起きたら、その背後を、さっと、私の予言者能力で、その裏側を透視して 今年の世界の動きの、その方向付けをする。

去年は、安倍晋三が死んで、殺されて、最高の年だった(7月8日午前11時半 )。

 今日のぼやきの 方に、1月4日付けで、私の年頭の挨拶と、私の年末、年初の生活を書いた。 いつもとおんなじ、年の瀬、そして新年だ。 日本は平和でよかった。平和で、戦争が無くて、皆、紅白歌合戦を見て(だが視聴率はどんどん落ちて30%ぐらいだそうだ)、新年には、2日、3日に、テレビで箱根駅伝を見て、他にすることがないので、神社にお参り(参詣)に行く人は行く。

 私は、10年ぐらい前に、家族で、東京の外神田(そとかんだ)に、すでに江戸時代の早くに移った、神田明神(かんだみょうじん)にお参りに行ったことがある。 もう2度と神社の参詣などしない。1時間弱も並ばされて、100円玉を、投げ込んで、三拝して、それで終わりだ。ゾロゾロと人々が並んでいるだけだ。 不愉快だった。 

 慣習(かんしゅう)、習俗(しゅうぞく)、習(なら)わしというものは、恐ろしい。 何で、こんなくだらない、何の意味もない、年賀の神社参りを民衆(people ピーポー、ピーポウ )は、するんだろう。

 神社の本殿の扉は閉めきっている。「勝手に、お賽銭を入れて、拝んで、とっとと帰ってください」と言う感じだ。 全国、どこの神社も、こうだろう。神主(かんぬし、宮司、ぐうじ))が、正殿に出てきて、参拝者に会釈もすることもない。 

 じっと見ていたら、本殿の横の方から、きっと斎費(さいひ)1万円を納める金持ちの氏子(うじこ)たちが、横の方から入って、中で、神主にお祓(はら)い(清祓、せいばつ)をしてもらっている。 

 私は、その時から、自分は、もう一生、全国どこの神社にも参詣に行かない。観光地の有名な神社仏閣に行っても、境内(けいだい)を見て回るだけで、一礼、二柏手の三拝 はしない。 どこの神社も今は、取ってつけたような、くだらない、コンクリートで出来た、馬鹿みたいな建築物だ。 何の有難(ありがた)みもない。本当にくだらない。

 日本の神道(しんどう。 Shintoism シントウイズム。 しんどう、と読む。そうでしょう。しん「とう」は、おかしいでしょう。華道、柔道、剣道と同じ、「どう」だ )はもう滅んでしまえ。すでも滅んだと言える。民族の習俗(カスタム)だ、というのも、もうウソだ。何のありがたみも、中身、内実も、本当に、無い。日本の仏教(ブッデズム)も同じだ。

新年から私は毒づいてしまった。
 大晦日(おおみそか)のNHKの紅白歌合戦の後半だけ見た。大取(おおとり)ではなかったが、石川さゆりの今年は、津軽海峡冬景色(つがるかいきょうふゆげしき)ではなくて、天城(あまぎ)越え、だった。 この2曲を、毎年、交互に歌うように、石川さゆりは、NHKに頼まれている、という。 

(ここに石川さゆりの 写真を貼る)

 津軽海峡冬景色は、彼女の、1977年の大ヒット曲でレコード大賞も貰った。彼女は、1958年生まれだから、私よりも5歳下で、今、64歳だ。19歳の時のヒット曲だから、もう45年間も歌い続けている。国民的な、大(だい)歌謡曲の大(だい)演歌歌手の迫力があって、歌唱力も衰えることなく、堂々と歌い上げた。
オバさんを通り越して、お婆(ばあ)さんになってしまった。

 でも、日本の演歌歌手が、こうやって和服(着物)で、女性の肌の衰えも何のその、堂々と歌い上げると、韓国も中国も、きっと、日本人には、敵(かな)わないなあ、と、思うだろう。 でも、もう、若い人たちには、美空ひばりが、とか、島倉千代子が、と言っても、40代から下は知らないだろう。

韓流(かんりゅう)のポップスによく似た、日本の若い女たちの、乃木坂46とか、もう私には分からない。AKBは、紅白に落選して泣いていたそうだ。栄枯盛衰、芸能界も、新陳代謝してゆく。 

 私が、気に入ったのは、加山雄三が、85歳?で出てきて、「海、その愛」を歌ったあと、質問されて、「もう、いいよ(オレはこれで終わりだよ。もう、歌いたくない)」と言って、壇上から去った、あの一瞬だ。

  加山雄三は、1970年を境に、つるべ落としで、急激に人気を無くして(グループサウンズ、と反戦フォークの時代になったから)、以後、司会業以外では、終わった人だった。大(だい)借金を抱えたまま、実に60年間も、借金を返し続けることで、苦労に苦労の芸能人生活をおくった。 この真実を、芸能界に詳しい人は知っている。

 私は、九州から出てきた、まるで、出稼ぎ移民のような地方出身者だから、“ 湘南(しょうなん)ボーイ”の 走りで、東京のボンボン息子の代表選手で、毛並みの良い、加山雄三が、嫌いだったが、加山のこの大(だい)借金人生を、30年ぐらい前に知ってからは、
「貴方も大変だねえ」で、同情して好きになった。加山雄三は、人格に全く歪(ゆが)みが無い、まっとうな日本のエリート階級の男だ。  私は、日本芸能人論 の中で、また、彼のことを詳しく書いて、纏(まと)めようと思う。

副島隆彦です。 今日は、それで、石川さゆり の 「天城越え」(1986年の大ヒット曲。28歳の時 )について、私が気になったことを書く。

 名曲「天城越え」は、カラオケで、本当に歌が、生来、上手い女性でないと歌えない。とんでもなくキーが高いのだと思う。喉(のど)の作りが、生まれた時から、歌を歌うように作られている人でないと歌えない。非常に難しい歌だ。イタリア・オペラ(歌劇)のベルカント級だ。ディーヴァでないと歌えない。

(ここに年末の ユーチューブの NHKの天城越え を貼る)

https://www.youtube.com/watch?v=wcoG3ObliLE  

おお、石川さゆりは、今も、プロ(ウ)の歌手には珍しい、あの がちゃ歯(不揃いの歯並び)のままだ。あのがちゃ歯のまま歯並びを修理しないで50年間、歌い続けた。偉い。今年で、デヴュー50周年だそうだ。今、64歳。

 この「天城越え」は、作詞家の大御所の吉岡治(よしおかおさむ)が、石川さゆりが大ヒットさせる(1986年。もう37年前の歌)前年に、伊豆の湯ヶ島温泉で、現地を歩き回りながら作詞した。ご当地の地名が、浄蓮の滝とか、九十九(つづら)折り、ワサビ沢、寒天橋とか、出て来る。 

 そして、有名な天城峠の 天城隧道(あまぎずいどう、すいどう とも。トンネル)だ。この下田街道の 旧国道のトンネルは日本国民の共有財産だ。
(ここに、天城山トンネルの写真を載せる)

今日は、同じく、まさしく、この下田街道が舞台のひとつになる、川端康成の「伊豆の踊子」の話はしない。 私は、すでに自分の「伊豆の踊子」論を本に書いている。田中絹代(たなかきぬよ)から、山口百恵まで、いくつの映画になっただろうか。

 この「伊豆の踊子」は、伊豆大島から、熱海に上陸した、旅芸人の一座が、そこから、伊豆半島の温泉宿を、ずっと、一か所ずつ、ずっと宿ごとに、
点々と、芸を披露しながら、移動してゆく話だ。一高生(いちこうせい。東京第一高等学校、駒場)の学生だった、川端康成の体験記の小説だ。学生が、ずっと、その一座と、追いつき、追い越ししながら、ずっと下田街道を、温泉町を伝わって行く。

 そして、修善寺温泉を越えて、湯ヶ島温泉へ、狩野(かの)川沿いに上って行って、それから、下田までゆき、そこから、一座は、目の前に大きく見える、伊豆大島へと帰る。 

 ここで、大事なのは、山口百恵ちゃんが演じた、15歳ぐらいの、初潮(しょちょう)を迎えた少女の踊り子は、温泉宿で、その夜、職業として売春をやっていた、という悲しい事実だ。

 これは、現代では、表面上は言ってはならないことになっている。しかし、誰かがはっきりと真実を書かなければいけない。だから私が、そう書いた。私のその10年ぐらい前の新刊の本を手に取った、その出版社の社長が、担当編集者の横で、「百恵ちゃんも、そうかー、売春婦だったんだ」と、感慨深そうに言った、という。

 世の中の真実は、そういうものだ。(あんな大(だい)少女歌手の百恵ちゃんであっても、売春婦をさせられていたんだ、と、この世の酸(す)いも辛(から)いも噛み締めて生きてきた人間たちは知っている、そういう真実がこの世に本当にある。頭の悪い、真実が分からない人間た
ちには分からない。

 石川さゆりの名曲「天城越え」という、今や国民歌謡と言うべき歌には、背後に真実の「天城山心中(あまぎさんじんじゅう)」の事件が有る。

周囲に反対されて、家柄、家格 の違いもあって、願わぬ恋を、どうしても、若い男女が添い遂げようとして、心中(しんじゅう)する。 「天国に結ぶ恋」と、当時から言うようになった。

 この天城山心中事件 は、石川さゆりの歌とは関係ない、とされて誰も説明しようとしない。 だが、どう考えても、この事件がこの歌の原形で、あり原因だ。
 日本人は、皆、自分の体で実感でこのことを分かっていて、きっと本当に無理(むり)心中の事件が有ったのだろうなあ、と、思っている。しかしこの事件のことを、この歌の原因となった事件だと、説明する者がいない。

 そうでなければ、この歌の歌詞(かし。リリック)の

   「・・・誰かに盗(と)られるぐらいなら、あなたを殺していいですか。
  寝乱れて、隠れ宿。 九十九折(つづらおり)、浄蓮の滝。 
  ・・・肩の向こうに、あなた、山が燃える。・・・なにがあってももういいの。
  くらくら燃える火をくぐり、 あなたと越えたい天城越え 」

という極度に緊張する、心中、情死(じょうし)の情景の歌は出来ない。

 ところが、誰も、この歌の本当の真実の背景を説明する者がいない。そして 37年が経(た)った。だから、私、副島隆彦が、それをやらないと済まないのだ。現地では語り続けられているだろう。地元の人たちは真実を知っている。 このことを、私が説明して、真実を解説しないと、芸能界の人たちも、歴史学者も、もう誰もやらない。
 
 1957年(昭和32年。今から66年前 )に、実際に事件は、有った。

 この天城山系の頂点で、天城峠(あまぎとおげ)そのものの旧国道の、天城トンネル(隧道)から、男女が、脇の尾根道(おねみち。稜線、りょうせん)を、ずっと、薄暗かりの山道を登って行った。その先に八丁池(はっちょういけ)があって、さらに山系のピークである万二郎岳(まんじろうだけ)、万三郎岳(まんざぶろうだけ)が、まだ10キロ先にある。
(ここに ウイキの 八丁池の写真を貼る)

 途中その山道で、二人は、力尽きて 「もう引き返せない。死ぬしかない 」と、20歳の学生の男は、父親が軍隊の時に持っていた ピストルで、女の頭を撃ち、自分の頭も撃って、そこらの草むらに倒れた。遺体が発見されたのは、6日後だ。

 以下に、私の嫌いな、Wikipedea ウィキペディア に、この事件の、非常によくまとまった文が有ったので、それを、どんどん載せて行く。
 心中と言うのは、男女が、自分たちの変わらぬ愛を貫くために一緒に死ぬことだ。日本の江戸時代の歌舞伎では、道行(みちゆき)とか、死出(しで)の旅と言って、熱烈に演じられた。近松門左衛門の人形浄瑠璃(じょうるり)から始まった「心中 天の網島」が代表だ。これは、篠田まさひろ監督、奥さんの岩下志麻主演で、優れた映画(1969年)にもなった。

(転載貼り付け始め、 Wiki )

〇 天城山心中(あまぎさん しんじゅう)とは、1957年12月10日に、伊豆半島の天城山において、4日前から行方不明となり捜索されていた学習院大学の男子学生のO(当時20歳)と、
 同級生女子の 愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい。当時19歳)の2名が、Oの所持していた拳銃で頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見された。当時のマスコミ等で「天国に結ぶ恋」として報道された事件。

 慧生(えいせい)は、清朝(しんちょう)最後の皇帝にして、旧満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ )の姪(めい)にあたり、溥儀の実弟愛新覚羅溥傑(ふけつ)の長女。母は、「流転の王妃」で知られる旧侯爵、嵯峨(さが)家の嵯峨浩(さがひろ)。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 このような真実の事件が有った。この「愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ プーイー )が、所謂(いわゆる)、「ラスト・エンペラー」(アメリカ製の映画にもなった。ベルナルド・ベルトリッチ監督、1987年制作 )である。

 この満州皇帝の姪(めい)の慧生(えいせい)が、学習院大学の、同級生の、無骨でバンからの感じの青森県の八戸(はちのへ)出身の、素封家(そほうか、田舎の金持ち)の子と愛し合って、それが、どうしてもうまく行かないで、それで、男が思い詰めて死を覚悟して、それを止めようとして、慧生も、一緒に死んでしまった。

 今の秋篠宮(あきしののみや)家の眞子(まこ)と小室との、家格が違うと、許されない恋をしたために、理解されないで、さんざん叩かれた、二人とそっくりだ。さらには、その両親の、秋篠宮と紀子(きこ)妃自身も、なかなか許されなくて、それを、頑張って両親の明仁(あきひと)、美智子天皇皇后が、許して認めて庇(かば)って、今の秋篠宮家がある。特権階級の人々も、みんな、それぞれ自分の立場で苦しんで生きているのだ。それを分かってあげるべきだ。 

 私は、眞子と小室の悪口を、今でも、まだしつこく言い続けている人たち(女8割、男2割)の気が知れない。 どうして真剣に愛し合う若い男女の愛を、こころよく成就(じょうじゅ)させてあげないのだろう。

 これでは、まさに心中事件一歩手前だ。次の次女の佳子(かこ)の愛が心配だ。頑迷な民衆と言うのは、時として、思い詰めた特権階級の男女の心中事件を引き起こしてしまう。  

 私、副島隆彦は、自分が、生来の文学者体質の男だから、男女の愛には寛大だ。道ならぬ恋とか、倫理道徳を言わない。 その立場であれば、きっと、あなたも、そのように、道ならぬ恋に走ったでしょう、と、理解し、周りを説得する。だが、まわりの人たちは、聞いてくれない。

 だから、二人が死んだ後、「あーあ、死んじゃったよ。虐(いじ)めなければよかった」と、反省するが、だが、そのあとも厳しい意見のままだ。人間の考えは、一旦、持つと簡単には変わらない。

 副島隆彦です。以下の、ウィキの、この天城山心中 事件をまとめた、文章が、実にすばらしいので、一番、よいところだけを、抜粋で、そのまま載せる。

(転載貼り付け始め)

・・・一方、慧生(えいせい)は、幼少期を満州国で過ごした後、母、浩(ひろ)の実家である旧侯爵嵯峨(さが)家で育ち、初等科から学習院女子中等科、同高等科を経て同大学文学部国文科に入学し、初等科卒業以来、初めて男子と同じクラスになる。

 Oは丸坊主で学生帽を被り、質実剛健、感情と行動に距離がなく、猪突猛進、愚直な性格で、都会的で洗練された学習院の学生の中では異質な存在であった。一方、慧生(えいせい)は、美しく社交的で快活、いつも学内の中心にいる存在であり、訛りを気にしてクラスで1人ぽつんといたOに声をかけて気を配るというクラスメイトの関係から始まる。

 Oは優しくしてくれる慧生に感激して女神のように崇めはじめるが、慧生は学内の華であり、心を寄せる男子学生の取り巻きも多く、Oは特別な存在ではなかった。ただ慧生の周りにはいないタイプの無骨で愚直なOの行動は、上流階級育ちの彼女には新鮮な驚きがあった。

 6月下旬、Oは初めて慧生と2人で会話をして身の上を聞き、自宅まで送った。この時、Oの他の学習院生とあまりに異なる風体に慧生の家族の反応は厳しく、慧生はOの自宅への来訪を禁じ、次々送られてくる手紙も一方的なものであると家族に説明していた。

 Oは入学当初から「命がけ」という言葉をよく使い、「ごまかしながら生きるより、清く死を選ぶ」という死に対する衝動が常にあった。8月頃のOから慧生に宛てた手紙にも、慧生への熱情の中に死を含ませた文章を綴っている。

 この頃の慧生はOに好意はあるものの、それはあくまでも友情であり、特殊な生い立ちである自身の今後の人生を考え、迷いながらも冷静さを保とうとしている。また慧生に思いを寄せる男子学生は他にもあり、その男子学生とOで決闘騒ぎも起こっている。

 11月30日、元々身体の弱い慧生が体調を崩して大学を休むと、自宅の嵯峨家にOが見舞いに訪れる。病気であるからと家族に面会を断られても、通された応接室から1日動こうとしないOの極端な行動に、特に慧生の祖母が警戒し、彼との交際を厳しく禁じた。11月26日に訪ねた際に不在と言われたOは翌日慧生に宛て、慧生の家族に心配をかけたことを詫び、今までもらった慧生からの手紙は焼却し、以後没交渉とすると宣言した。

 12月に入るとOは慧生への思いを断つべく実家に帰省し、断髪して座禅を組み断食修行を行った。絶縁状を受け取った慧生は毎日のようにOに手紙を送り、体調を崩した事で冷静さを失い、揺れていた気持ちが一気に傾くことになる。慧生の手紙を見て喜んだOは東京に戻って12月30日に嵯峨家を訪れ、再び面会を断られて犬に吠えられ一筆書いたのみで帰っている。

「婚約」
  年が明けた1957年2月、2人は蕎麦屋で長時間語り合った後、「婚約」を決める。しかしその後、冷静さを取り戻した慧生は友人達の猛反対にもあい、何度かOに「婚約解消」を持ち出すが、その度に彼が自暴自棄になって解消は立ち消えになるという事を繰り返した。慧生は家族に交際を知られないよう、Oとの手紙のやり取りを友人の名前で作った封筒で行うなど行動に細かくルールを取り決めていた。

・・・事件の1か月ほど前の11月10日には、慧生はOに宛てた書簡の中で、
「(前略)昼間屋上のベンチで過ごしたときのことを考えると涙が出てきます。今もあんなふうに武道様(O)に甘えたい。(中略)武道様が思ってくださると思うだけでニャンコは幸せです。ほんとうに幸せ。世界で一番幸せです」
と綴り、

「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道(たけみち)様、エコより」と結んでいる。 

 同月13日の書簡には 「誰もいなかったら飛んで行ってかじりつきたい」、15日には「『熱烈な恋愛中』と書いた幟を立てて毎日東京中を歩いてもかまわない」、17日には「武道(たけみち)様のそういう根本的な暖かさ」に「『ゾッコン参って』います」と書いている。

 11月、慧生に思いを寄せていた男子学生が、秘密にしていたOとの婚約を知った事による非難の手紙が慧生に送られている。慧生がまた体調を崩す。11月30日、慧生からO宛の最後の手紙には、月曜日に毎月の貯金に一緒に行く事が書かれていて、死の影は見えない。

 12月1日の日曜日、熱を出して休んでいた慧生の自宅にOと見られる男から電話があり、慧生が電話口で「いらしていただいても困ります!」と珍しく声を荒らげていた。その日の夕方、「自由が丘まで行く」と言って外出した。

 事件前夜
  12月2日、慧生は少なくとも3人にSOSのサインを送っていた。大学で授業の前、親友の「オサト」に、バッグから取り出した拳銃を見せている。「O君が青森のご実家から持ち出されたものなの。『この銃で自殺する』とおっしゃって。わたくし一生懸命説得してお預かりしましたのよ」と落ち着いた口調で話したという。

 クラスメイトは皆Oの自殺願望を知っており、オサトは慧生にそんなものを持っていたら危ない、誰かに預けるよう言い、慧生が「ええ、そうしますわ」と返事をしたため、教室に戻った。もう1人の親友「木下」も同様に慧生から拳銃を見せられたが、日頃から2人の揉め事を聞かされていた事から、それが重大な結果に繋がるとは思わなかったという。

 慧生の最後の手紙によると、この日の午後、慧生とOは長時間話合い、自殺するというOの決意を覆す事ができず、慧生も同意したとされる。この前後にも慧生は、Oが暮らしていた学生寮「新星学寮」(上杉慎吉=うえすぎしんきち=の元私塾)の寮監で、Oの父の旧友であった穂積五一(ほづみごいち)に電話を入れているが、風邪で休んでおり、対応した穂積の妻に「Oさんが近頃・・」と言いかけたまま電話は切れたという。

 12月3日、オサトは大学の移動時間に慧生を見かけ、拳銃の事について念を押した。この時の慧生は「ええ・・」と鈍い反応だったという。オサトは慧生が特に変わった様子がなく、銃の件は何らかの形で解決したと考え、2人は笑顔で別れた。

失踪・最期
  12月4日の朝、慧生は普段通りに大学へ向かい、午前中には学生達から姿を目撃されている。午後7時頃、慧生が自宅に戻らない事から、家族が関係各所に電話をかけはじめる。そのころ同日夕方には、湯ヶ島の静岡県警派出所に、伊豆の山中で男女を降ろしたタクシー運転手から「心中でもする気ではないか」という届けが入っていた。

 12月5日、穂積の元に慧生からの最後の手紙が届く。手紙には、思いつめたOに同行するが強制されたわけではない、といった内容が書かれていた。Oと同室の寮生から、2日前に身辺整理をしていた事、伊豆の地図を見ていた証言が出る。また秋にはOが1人で伊豆へ旅行していた事も確認される。

 12月6日、朝から寮生たちが伊豆方面に捜索に出る。
 12月7日、新聞各紙の朝刊に「男友達に同情して“プリンセス”心中行ー元満州国皇帝のメイ家出」という見出しなどで記事が出る。オサトら学習院の同級生や地元の消防団が警察と共に伊豆での捜索に加わる。

 オサトらは4日の夕方に修善寺駅から2人を乗せたタクシーの運転手の証言を聞いた。
 「天城山トンネルまで行ってくれ」と言われ、女性の方は「帰りましょう、ねえ、帰りましょう」「今なら、まだ間に合うから、帰りましょう」と言い続けていた。午後5時頃に下車し、運転手は「日暮れも近い事から、待っていましょうか」と声をかけると、男は「この辺りはよく知ってるから」と即答した。

 女性は「ああ!こんな時間!」と言って2人は八丁池に通じる道を登っていった。不審に思った運転手は、その後湯ヶ島の警察に通報した。慧生はこの登山道に沿って学習院のサークルチラシをちぎっていき、目印を残していた。

 12月8日、2人の足跡が八丁池(はっちょういけ)方面 三つ叉道付近で発見される。霧が深く立ちこめて視界がきかず、捜索打ち切りが決定され、同級生らは帰京した。夕方、O家と嵯峨家の話し会い が持たれ、2人に関する一切を穂積に一任し、穂積は新聞・ラジオを通じて「姿を現せば2人の交際を認める」と呼びかけた。

 12月9日、伊豆に残った学生らが樹木の古株の中で着替えや靴などの遺留品を発見。 12月10日、午前9時半頃、天城山頂トンネル入り口から八丁池へ登るコースを登った標高900mの雑木林の中で、山道から20mほど入った窪地で地元消防団員が2人の遺体を発見。

 百日紅(さるすべり)の木の下に2人が並んで横たわっていたとするが、近年になって遺体の第一発見者が、慧生は木の根元に凭(もた)れかかるようにして死んでおり、武道は1mほど離れたところに倒れていて、2人は別々に横たわっていたとする証言もある。

 凶器になった銃はOの右手に握られていた。慧生の遺体は左こめかみに銃弾の穴があり、右利きの彼女は明らかに撃たれて死亡しており、右頬には銃弾が掠めたような深くえぐられた傷跡があった。死亡診断書には「他殺。銃弾による頭部貫通(かんつう) 」と記された。銃はOが八戸の実家から持ち出した軍用拳銃で、父親の弥三郎が満州で憲兵をしていた時代のものだった。

慧生の最後の手紙
  慧生は最後の手紙を4日の午前8時頃に学生寮長の穂積宛に記し、その日の午後に投函したと見られる。末尾に12月3日夜8時5分と記されたこの手紙は便箋(びんせん)5枚にわたるものだったが、穂積から預かった嵯峨家が焼却してしまったため、以下は穂積の記憶に基づく。

 「 なにも残さないつもりでしたが、先生(穂積)には気がすまないので筆をとりました。Oさんからいろいろ彼自身の悩みと、生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間Oさんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純でOさんの考えの方が正しいという結論に達しました。

 それでも私は何とかしてOさんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私がOさんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私とOさんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です」 ・・・・

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。あとの文も、まだ読みたい人は、以下の ウイキURLを 開いて読んで下さい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E5%BF%83%E4%B8%AD

こうやって、こうやって、この事件から、石川さゆりの 国民的な歌謡曲がある。 
そうだ。私は、今、決めたのだが、私もこの天城山トンネル(隧道)の脇から入って八丁池の方まで、今度、行ってみる。そして、ふたりが覚悟の死を遂げた場所を、なんとか自分で探り当てて、そこで焼香をしてくる。そうすると、私は決めた。 ふたりの霊魂(れいこん)が、今も、屹度(きっと)その辺りをさ迷(まよ)っているいる。私は、ふたりの霊魂に、必死で語りかけたい。

 作詞家の吉岡治と作曲家の・・・は、この現地の山の中を歩き回って、そうやって「天城越え」が作られた。そう考えないと辻褄(つじつま)が合わない。これからは日本国民が、天城越えを、カラオケとかで歌う時は、「こういう事件が、本当にあったんだったてさ」と話しながら、歌うべきだ。 

 私、副島隆彦は、生れながらの知識人だから、清朝(しんちょう。大清=だいしん=帝国)の最後の皇帝である、宣統帝(せんとうてい)であり、その後、満州国(日本政府が傀儡=かいらい=で作った)の皇帝となった、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の一族のことも、たくさん知っているので、別の時に書きたい。

 実は、「天城越え」(あまぎごえ)は、別に、松本清張(まつもとせいちょう)が書いた、別の事件を扱った短編小説がある。1959年12月に、1983年に松竹で映画化されている。

 それは、「刑事警察参考資料」(1922年発行)の「天城山に於ける土工(どこu)殺し事件」が本作の根拠資料であると、松本清張自身が認めている。16歳の少年坑夫である近田耕作(ちかだこうさく)が、金銭目的で起こした殺人事件である。この事件を、松本が創作で、天城山トンネルの出口で、道端(みちばた)で売春をしていた女を殺した話に作り変えている。立ちん棒(ぼう)と呼ばれる、最下層の売春婦だ。

 だから、私の考えでは、普通言われるような、松本清張のこの小説(1959年。心中事件のわずか2年後 )が、名曲「天城越え」(1985年、吉岡治 作)の原形になったとは、思わない。ここには、何らかの国家的な隠蔽(いんぺい)の臭(にお)いがある。あくまで、愛新覚羅慧正(あいしんかくらえいせい)と、学習院の男子学生との心中事件が、この曲の原形だ。以後は、皆で、そのように、国民規模で、訂正しないといけない。

 石川さゆりが、あと何年、この歌を、NHK紅白で歌い続けるだろうか。私は、自分の最後の年までこの歌を見れるだろうか。

昭和天皇裕仁(ひろひと)は、この天城山の尾根道の登山道を、戦前と戦後の2回、登っている。孫の徳仁(なるひと)現天皇も、おじいさんに薦(すす)められたのだろう、この道を歩いている。 今は、事件の現場の丁度、下の方に、昭和の森公園という恩賜(おんし)公園があるようだ。 私、副島隆彦も、必ず、心中した二人の霊魂に会いにゆく。

 実は、もうひとつ、重要な心中事件がある。それは、戦前の1932年(昭和7年)に起きた、「5.15事件」の軍隊叛乱の事件の、直前に起きている。

 それを、坂田山(さかたやま)心中という。場所は、湘南(しょうなん)海岸の大磯(おおいそ)の、今のJR大磯駅の、裏山である。ここで、若い男女が死んだ。だから、天城山心中よりも、25年前である。間に戦争を挟んでいる。

 人間の男女の思い詰めた、愛の行動は、当時の、不安なの世情(せじょう)を反映したものである。揺れ動く日本国民の、その最も過敏なところで、心中事件は起きる。それに連れて、同じように、死を選ぶ者たちが、あとを追って、なんと、200人(100組)とか出る。

 この坂田山心中事件は、その直後の猟奇(りょうき)問題でも騒がれた。ここでは、そのことはもう、ここでは、私は書かない。 私は、自分の、『預金封鎖(よきんふうさ)の続編』(2003年刊、祥伝社)の中で、この坂田山事件(1932年、昭和7年)のことを、編集長とふたりで詳しく書いた。この事件が、すぐに映画になって、「天国で結ばれる恋。神様だけがご存じよ』 となって大ヒットした。 

 私が、この事件を「昭和恐慌(しょうわきょうこう)、昭和5年から8年」のことを説明するために、この本に書いたときには、 まだウィキペディアの説明文は無かった。

 今では、有る。だが、読んでみたが、こっちの方は、あまり出来が良くない。つまらない説明文だった。私が自分の本に書いた文の方が、ずっと優れている。だから、簡単にこの事件の概要だけ簡単に載せる。

(転載貼り付け始め。ウィキ )

坂田山(さかたやま)心中
  1932年5月9日午前10時、地元の青年が、岩崎家(三菱の)所有の松林の中で若い男女の心中死体を発見した。男性は慶應義塾大学の制服姿で、女性は錦紗の和服姿であった。前日の5月8日夜に現場に到着、昇汞水(しょうこうすい。塩化第2水銀、猛毒) を飲んで服毒自殺を図ったものと思われた。・・・・

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。この事件も騒がれた。
(ここに、ウィキに載っている 新聞記事を貼ってください)

東京日日(にちにち)新聞 の  当時の記事