[3418]中立独立主義は内外で疑心暗鬼を生み、自ら”茨の冠”を被ること

六城雅敦 投稿日:2022/06/13 18:44

司馬遼太郎の「峠」を読みました。

「飛ぶが如く」に次ぐ司馬の長編小説であり、新潟の長岡藩家老・河井継之助(かわいつぐのすけ)が主人公です。この小説によって新潟県人しか知られていなかった継之助が広く知られることになった司馬の代表作の一つです。

新潟方面には最近よく行くし、2年前から新潟や長岡では映画のポスターをよく見かけたから、原作を読んでみたいと思ったのです。やっと今年映画は公開されます。

文庫本で上中下の三巻で、徳川譜代大名でありながらも小藩(7万石)に過ぎない長岡藩(牧野家)の家臣に過ぎなかった河井継之助の思想の紹介が上巻の内容です。

朱子学ではなく実践的な革命論である陽明学を信奉するも、徳川政権を支持しなければならない武士の立場と現実的な処世のはざまで、彼独自の結論へ至る過程の紹介が最初の巻です。

小国であっても自主独立・武装中立を目指す

そのためには、300年変わらない甲冑と槍刀ではなく、藩の軍備力で介入を防ぐこと。兵器を買うためにも産業を育てなければならないことなどを、継之助が藩の改革者として実行していきます。

幕末の争乱期に薩長方とも佐幕方にも付かず、中立の立場を堅持して独立を目指した長岡藩家老・河井継之助の戦略は良かったのかというと、結果的には悲劇となってしまいました。

もっとも官軍に恭順したところで、会津をはじめ奥羽列藩への先鋒にさせらて多くの戦死者を出す結果となり、悲劇は同じであったのだろうと思います。
実際に薩長軍に従った新潟の小藩(直江津や松平)は柏崎を経て長岡藩攻撃の先陣役をさせられているのです。同郷の者や親族同士が撃ち合い、斬りあったのです。

静的な均衡時にはよい戦略でも、動的状況下では最悪

京都薩長方と江戸佐幕派・譜代連合の睨み合いという状態であれば、河井継之助のような”とりあえず様子見”が素人ながら妥当な判断だといえます。

しかし、敵/味方/内部統制の状況は刻々と変わり、そのバランスが崩れればどのような方向に動くかはだれも予想できないでしょう。

こっくりさん遊びのように、コインに三人が指を当てて動かしても、だれもが意図しない動きをすることと同じです。

結局、官軍(薩長)と対峙する奥羽同盟(会津)に挟まれた長岡藩は、双方から敵方に着くのではという疑心暗鬼をから偽旗工作によりなし崩しに中立策を放棄する結果となりました。

長岡藩内部でも天皇への恭順を訴える派閥と、徳川家へ忠誠を誓う派閥で分裂状態です。

ユーラシア大陸の状況は藩幕体制下の江戸時代末期と似ている

討幕側も佐幕側も開国と同時に西洋の銃や大砲を購入して、軍備力を増強していきます。徳川体制下では御禁制であった大型軍艦も雄藩は購入します。陸路よりも大量の物資と兵士を移動させることができるからです。

後講釈で佐幕側は軍備が旧式だの、近代軍隊とはかけ離れていたとか言われていますが、実際のところそれほど大きな差があったわけではない。

会津も元込め式のライフル銃を揃えていたのですし、1000以上(1600m前後)の射程がある榴弾砲を揃えていたのです。

先日、西南戦争の激戦地であった田原坂(たばるざか)を訪れましたが、丘陵地での戦いは白兵戦となり、日本刀での切合いで薩摩軍は大きな成果をあげたそうです。

そのため官軍側も士族を中心とした抜刀隊を編成して応戦しました。この中心メンバーは会津の山川浩ら旧賊軍の汚名をかぶせられた者たち。

だから10年来の恨みを晴らさんと率先して薩摩兵に切り込んでいった。
藩は無くなっても憎しみの連鎖が明治の半ばまでは続いていたのが、双方の甚大な死者数が表しています。

田原坂だけで双方7000人の1万4千人が死に、生還率は半分だったそうです。(※田原坂資料館に掲示)

武力中立ではなく、パワーバランスを静的にする仕組みが必要であった

司馬遼太郎「峠」を読んで思うことは、中立政策で独立状態を維持するむずかしさです。

むしろ、永世中立とは敵対する国のパワーバランスが均衡してこそ実現するのであり、ちょっとの乱れで崩れる際どい考えであると思った次第です。

そのためにも敵味方かかわらず諜報・情報工作の重要性は150年前も変わらないのです。
小藩の悲しさでどうしても京都や各地の戦況が遅れがちです。情報網を持たない弱小藩は捨て駒として官軍(薩長土)につぎつぎに取り込まれていきます。言わずもがな
飛脚しかいない時代ですが、大藩は自前の船で京都と江戸と国もとを往復していました。

自軍側に取り込みたい双方としては中立国家こそが宣撫工作のターゲットです。

幕末でも薩長と岩倉具視ら藩幕の公家一派らによる大衆扇動を行っています。

武器以上に重要な諜報宣撫工作

この物語に福地源一郎という人物がいます。江戸幕府の外国翻訳方で、外国情勢を継之助に教え、スイス人商人を紹介します。福地はのちに東京日日新聞という新聞を発行します。

幕末は恭順派(薩長側)と佐幕派にわかれて「うちが本家で正義だ」と言い合っていた。岩倉具視による偽の御旗は有名ですよね。でも偽旗作戦(false flag)は北越戦争でも会津方が使っているわけです。小説では。

官軍に参戦しないで籠城する長岡藩を引きずり出すために、長岡藩の藩旗を戦場にみよがしに置いて、裏で支援しているように見せかけて、既成事実化を狙っています。
このようにどちらも騙しあいをしているのです。

以下、私が心に留まった個所を抜粋します。

大垣藩筆頭家老・小原鉄心との会話(上巻295ページ)

藩と近代国家にせねば自滅しかなく、すればこの武士の世そのものがほろびる。無為にいても滅亡、改革しても滅亡である。
「この矛盾をどう思われます」
と継之助が問うと、さすがに小原鉄心もだまった。しばらくして、
「それ以上は、天皇さ」
という。将来そこの解決点をもとめねば仕方がない。つまり封建社会が崩壊すれば、つぎの秩序の中心点を天皇にもってゆかねばこの混乱は収拾できぬ。
 鉄心は、尊王家であったしかし世上流行している情緒的な尊王論ではなく、右のような理論的尊王主義というべきものであった。
継之助は、なにかを得た。

理論的尊王主義という言葉が司馬によって創作されています。

司馬遼太郎による日本人の宗教観(上巻497ページ)

「あれは風変わりなやつだ」
と、家中でも思われたのは、ひとつはそういうこともあるであろう。
ちなみに、日本人がずいぶん昔から身に着けている思考癖は、
「真実はつねに二つ以上ある」
というものであった。これは知識人であるほどはなはだしい。
たとえば、
「幕府という存在も正しくかつ価値があるが、朝廷という存在も正しく価値がある」
そういう考え方である。神も尊いが仏も尊い。孔子孟子も劣らず尊い。花は紅、柳はみどりであり、すべてその姿はまちまちだがその存在なりに価値がある、というものであった。
一神教を信じている西洋人ならばこれをふしぎとするであろう。かれらにすれば神は絶対に一つであり、自然、真実も一つでなければならない。
 が、日本人は未開のころから、山にも谷にも川にも無数の神をもっていた。どの神もそれぞれ真実であったが、そこへ仏教が渡来して尊崇すべき対象がいよいよふえた。
さらに儒教がそれにくわわり、両手にあまるほど無数の真実をかかえこみ、べつにそれをふしぎとしなかった。
 しかもその無数の矛盾を統一する思想が鎌倉時代にあらわれた。禅であった。
 禅は、それらの諸事実を色(しき:現象)として観(み)、それらの矛盾は「それはそれで存在していい」とし、すべてそれらは最終の大真理である「空(くう)
に参加するための門であるにすぎない
だから意に介する必要はない、とした。
 右は物の考え方のうえでのことだが、現実の暮しのなかでも日本人は多神教的な気楽さとあいまいさを持っていた。
 たとえば幕府や諸藩の役職は、かならず同一職種に二人以上がつく。江戸の施政長官である町奉行は南北二人存在し、二人が交互に勤務する。大坂の町奉行も東西二人であった。すべてが二人以上であり、その点で責任の所在がどこかでぼやかされていた。
 公務のための使者というものもつねに二人であり、二人でゆく。このため、幕末にオランダに留学した幕府の秀才たちは、むこうで子供たちからさえ軽蔑された。

小説上での福沢諭吉と河井継之助の対比(中巻 414ページ)

「議論じゃありませんよ。いまの私は、地球のなかの長岡藩をどうしようかといろいろ苦心惨憺の試案を練っているところだ。その思案のたすけをほうぼうにもとめている」
「どうもあれだな、河井さんをこのようにお見掛けするところ地球の宰相でもつとまりそうな面構えだが、心掛けているところがどうも蚤のように小さい」
「それが私のいいところだと思っている」

「とにかく福沢さんは、京都中心の日本が出来上がることに賛成ですな」
と、継之助がいった。福沢諭吉はキセルに莨(たばこ)をつめながら、
「かついでいるやつ(薩長)が」
といった。
「気に食わないが、しかし私はあくまでも立君制度(モナルキー)がいいと思っているから、本筋は賛成だ。モナルキーならば文明を吸収する力をもつ」
「私はドイツ連邦というのをすこしも知らないが、徳川家中心の大名同盟、ということではどうにもなりませんか」

「なりませんな。貴族というものが国の梶をとることができた時代は日本でもヨーロッパでも遠い昔になりましたよ。大名同盟(アリストクラシー)では貿易上大いにわずらわしくなり、万国公法という立場からも列国が相手にしなくなるでしょう。結局は経済上の必要から統一というところへゆく。統一するほうがいいが、統一される方は黙っちゃいないから、雄藩同士の大喧嘩になる。戦争でさ。内乱が大いにおこり、日本の独立派なくなり、とてものこと、世界の進運についてゆけない」
「なるほど」
継之助はおだやかに相槌を打った。おだやかにきかねば福沢の意見がひきだせないからである。
「それに、大名同盟というのは要するに封建制だ。こいつはこんにちでは正気の制度じゃありませんぜ」
「そうでしょうな」
この点は、継之助はそう思う

結局のところ、徳川が目指す大名同盟(アリストクラシー)も利害関係ですぐに対立し、分裂するということです。
現在のEUが一枚板とならないのも当然の結末ですし、連邦国家のアメリカも内部では激しい対立が起きています。

討幕・佐幕の根底にある尊王賤覇(そんのうせんぱ)の悲劇(上巻23ページ)
共和制(つまり王政ではない合議的体制)に日本は向かわなかったのかということへの司馬遼太郎の答えが、朱子学の尊王賤覇という根底の思想にあると小説で語らせています。

「天子の政府はもはやみとめざるをえない」
という大前提が、どの江戸派にもある。情勢が転換した以上やむをえないものだとおもっており、日本人らしい諦めの速さが心理的理由になっている。さらに江戸時代武士の教養は朱子学であり、朱子学の根本思想のひとつは尊王賤覇(王室を尊しとし、武力政権をいやしいものとする)であり、思想として京の天子の反抗者になるという者はたれもいない。尊王思想に対立するほど大きな思想(たとえば共和思想)などはこの時代にはなかったのである。

政治家の平和的な考えとは(下巻192ページ)

戦争ということについて継之助を考えてみると、むろん「戦はしてはならんでや」という否定論者ではない。かれは越後人として上杉謙信がすきであった。検診は戦国人のなかでもきわだって戦争ずきであり、戦争を政治の一手段に考えるよりもむしろ、芸術家がその芸術に執心するようなそういうのめり方で自分の「戦争」に執着し、戦争術を陶冶しようとした。継之助はそういう謙信を敬愛した。もっとも継之助が愛した謙信はあるいは戦争好きの謙信ではなく、戦国人のなかではめずらしいほどに心情のさわやかな、ときには義人的行動を好んだそういう謙信の風韻を愛したのかもしれない。
 その一方で継之助は僧良寛を好んでいる。歌人であり禅僧であり、書家であった良寛を、むしろ謙信以上の豪傑であると言い、その絶対無防備の放胆さを尊敬した。しかしながら、
「戦さはしてはならんでや」
という口癖は良寛的な心境から出たのではなさそうであった。
 かれは、政治家なのである。政治には当然戦争がふくまれる。政治のなかにおける戦争を否定していたのではないであろう。
 それどころか、継之助が古今の人物のなかでたれにもまして敬慕していたのは王陽明であった。王陽明は元来が文吏であり、一国の首相でありながら、必要があれば国軍をひきい各地に転戦し、つねに勝ち、当時のいかなる武将よりもすぐれた将軍の能力を発揮した。継之助はそういう王陽明が好きであった。好きである以上、
―戦さはしてはならんでや。
は、絶対否定の言葉ではない。
―政治的に損である。
ということであった。戦争が政治の一部である以上、その損失を考えねばならない。

戦争は政治的な駆け引きの手段の一つ(下巻232ページ)

「戦うのか」
「たたかわざるをえなくなれば戦うが、そのときは藩にとって最悪だな。全藩がほろびるときだな」
「つまり負けるのか」
「勝てはしない。武器を買い、兵を練り、とにかくも負けぬようにした。まず長岡は負けまい。しかし勝てはすまいよ」
「継サ、負けはせぬが勝てもせぬということは、要するに負けることではないか」
「それはちがうな」
微妙な場所でちがう、と継之助はいう。戦いがはじまればとにかくも奮戦し、敵に打撃を与えつづけ、半年でも一年でももちこたえるように戦争を持ってゆき、時間をかせぎ、新政府に恐怖をあたえ、新政府の国際信用を失墜させ、和睦せざるをえぬようにしてゆく。「勝てぬが負けぬ」という戦争形態には政治というものの入り込む余地がある、というのである。継之助のつけめはそこであった。
「が、戦争をせずにそこへもってゆくことに越したことがない。あくまでも政治をもって片付けねばならない」と、継之助はいった。

このように勝ても負けてもいない状況が、政治的には最善の状態であること。
そして和睦(政治的な手打ち)に持ち込むのが政治家の役目だと継之助に語らせています。

ベトナム、アフガニスタン、そしてウクライナでの非対称な戦争は負けないことではなく、持ちこたえて小出しに打撃を与え続けることが転機を生むということ。

継之助が目指した武力中立国家の見本がスイスなのですが、そのスイスでさえもNATO加盟になびいているということは、中立の維持がそれほど困難なことなのだということです。

他国から干渉を受けない為にも一にもなく軍備と諜報体制を整える

古今東西、中立を維持するためにはこれ以外の結論はないのでしょう。