[3252]天孫降臨神話について

守谷健二 投稿日:2021/09/21 12:57

『旧唐書』を無視し続ける日本史学

『旧唐書』は、日本に統一王朝が出現したのを七世紀後半と証言する。それ以前は、倭国(筑紫王朝)と日本国(大和王朝)の並立であった、と。
倭国の方が先進国であり大和王朝は後発の国で、勢力も倭国の方が優勢であった。

 朝鮮半島に出兵し唐・新羅連合軍と戦った(白村江の戦い、663年)のは倭国であった。この戦争は、倭国の惨敗に終わったのである。唐の水軍は、筑紫に乗り込んで来、倭国王を拘束し、長安に連行していた。
 倭国は多くの国民を殺してしまった。倭王朝は国民の信頼を一挙に失い、国民の深い恨み、激しい怒りに直面していた。
 倭国の王党、王族は大和王朝を頼り救いを求めた。倭国の貴族たちは、大和王朝(天智天皇)の臣下になる事で命を援けられたのであった。

 天智七年(668)正月の天智天皇の即位は、日本統一王朝の初めての国王に即位した儀式である。天智天皇の正式な名称は『天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)』である。いかにも初代の天皇にふさわしい呼称ではないか。

 国王不在の倭国で最高責任者は大皇弟の大海人皇子(後の天武天皇)であった。大海人皇子は天智天皇に恭順を誓った。
 「壬申の乱(672年6月)」は、大海人皇子の謀反である。前年の十二月、天智天皇は病を得て亡くなっていた。その二年前には、天智天皇の片腕であった中臣鎌足が亡くなっている。大和王朝は、ちょうど権力の移行期にあり混乱が生じていた。

 倭国にも問題が発生していた。唐が倭国王を送還(671年十一月)して来た。国王の帰還である。唐朝は、倭国に和解を求めて来たのであった。

 朝鮮半島の戦争は、半島北部に位置する高句麗と、中国統一に成功した隋朝との衝突に端を発していた。高句麗は頑強で討伐に失敗したことが隋朝短命の原因であった。
 唐朝と隋朝は同族で、唐は隋の政策を受け継いだ。唐は半島の東南に位置する新羅と手を組み高句麗討伐に当たり、668年に高句麗を滅ぼすことに成功する。

 しかし朝鮮半島経営をめぐって新羅と亀裂が生じていた。今度は唐と新羅の戦争が勃発していたのである。高句麗滅亡までは、新羅を手駒として良いように使ってきた唐であったが、半島にはもう手持ちの駒はなかった。

 そこで思い付いたのが倭国の存在であった。倭国に再度の新羅討伐軍を出させようとしたのである。それが倭国王送還に込められた意味である。

 しかし、倭王朝は大和王朝・天智天皇の臣下になっていた。倭王朝は唐の要請(命令)を大和王朝(日本国)に丸投げするしか選択肢はなかった。ちょうどこの十二月に天智天皇が亡くなったのである。

天智天皇を継いだ大友皇子(弘文天皇)は、唐の要請を受け入れ美濃・尾張国で徴兵を開始していた。美濃・尾張国には百済から亡命して来た数多くの人々がいた。天智天皇は百済亡命の民に美濃・尾張の土地を与え自活を促していた。
 
 大友皇子は、彼らを中核とする軍を作り、唐の要請に応えようとした。倭国王の帰還は、大皇弟・大海人皇子の立場を微妙なものにしていた。国王不在時に大和王朝・天智天皇の臣下になっていたのである。倭国再独立を唱える者も現れていた。

 そんな中で大友皇子は徴兵を開始した。この徴兵を絶好のチャンスと見た人物がいた。大海人皇子(天武天皇)の長男の高市皇子である。「壬申の乱」は、もっぱら高市皇子の主導で進められた。大友皇子(近江朝)は、全く無警戒であった。

「壬申の乱」は、明らかな謀反である。正統性は何もない。しかし権力を構築し維持するためには、正統性は不可欠である。天武天皇は正統性を創り上げる必要があった。

 天武十年三月の詔(みことのり)で開始された修史事業は、天武の正統性を創造する作業でもあった。その核となったのは、天武を天智天皇の同母の弟と、大和王朝の系図の中にはめ込んだことである。これにより天皇制の教義(ドグマ)である「万世一系」を創り上げた。

 歴史学者たちは、養老四年(720年)の『日本書紀』撰上、和銅五年(712)の『古事記』撰上だけを問題にするが、大宝三年(703)の粟田真人の遣唐使も重視しなければならない。
 何故なら、この遣唐使は日本国の由来(歴史)を説明するために派遣されたのである。

 『旧唐書』から
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自ら雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大(きょうだい)、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。***

大宝三年には、修史は完成していたと見なければならないのです。ただその歴史では唐の役人たちを説得し納得させることが出来なかった。その為に修正する必要があった。それが和銅五年の『古事記』の撰上、養老四年の『日本書紀』の撰上になった。
 しかし修史の主要部分は大宝三年には完成を見ていた。第一の読者に唐朝を想定して修史は行われたのです。
 この修史が行われた時間は、柿本人麿の作歌活動期に完全に一致するのである。