[3231]天孫降臨神話について

守谷健二 投稿日:2021/08/17 12:07

(3229)の続きです。
大津皇子は、大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の娘・大田皇女の間に筑紫の那の大津で生まれました。
西暦661年正月の斉明天皇の筑紫行幸は「新羅討伐を自ら指揮するため」と教科書には書かれています。百済王朝を援けるため、と。そんな旅に、どうして臨月の皇女を帯同する必要があったのでしょう。

中国正史『旧唐書』は、この当時日本列島には、筑紫に都を置く『倭国』と近畿大和に都を置く『大和王朝(日本国)』が並立していたと書きます。
「倭国」は、百済、新羅の対し宗主的立場にあった。
『隋書』は、次のように記す。

《新羅・百済、皆倭を以て大国として珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使往来す。》

倭王朝と新羅・百済王朝は、君臣の関係にあった、と言う事です。それを中国統一王朝隋も認めていた。
その新羅王朝が、650年唐に走り、唐の完全な臣下となったのです。これは倭王朝に対する裏切りでした。看過できない行為です。
この時から新羅討伐は、倭王朝の喫緊の課題となっていたのです。新羅討伐の準備は着々と進められていました。機は熟していた。
しかし派兵に踏み切ることが出来ずにいた。日本国内に問題がありました。

背後に控える大和王朝の同意を取り付けることが出来ずにいた。大和王朝は新羅の背後には中国統一王朝唐が控えていることを理解していた。大和王朝が新羅と手を結ぶことも十分にあり得たのです。

そんな折、大和王朝を説得する切り札として派遣されたのが、倭国の大皇弟・大海人皇子(天武)でした。何とか説得に成功したのでしょう、中大兄皇子(天智)の娘・大田皇女との結婚は、その結晶です。

斉明天皇の筑紫行幸は、大海人皇子に嫁ぎ、身籠っていた大田皇女を無事筑紫に送り届けるのが目的でした。それは倭国と大和王朝同盟締結の象徴でした。

661年八月に始まった倭国の朝鮮出兵は、663年八月の白村江の戦の大惨敗で終わります。三万余にも及ぶ大軍の海外派兵でした。それが大惨敗で終わった。唐軍は、筑紫に押し寄せ、倭国王を拘束し、唐の都長安に連行している。
倭王朝に対する国民の信頼は、崩壊壊滅した。倭国内には王朝に対する怒り恨みが渦巻いていた。
国王不在時、倭国の最高責任者は大皇弟・大海人皇子でした。彼は、王族たちの身の安全を図るため、筑紫を離れ大和王朝の天智天皇を頼ったのでした。条件は、大和王朝の下風に就くことでした。誇り高き倭王朝は、大和王朝(日本国)の臣下になった。

大海人皇子たちが大和王朝に身を寄せた時、大来皇女と大津皇子も一緒でしたが、母の大田皇女の姿はありませんでした。そこで所望したのが大田皇女の妹の鵜野皇女(後の持統天皇)でした。太田皇女と持統天皇は、両親を同じくする姉妹です。
草壁皇子は、天武と持統の間の出生です。持統が皇后になっていましたから草壁が皇太子に立てられて(天武十年二月)いましたが、世間には、大津皇子の方に正統性があるはずだ、と云う噂が絶えませんでした。

その上、石川郎女が皇太子・草壁皇子の求愛を退け、大津皇子を選んだように、大津皇子は見目麗しくたくましい美丈夫に成長していた。周りには慕い集まる者が多くいた。
持統天皇は気が気ではなかったでしょう。我慢の限界を超えてしまった。天武天皇が崩ずるや、直ちに大津皇子を殺害してしまったのです。これが最高権力者・高市皇子の逆鱗に触れたのです。草壁皇子の即位のことなど口に出すことが出来なくなってしまった。即位することなく689年四月草壁皇子は亡くなってしまう。
持統天皇の即位は690年正月です。

草壁皇子亡き後、持統天皇の願いは、草壁の忘れ形見・軽皇子(後の文武天皇)を即位させることでした。しかし、高市皇子健在な内は、それも口に出すことが出来ませんでした。
696年七月、高市皇子崩御。持統の後の天皇の事は何も決めずに突然亡くなりました。

持統天皇は、主だった皇族、主だった貴族を宮中に呼び、皇太子の事を諮問しました。この時天武天皇の皇子の何人か皇位に色気を示した、と『懐風藻』は伝える。ここで葛野王(壬申の乱で滅ぼされた大友皇子(弘文天皇)の子、母は、天武と額田王の間の出生)が立ち、「我が国では、神代より親から子へと天位が相続されると決まっている。もし兄弟間の相続など行われれば、そこから世の乱れが生ずるのだ」と喝破した。
この葛野王の一言で、皇太子であった草壁皇子の子・軽皇子(文武天皇)の立太子が決まり、持統天皇は大いに喜び、葛野王に多くの褒美を与えた、と云う。

686年九月、天武天皇薨去。
      大津皇子殺害。
689年四月、草壁皇子(日並皇子尊)薨去。

696年七月、高市皇子(後の皇子尊)薨去。

697年二月、軽皇子立太子。
   八月、持統天皇譲位。文武天皇即位。

まさにこれこそ『天孫降臨神話』ではないか。柿本人麿は、持統朝、文武朝前半に活躍した歌人である。目の前で展開された現実を歌っていたのである。遠い古の事ではなく、目の前の現実を正統化するために「天孫降臨神話」は創られた。