[3229]天孫降臨神話について

守谷健二 投稿日:2021/08/16 06:45

(3225)の続きです。
 西暦686年九月の天武天皇の薨去から690年正月の持統天皇(天武の皇后)の即位まで天皇は空位でした。
 皇太子・草壁皇子は、即位することなく689年四月に亡くなってしまった。草壁皇子が即位出来なかった原因は、天武が亡くなると直ぐに大津皇子に「皇太子に対する謀反の罪」を着せて殺害したことにあった、と小生は見ている。これは当時の最高実力者・高市皇子の許可を受けずに密かに実行されたに違いない。これが高市皇子の逆鱗に触れ、草壁皇子の即位のことなど口にすることが出来ない状況を生んでしまった。持統天皇一派は、高市皇子の怒りが収まるのをひたすら待っていた。

 草壁皇子と大津皇子は、微妙な関係にあった。この事を見て行く。

   大津皇子、石川郎女(いらつめ)に贈る歌一首(巻二、107)
あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに

(訳)妹を待つとてたたずんでいると、私はすっかり山のしづくに濡れてしまった。

   石川郎女、和へ奉れる歌一首(巻二、108)
吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを

(訳)私を待つとて、あなたが濡れたという山のしづくになれたらよかったのに。

   大津皇子、密かに石川郎女に婚(あ)ふ時、津守連通(陰陽師)その事を     占(うら)へ露(あら)はすに、皇子の作りましし御歌一首(109)

大船の 津守の占に 告(の)らむとは まさしに知りて わが二人寝し

(訳)津守の占いに出て露見することなど、そんなことは承知の上で私たち二人は寝たんだよ!

   日並皇子尊(草壁皇子)、石川郎女に贈り賜ふ御歌(郎女、字を大名児といふ)(110)

大名児 彼方(をちかた)野辺に 刈る草(かや)の 束(つか)の間も われ忘れめや

(訳)大名児よ!私は少しの間も忘れることが出来ないのです。

 石川郎女の愛を、大津皇子と草壁皇子が争い、石川郎女は大津皇子を選んだという物語です。
 大津皇子は『懐風藻』(天平勝宝三年、751年上梓)に、身体たくましく教養深い美丈夫であったと書かれ、衆望を集めていた。

 大津皇子の母は、661年正月六日、斉明天皇の筑紫行幸に帯同され、正月八日に船中で大来皇女(おほくのひめみこ)を出産された大田皇女(天智天皇の娘、大海人皇子(天武)に嫁いでいた)です。
 この記事を『日本書紀』に発見した時、私は腰を抜かすほど驚いた。身重のそれも臨月の女性を船旅に連れ出すことなど如何して許されたのだろう。
 教科書は、この斉明天皇の行幸を「新羅討伐を自ら指揮するためのもの」と云う。どこに大田皇女を帯同する理由があったと云うのだ。 
 大津皇子は、大来皇女の弟です。筑紫の那の大津で生まれた故に大津皇子と名付けられました。今日はここまでにします。