[322]22日、23日、双葉に行ってきました。

Ms.K 投稿日:2011/03/24 10:24

差し障りがあって、本名を書くことができません。どうか、お許しください。

22日、23日と双葉で活動をしてきました。

入るとき、現地から35km地点を封鎖してあって、バスが一台止まっていて、
入ろうとすると防護服の人が出てきます。
「これから現場ですか?」
だまって笑顔で頷くと、あとはことさら何事もなく、
「十分気をつけていってください!」
と、これまた笑顔で送り出された。すごい拍子抜けでした。
現場、といわれたのがものすごく可笑しかったので、しばらく、
「現場です!」というのが口癖になりそうです。なんやねん、現場って。

双葉から4~5km離れたところから、アスファルトの道路の地割れが始まり
ます。2kmくらい近づくと、いたるところ地割れで、ほんとうに慎重に
走らないといつタイヤを損傷するかわからないくらいの道になります。

封鎖されている35kmから中は、携帯電話はずっと圏外なので、救援を呼ぶ
ことができません。パンクしたらアウトなので、とても気を遣いました。

封鎖圏内にはもちろん電気が通っている所もあるのに、電波だけはずっと
圏外だった、ということに、帰ってくるときに気づきました。あれは、
停電とか、機能不全なのではなくて、わざと電波を遮断しているのだと
いうことがわかりました。

だから、現地から通信するには衛星回線がいるでしょう。でも、衛星回線は
使用したことがないのでわかりません。よく、山で仕事する林業の人とかが
使っているとかいうあれです。

町からちょっと離れると、北海道の3000人規模の村落みたいにのどかな
風景の広がる、とても和む風景が広がるのが双葉町でした。

22日の朝に原発で爆発があって?すぐに引き返せとかいうメールが携帯に
いっぱい入ったけど、もう決めたことなので、そして先を急いでいたので
とにかく突き進みました。現地に入ったらあとはもう、ネットも携帯も
ないので、実際情報はなにも入ってこないので(ラジオは鳴るけど)
かえってよかった。よけいな不安材料がないからです。

町役場の周辺は電気が通っている。無人のガソリンスタンドが、
ネオンサインでガソリンの値段を表示してピカピカ光っているのが
印象的。作業場の蛍光灯もついたままだ。たぶん、電気が消えたとき
そのままにして逃げて、電気が復旧して逃げたときの状態で明かりが
灯っているのだと思われました。

帰ってきたら、1ミリが限界の線量系が振りきれたとか言ってたけど、
特に放射能酔いはなかった。放射線従事者の線量限界とかがあるけど、
実は、もっと近くで何時間も放射線を浴びる仕事もある。でも、その人
たちには特に線量限界なんか定められていない。何時間もの作業が
終わると、「放射能酔い」する。頭がぼーっとする感じです。アルコール
に酔ったのと近い感じだけど、顔も赤くならないし、思考力も同じ
だけど、ちょっと頭がもやっとする感じ。でも今回は町で2日間作業した
けど、そういうレベルの放射能酔いもなかったです。

22日は、ほとんど車とすれ違わなかったけれども、それでも一般車両を
1、2回見かけました。23日は、22日の何倍もたくさんの一般車両を見た。
1時間に一回くらいの割合で見ました。都合、5台は見た。こんなにたくさん
の人がこの地区で居残っているか、外から入ってきて作業しているんだと
思いました。軽トラックなんかもいました。

22日と、23日、一回ずつ、地区内を巡回する自衛隊車両を見ました。
22日は1台。23日は3台連ねて巡回していた。

ベースキャンプがちょっと高台だったので、町が見渡せた。音が遠くから
響くので、車がくるとすぐにわかる。音がしたら隠れて観察した。
隠れる必要があるのか、ないのかわからないけど、とにかく隠れた。

無人の街なので、動くものがあるとすぐにわかる。音も遠くから響く。
不謹慎だけれども、戦争ってこういう環境でやっているんだな・・・と
思った。今回自分の見えない敵は放射線と、余震だったけれども、戦争は、
こんな中でいつ、誰から発見されて撃たれるかわからない恐怖と戦うのだ、
と、静かな中で隠れながらしみじみ思った。

22日の夜の余震がひどかった。ゴオオという音が響いて、それから周囲の
建物がびりびりと音を立て始める。あわてて車庫から車を離した。
震度5強ってラジオが言っていたけど、その前の震度4の方がすごいビリビリ
と揺れた。ガスヒーターとか、ホワイトガソリンのランタンを慌てて
建物の外に出すことが何回かありました。

今回、「地震酔い」という言葉が言われますが、揺れてないのに揺れている
ように感じる、といいますが、ほんとうに地面が揺れています。それを
いちばん感じられるのは、しゃがむことです。地面でもいいし、屋内なら
床でいいので、しゃがんでみるのです。すると、ときどき地面がゆさゆさ、
と震えるように揺れます。決して、「酔い」ではないのです。
橋の上とか、鉄骨の建物の2階とかで、近くを重量級のトラックが走ると
ゆさゆさゆさ、と揺れるのを感じたことがあると思いますが、あれと同じ
感じです。地面がゆさゆさゆさ、と跳ねています。

23日も、朝方、そういう地面の揺れを何回も感じました。

22日はお天気がもったのですが、夜からかなりの雨が降りました。
23日は、雪が降り始めました。ああ、雪か・・・季節外れだなと、
思いました。今回、原発がやばくなると必ず雪が降りました。
雪雲は北西から押し寄せるので、ああまたこの風、と思った。

23日午前中はずっと降ったり止んだりだったけど、午後から晴れました。
天気がよくなかったのと、余震が続いたり、かなり体力的にもたいへん
だったので、予定から半日ほど早く撤収してきました。

帰りは、かなりたくさんの車と封鎖圏内ですれ違いました。
来るときに通った封鎖の場所の、バスも同じところにいましたが、
出るときは誰も出てくる気配もないので、そのまま素通りでした。

おいおい、残留の放射線とか測ってもいいんじゃ~とか思いましたが、
テレビで見かけるのは結局、プレス向けのパフォーマンスだったりする
だけなんだな、と思いました。

帰ってきて、車をコイン洗車でよーく洗い流し、身につけていたカッパや
帽子やマスクの「なんちゃって防護服」を廃棄処分。「核廃棄物」です。

ようやく帰宅して、荷物を仕分けして、廃棄するものは庭先に隔離して、
風呂に入ってようやく一段落しました。

体験したことで視野が広がりました。逃げることだけ考えていたけど、
どこにも逃げる場所なんか、ない。ずっと逃げることを考えていた人間が、
爆心地から3kmまで行って2日間作業をした。これで、怖さが消えました。
これが、正面突破、ということなんだとわかりました。津波に船を立てて
突っ込んで乗り切るのと同じですね。

まだ明けて一日目の朝ですが、こまかいことがどうでもよくなっている
自分が、自分でおかしいです。体験ってほんとうに、大事ですね。
体験こそが財産です。以上、ご報告でした。