[321]お土産と福島と原発と

ゆみこ 投稿日:2011/03/24 06:48

群馬のゆみこです。3月21日(月)に避難していた京都から群馬へ帰ってきました。
避難していた一週間、わたしは所かまわず(電車の中、大通りを歩きながら、ネットカフェなど)ぼろぼろ泣いてばかりいました。たぶんきちがいだと思われたでしょう。関西はお店から乾電池が無くなるくらいで平和なものですから、わたしのような切迫感はなく、それで孤独感が増していたとき、この掲示板がよりどころでした。ありがとう。(迫感のない関西を責めているわけではありません。原発から700km離れていれば切迫感がなくて当たり前です。)京都から群馬に向かう新幹線の中で、自分がぐんぐん元気になるのを感じました。高崎に着くころには、3月11日の最初の地震すらなかったような、晴れやかな気持ちになっていました。やっぱり群馬はいいです。

翌3月22日(火)から出勤して、課のみんなに謝りながら、「もう炉心の爆発というような危険はなくなりましたので帰ってきました」と言うと、にやにやして許してくれる人、顔をしかめながらも許してくれる人、声を上げて笑いながら(受けてる)許してくれる人とさまざまに、みんな許してくれました。帰りに京都駅で急いで買ったお漬物と阿闍梨餅(あじゃりもち)を職場に宅配便で送ってもらってあり(すごく重たい)、それを課のみんなに配って許してもらいました。
「一人だけ助かろうなんて思っちゃだめだよ!」と言ってくるいつも正しいおばさん(ペットボトルのキャップを集めたりしている)もお漬物と阿闍梨餅のお土産で懐柔(かいじゅう)。わたし今までお土産をばかにしていたけど、すごく効果がある。勉強になりました。

さて、わたしは先生の「福島県産の生鮮食料品を食べましょう」運動に賛成します。やっぱり副島先生はすごい!

落語の「親子茶屋」で、ある若旦那が「もし火事で焼け出されたら」という話をする場面があります。
「そら、焼け出された当座はみな親切にしてくれはります。うちへ来てお泊り、これ持って往(い)んでお使い、と言うてくれるが、これは続かん。そのうちあっちへ行っては嫌がられ、こっちへ行っては嫌われして・・・」

これが世の中です。自活できない大人は厄介者。そんなの当たり前。カフカの『変身』のグレゴール・ザムザです(『日本のタブー』18頁参照)。だから福島の人たちが仕事ができるように、商売ができるようになることが大事です。一時の義捐(ぎえん)金では完全な復興はできません。わたしたちが福島県産の商品の消費者になろう。もう始めてる人もいて、すばらしいですね。

副島先生が、ついこの間は西へ逃げろ、今度は福島に住むとおっしゃるので、その変わりようについて行けないという人もいると思います。でもね、君子は豹変(ひょうへん)するんですって。養老猛(ようろうたけし)が『バカの壁』で書いてたでしょ。

語源由来辞典 「豹変」:『易経(革卦)』の「君子豹変す、小人は面(つら)を革(あらた)む」に由来する。これは、豹の毛は季節によって抜け替わり、斑紋が鮮やかになるように、徳のある君子は過ちを改めて良い方に移り変わるが、小人(徳のない人)は表面的に改めるだけで本質は変わらないといった意味である。
http://gogen-allguide.com/hi/hyouhen.html

この場合、西へ逃げろというのが過ちというわけではなく、あの時点では正しいご判断であり、原発の状況が変わった(落ち着いてきた)ことが先生と石井さんの命がけの調査とそのほかの世界の動きの分析から、今度は「福島へ」という風にお変わりになったのだと思います。
「信念がない」と見る人もいると思いますが、信念とはただの凝り固まった考えのこともあります。先生はもっと広い視点からの信念でお考えなんだと思います。

今後の日本の原発について、わたしなりに考えました。やっぱり原発は減らしていって、終(しま)いには無くすのがいいと思います。原発が無くてもほかの安全な方法で電力は十分まかなえるそうですから。
しかし、56基もある原発をどうやって無くしていくのか、途方にくれてしまいます。そこで、まず、こんなにたくさん原発があるという現実は、自分にも責任がある、と日本中の人が認識することが大事だと思います。

福島の原発で発電された電気は全部東京へ送られているかもしれないけど、原発を推進する佐藤雄平福島県知事を選んだのは福島県民です。そして息子さんや娘さんが東京の学校に行ったり、東京で就職している人もたくさんいるでしょう。

今は疲れきっているけれど、立ち直ったら福島の人もその責任を考えたほうがいいと思います。これは、別に福島の人を責めてるわけじゃないんです。「責任を持つ」というのは「自分を責める」のとは違います。「あいつが悪い!」と言っているうちは、あなたの人生は始まらないんです。ぜんぶ自分に責任がある、と思って初めて人生を動かせるようになる。つまり、結果を変えたければ原因を取り除かなくてはならない。人生は自分の意思とは関係なくふらふらとあてどなく流されていくように思えるのは、いろいろなことを他人(ひと)のせいにしてしまい、本当は自分が原因だと気づいていないからです。

とても偉そうなことを書きました。こんなことを、いま公(おおやけ)に書いてはいけないかな、とも思いました。でも、書かないと忘れちゃうので、書きました。わたしもまだぜんぶ思い通りに人生を動かせているわけではありません。練習中です。でもね、何事も訓練です。だんだん出来るようになる。 以上です。