[3181]柿本人麿と『日本書紀』

守谷健二 投稿日:2021/07/06 12:01

守谷健二です。
  今回は歌聖柿本人麿と『日本書紀』の関係を述べたいと思います。
『日本書紀』の撰上は養老四年(西暦720年)、人麿の活躍したのは持統朝(687~697年)から文武朝の前半(697~701年頃)です。『日本書紀』の完成と二十年以上の隔たりがあり、人麿は『日本書紀』の編纂と無関係であったように見えます。
また『古事記』の完成は、和銅五年(712年)で人麿の活躍期と隔たりがあります。これらの事から、人麿は修史事業に無関係であったように論じられてきました。本当にそうでしょうか、私は違うと思います。

『日本書紀』の修史事業は、天武十年(681)三月の天皇の詔(みことのり)で始まっています。

《朕(われ)聞きたまへらく、『諸家のもたる帝紀及び本辞、既に正実に違い、多く虚偽りを加ふ』と云えり。今の時に当たりて、其の失を改めずは、未だ幾年を経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基(大事な基礎)なり、故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(十分に検討)して、偽りを削り実を定めて、後葉に伝えむと欲(おも)ふ。》古事記・序より

天武天皇の晩年には修史事業は開始されていたのです。天武天皇にとり修史は、最も重要な課題でした。
何故なら、天武天皇は「壬申の乱(672年6月)」と呼ばれている暴力で、兄・天智天皇の長男・大友皇子(明治に追号された弘文天皇)を滅ぼして天皇に即位したのです。故に正統性を欲した。
天武の修史が、正統性の創造にあったことは、僅か一カ月にも満たない「壬申の乱」に『日本書紀』が特に一巻を設けて顕彰していることで明らかです。

天武天皇(672~686)は何よりも正当性を欲した。持統天皇は、天武の皇后です。夫の最重要事業(修史)を引き継いだのは当然でした。

持統朝で修史作業は極めて精力的に進められました。歌聖柿本人麿が活躍したのは、ちょうどこの時代です。
大宝元年(文武五年、701年)には、『日本書紀』の原型は完成していたのです。この年の正月、粟田真人を遣唐使に任命している。

粟田真人の使命は、「日本国の由来(歴史)を、唐朝に説明する」事にあった。

《日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいは云う、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
その人、入朝する者、多く自ら矜大(誇り高く堂々としている)、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・》旧唐書、日本国伝より

『旧唐書』の日本国伝は粟田真人の遣唐使の記事で始まっている真人の遣唐使の記事で始まっている。上の記事は、その日本国伝の最初のものである。非常に興味をひかれる。
唐の役人たちは、粟田真人の説明する「日本の歴史」を、出鱈目だと言っているのだ。
当然でしょう、倭国も日本国も唐にとって未知の国ではなかったのだもの。661年から663年にかけて、朝鮮半島を舞台に倭国と唐は直接戦争をしていたのだ。倭国王も唐の捕虜になっていた。

粟田真人は、唐の役人たちを説得することが出来なかった。『日本書紀』の原型は、修正せねばならなかった。

今私が問題にしたいのは、天武の晩年から、文武朝の前半までに『日本書紀の』原型が完成を見ていた、と言う事です。この時間は、柿本人麿の活躍時期と完全に重なるのです。

   天皇、雷岳(いかづちのをか)に御遊(いでましし)時、柿本朝臣人麿の  作る歌一首

 大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 庵らせるかも(巻三・235)

(大君は 神にしませば)のフレーズは、人麿に始まっている。人麿の独創である。

   日並皇子尊の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌

天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天(あま)の河原に 八百萬(やほよろづ) 千万(千万)神の 神集ひ 集ひ座(いま)して 神分り 分かりし時に 天照らす 日女(ひるめ)の尊 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて 神下し 座(いま)せまつりし 高照らす 日の皇子は 飛鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷くきまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神あがり あがり座しぬ わご王(おほきみ) 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴(とうと)からむと 望月の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し 御殿(みあから)を 高知りまして 朝ごとみ 御言問はさぬ 日月の 数多(まね)くなりぬる そこ故に 皇子の宮人 行方(ゆくへ)知らずも(巻二・167)

 
 持統三年(西暦689年)、皇太子・草壁皇子が亡くなった時、柿本人麿が創った歌です。
 注目すべきは、天皇、皇子、皇女に対し、《高照らす 日の皇子》の称号が、この時、この歌で始まっていることです。

 これ以前の天皇は、神として詠われていません。天智天皇も天武天皇も、唯の人間として詠われています。
 天皇、皇子たちを、《高照らす日の皇子》と神の子孫と歌うのは、『万葉集』では柿本人麿に始まっている。
 そして『日本書紀』の原型が、精力的に編纂されていた時期と、柿本人麿の活躍期が完全に一致するのです。

日本史学会、万葉集の研究者たちは『旧唐書』を完全に無視しています。皇国史観に都合が悪いからでしょう。皇国史観はいまだ根強く生き続けています。