[3159]「ハワイ王国 最後の「悲劇の女王」、リリウオカラニの物語 」

副島隆彦 投稿日:2021/06/12 12:32

副島隆彦です。 今日は、2021年6月12日(土)です。
 私は、ようやく徳間書店から出る金融本『目の前に迫り来る大暴落』(6月末には刊行される)を書き上げてホッとしています。あまりに考え込んで、頭痛と鼻血 (高血圧のせいだろう。鼻血は気持ちがいい)で苦しみましたが、何とか昨日、書き上げた。

今、今日のぼやきで、西森マリーさんの『カバールCabal の正体』の宣伝をしています。
宣伝を読んでください。 
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世界人類の99.99%を支配する カバールの正体

私は、今朝、ネットで拾った文章で、ナショナル・ジオグラフィックス National Geographic に重要な歴史事実が書いて有った。それを以下に載せます。

私は、ハワイの最後の女王リイウオカラニ のしっかりした写真を初めて見た。

私は、1895年に滅んだ、ハワイ王国の最後の悲劇の女王 の話を聞いていて、自分が20年以上も前に、ハワイに観光旅行に行ったときも、ワイキキにある イオラニ宮殿(旧王宮) にも行った。その時、私は、どこで手にれたか覚えていないが、「絞殺(こうさつ)された、最後の女王の死体を、“パイナップル王”の白人のドールが両腕で抱えて、王宮の階段をゆっくりと降りてきた」という説明文を英文で読んだ記憶がある。

ドールが女王を殺したのだ、という説を私は現地でチラと耳に挟んだ。それ以上は分らない。女王がどういう女性だったかは、知らなかった。私には調べようもなかった。しかし、本当は、ハワイの原住民博物館に行って、いろいろと聞けば分ったことなのだが。その時間が無かった。真珠湾の戦艦アリゾナの、日本軍の爆撃、沈没の慰霊の船には乗った。
 以下の記事のあとに、私の考えと知識を書きます。 副島隆彦記

(転載貼り付け始め)

◯ 「ハワイ王国最後の「悲劇の女王」、リリウオカラニの物語 」

2021年6/11(金) 文=ERIN BLAKEMORE/訳=鈴木和博
ナショナル・ジオグラフィック誌

「 先住民のために立ち上がるも、白人に退位させられ王国に終止符 」

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(Liliʻuokalani、1833~1917、79歳で死)
 ハワイ最後の女王、リリウオカラニ。1895年にプランテーション所有者たちの陰謀によって退位させられてから、20年以上が経過したころの写真。世界中で親しまれる名曲「アロハ・オエ」の作者としても知られる。(LIBRARY OF CONGRESS)

リリウオカラニは、ホノルルの宮殿で1枚の書面を前にためらっていた。署名して退位すれば、女王としての立場を失うことになる。だが、6名の忠実な臣下は解放され、彼らが反逆罪で処刑されることはなくなる。彼らは100名に満たない仲間を集め、ハワイの女王としてのリリウオカラニの立場を守ろうとしたが、小競り合いの末に鎮圧されていたのだ。

ギャラリー:ハワイの美しい島に残る、ハンセン病隔離の歴史 写真15点

のちにリリウオカラニは、自叙伝にこう記している。「自分だけのためならば、署名するよりも死を選んだことでしょう。しかし自分の立場を考えると……私のペンによって食い止めなければ、多くの血が流れてしまうところだったのです」

1895年1月、彼女の署名によって、ハワイ王国の歴史に終止符が打たれた。その後まもなく、リリウオカラニが統治していた島々は、ハワイを金のなる木だと見なすようになっていた白人移民たちの働きかけにより、米国に併合される。

砂糖ブームがもたらした政治的危機
 ハワイの各島は、長いこと世襲制の王が統治していた。1778年に初めてヨーロッパの探検家ジェームズ・クックがやってくると、貿易によって文字などが発達した。ハワイ島の戦士カメハメハは、ヨーロッパ人が持ちこんだ武器を活用してほとんどの島を征服し、1795年にハワイ王国の建国を宣言する。これにより、他国からの干渉を受けにくくなった。

一方で、ハワイの伝統的な社会は失われていった。感染症が持ちこまれたせいで、1840年までに先住民の数はクックが訪れたときからなんと84%も減少した。ヨーロッパの考え方を取り入れた立憲君主国となったことで、従来の社会構造も一変する。

布教者から、サトウキビのプランテーションの用地買収に訪れる米国人起業家まで、島に移住する西洋人が増えた。プランテーションの労働力として、東アジアをはじめとする世界中から低賃金労働者が集められた(引用者注。日本からも、このサトウキビ刈りの農夫として初めての移民がハワイに行った)。
 ほどなくハワイはサトウキビの一大生産地となり、1874年に米国に輸出した砂糖は1万トンを超えた。
 ハワイの重要性は経済面だけにとどまらなかった。アジアと米国の間に位置することから、太平洋上の拠点を探していた米国は、ハワイを戦略的要衝と見なすようになり、米国に輸出する砂糖に多額の関税という圧力がかけられた。

1874年に新たに王となったカラカウアは、米国との間に互恵条約を翌年に結び、オアフ島の真珠湾や、現在はフォード島と呼ばれている小島の割譲と引き換えに、砂糖を含む輸出品の自由貿易を可能にした。
 ちなみに、カラカウアは世界一周旅行の途中で現職外国元首として初めて日本を訪れ、明治天皇に会ってハワイへの移民を増やすように交渉している。

米国による砂糖への投資は急増し、それとともに米国からの干渉も増加した。1887年には、いずれもハワイ王国生まれの法律家かつ政治家であるローリン・サーストンとサンフォード・ドール(「パイナップル王」として知られるジェームズ・ドールのいとこ)に率いられた有力な白人サトウキビ農場主たちが、カラカウアの浪費スキャンダルに乗じて武力蜂起し、国王からほとんどの権力を奪う新憲法への署名を迫った。

「銃剣憲法」とも呼ばれるこの憲法では、外国人の投票権が認められ、アジア人労働者や低収入者の投票権は制限された。その結果、75%にあたる先住民の投票権が奪われた。一方、ハワイ連盟と名乗る白人農場主たちは、少数派でありながら実質的に島を支配することになった。

経済危機と政治危機がハワイを襲ったのは、1890年代のことだ。米国で、ハワイの砂糖産業と競合する他国の砂糖税を撤廃する法案が可決されると、砂糖の価格が急落する。農場主たちは、経済を安定させ、王国に対する優位性を保とうと、ハワイの米国への併合を訴え始めた。

無血のクーデターから二転三転
 1891年、カラカウアが死去し、妹のリリウオカラニが後を継いだ。1893年、リリウオカラニは、兄が署名した銃剣憲法に替えて、在留外国人の投票権を取り消して国王の権力を強化する憲法を制定しようとした。

それに対し、サーストンと武装勢力はリリウオカラニの宮殿近くに集まり、女王の退位を要求した。だが、米国公使ジョン・スティーブンスの要請により、米国人の人名と財産を守る名目で海兵隊がオアフ島に上陸すると、リリウオカラニは守備隊に降伏を命じ、この機に乗じてクーデター派は王制の廃止を宣言。戒厳令を敷いて宮殿に米国の旗を掲げた。

これは実質的に無血のクーデターで、ドールが率いる臨時政府によって米国併合の動きは加速すると見られた。1893年2月には、ベンジャミン・ハリソン米国大統領も併合条約に署名した。
 しかし、それから1カ月も経たずにグローバー・クリーブランドが米国の大統領に就任すると、条約を撤回し、ジェームズ・ブラントらをハワイに送ってクーデターの調査を行った。ブラントは報告書にこう記した。「人民の感情は間違いなく女王を支持し、臨時政府と併合に反対している」

クリーブランドはクーデターを「重大な恥辱」と呼び、スティーブンスを罷免して新たな公使に女王の復位を命じた。米国の後ろ盾を得たと考えたリリウオカラニは、クーデターの参加者は王国の法に照らして処罰されるべきだと主張した。

ところが、ドールは屈することなく、臨時政府は合法的であり、武力によってのみ排除できると反発した。米国もそれ以上の干渉を行わなかったため、リリウオカラニは王位を維持しつつも、ドールを止めることはできなかった。

1893年12月、米国議会はクーデターの独自調査に乗り出す。ブラントの報告書に対する議会側の回答としてまとめられたモーガン・レポートは、臆面なく併合支持の立場をとっており、歴史家のラルフ・カイケンダールによれば「女王以外のあらゆる人の容疑を晴らす」内容だった。

議会がそれ以上行動を起こすことはなかったが、ドールの臨時政府は急ピッチで政権の基盤を固め、1894年7月にはドールを大統領とするハワイ共和国が誕生する。
 半年後の1895年1月、王制派のハワイ人ロバート・ウィルコックスが反乱を起こした。少なくとも1000人のハワイ先住民が集まるとの想定に反し、実際に集まったのは100人程度で、3回ほど短い戦闘が行われただけで警察に降伏した。

その結果、反乱に加わった191人に加え、自邸から武器が見つかったとしてリリウオカラニも逮捕された。リリウオカラニは、死刑宣告を受けた6名の支持者の解放と引き換えに、正式に退位した。彼女は5年の重労働刑と罰金を言い渡されたものの、その刑の代わりに自宅軟禁が続き、1896年にドールから恩赦を受けた。

米国に併合され準州に
 クリーブランド政権は、ハワイへの武力介入には否定的だった。1898年に米国とスペインの間で米西戦争が勃発すると、新大統領のウィリアム・マッキンリーは、遠洋での補給能力を増強して米国海軍の戦略的優位性を高めるため、選挙公約でもあったハワイ併合を実行した。上下院にも共同決議を呼びかけ、1898年8月、ハワイは米国の準州となる。

ハワイはその後61年にわたって準州(アソシエイト・ステイト)であり続けたが、1959年に米国50番目の州となった。
 王位を失った女王はどうなったのだろうか。リリウオカラニは、その後何年にもわたり、一族の土地を取り戻して米国政府から補償を受けるための闘いを続けた。退位から20年近くが経った1911年には、ハワイ準州から終身年金が与えられることになった。

1993年、米国議会は、ハワイ先住民が主権を「直接的に放棄したことはない」旨を認める共同決議を採択した。ただし、これによって米国の政策が変わることはなく、彼らは今も政治的主権のない先住民グループの一つでしかない。

現在では、ハワイの島民のうち、先住民の子孫は10%ほどしかいない。白人と比べると、低い教育水準、高い失業率、貧困、結核の罹患率や喫煙率、肥満率の高さなど、健康面や社会面での格差は大きい。
 しかし、先住民の人々の、自らの文化に対する誇りは失われていない。1970年代には、ハワイの先住民たちが、言語や慣習を保存するための活動を再開した。これが主権運動につながり、現在も政府による承認を求めている。カウアイ島で教師をしているケアリイ・ホールデンさんは、2014年の公聴会で「私たちは独立した主権国家なのです。その真実に気づきつつある人が増えています」と述べている。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。これが、真実のハワイ島の歴史だ。
 私たち日本人は、観光旅行で大勢がハワイに行くが、ハワイの本当の歴史を知らない。
日本軍による真珠湾攻撃のことだけを、少しだけ知っている。それも、アメリカによって、
昭和天皇以下が騙されて、やらされた、奇襲攻撃だった。この事実が、この20年間の歴史研究ではっきりしてきた。スティネット著の「ザ・デイ・オブ・デシート」 “ The Day of Deceit
“ 『欺瞞(ぎまん)の日』(翻訳書は文藝春秋刊、アメリカの手先出版社のくせに、威張っているから真実の本も出す。訳をすこし、バカな編集者が改悪している )を読みといい。

アメリカの手先ばっかりやって、「反共精神で、中国と戦うぞ」ばっかり言っている、ディープステイトの自覚的な子分をやっている、バカどもは、少しは歴史の大きな真実を考えなさい。自分の、その足りない頭(おつむ)を何とかしなさい。

ここからは、私、副島隆彦 の 簡略な ハワイ論だ。そのうち、まとめてしっかりした、私のハワイ論を発表します。
 最後の女王は、日本の明治天皇に、手紙を書いて「ハワイを助けてください」と懇願した。明治天皇 は、金剛(こんごう。日本初の本格的な戦艦。確かシーメンス事件の時に問題になった船 )をハワイに派遣して、ホノルル湾に停泊していた。しかし、何も手出しできなかった。
ただし事態を日本の外交官と軍人たちが目撃している。それは、国家資料として残っているはずだ。

私は、ワイキキの シェラトン・モアナサーフライダーに泊まっていたのだが、その反対側にある プリンセス・カイウラニというホテルの名前の、カイウラニ妃の由来を今も知らない。日航のクルーたちの宿泊場所だった。朝のミーテイングを機長を中心にしてロビーでやっていた。

オアフ島の北の、ダイヤモンドヘッドを回り込んだ北側に、断崖絶壁の観光地があって、そこから飛び降りて、カメハメハ大王のハワイ統一に反対する部族の多くの者が死んだ。
 私は、カウアイ島にも行ったが、そこまでも、カメハメハ大王の軍隊が来て、おそらくキャプテン・クック(クック船長)から貰った大砲で、島民を制圧して、反抗者を皆殺しにして、ハワイの統一を実現した。この歴史は、沖縄の 尚寧王(しょうねいおう?)の征服、統一と似ている。日本の、家康、秀吉がやったことも同じ構造だ。当時の最先端の兵器で、国家統一をする。英人キャプテン・クックと カメハメハ大王から、100年経った、7代目ぐらいが、このリリウオカラニ女王だ。

ハワイの原住民系の人たち(多くは、今では白人との混血だ)は、あのフラ・ダンスの踊りの中の、さらに、その中の神聖な儀式の中に、脈々と、今も自分たちのハワイ民族の感情を伝えている。それは、今も全米各州で見られる、インディアンたちの抗議と、同じものに見られるのだろう。

ただし、ハワイ原住民は、ポリネシアン(メラネシア系や、ヤップ人とは少し違う)。私たち日本人もポリネシアンだから、どこかで、同じ血が流れていることを感じる。だから、日本のオバサンたちが、あんなにフラダンスに狂う(人もいる。少し、下火になったのかな)のだ。 昭和に、日本民衆が踊り狂った、盆踊りと花見の時の、東京音頭(とうきょうおんど)から、どれぐらいの違いがあるのだろう。根っ子は同じだろう。 私たちの体の中に流れる、同じポリネシアンの血だ。

私は、日本民族の知識人だから、こういうことになると、自動的に脳(頭)が騒がしくなって、少し頭がおかしくなる。それでいいと、最近は思うようになった。 生来の 知識人が、自分たちの過去の歴史の真実を掘り起こして書いて、残す(遺す)ことで、皆の注意を促さないと、もう誰も、後後(あとあと)に伝えてゆくことが出来ない。 副島隆彦拝