[3126]『旧唐書』と『新唐書』の間

守谷健二 投稿日:2021/05/04 12:14

   お久しぶりです。守谷健二です。
 性懲りも なく『旧唐書』の話を書きます。平安王朝から明治政府、第二次世界大戦の敗北まで、日本の権力は『旧唐書』を隠し続けてきた。『旧唐書』の欠を補い、誤りを正すために編まれた『新唐書』があるのだから、欠陥「史書」である『旧唐書』を見るまでもない、という理屈でした。『新唐書』だけを『唐書』と扱っていました。

しかし、これは日本だけの現象だったのです。『旧唐書』と『新唐書』を比べて見れば、『新唐書』の方が誤りが多いことは、一目瞭然なのです。

 詩人・李白が乗船中、酒によって水面に映る月を取ろうとして船から転落して死亡した、と云う有名な俗説をさも事実のごとく書き入れているなど、『新唐書』は、「史書」としての資質を問われるような記事を多く採用している。

 『資治通鑑』は、司馬光が英宗の詔で1065年~1084年の間に編纂したが、司馬光は『新唐書』(1060年に上梓)には目もくれず、全面的に『旧唐書』(945年上梓)に依拠して「唐記」を造っている。『新唐書』は完成した当初から問題の多い「史書」と認識され、中国では少し軽蔑されている「史書」だ。

 日本だけが『旧唐書』の不備を補い、より完璧に近づけた正当な史書として『新唐書』を崇め奉り尊重して来たのである。
 何故なら『旧唐書』は、日本記述を、「倭国伝」と「日本国伝」の併記で作っている。七世紀半ばまでを「倭国伝」(663年の白村江の戦は、倭国が相手であったと明記する)で作り、「日本国伝」は、703年(大宝三年)の粟田真人の遣唐使の記事で始めている。

 つまり、663年から703年の間に、日本では代表王朝の交代があった、というのが『旧唐書』の認識である。
 これに対し『日本書紀』は、日本国の開闢以来、王朝の交代はなく「万世一系」の天皇によると統治が続けられてきた、とする。これが日本の王朝の正統性の根拠であった。日本の王朝にとって『旧唐書』は何とも都合の悪い、否定しなければならない存在としてあった。

 それに対し『新唐書』は『日本書紀』と同様、日本国は、天御中主を祖とする「万世一系」の天皇の統治する国と書きます。
 『旧唐書』の完成は945年、『新唐書』の完成は1060年です。この百十五年の間に、中国の認識を変える何か特別な事件があったはずです。これを探るのが今回のテーマです。

『新唐書』が『旧唐書』によってであったは、東大寺の僧・奝然(ちようねん)が984年に宋の太宗に献上した『王年代記』に拠ってであることは判明している。

 つまり、宋代に新たに手に入れた資料によって『旧唐書』の記述を変えたのだ。これは本来禁じ手のはずである。『王年代記』は、唐代には存在していない史料である。『王年代記』は、日本の平安王朝の主張に過ぎないのだ。それに基づいて正史『旧唐書』の記述を書き換えるなど行ってはいけないことだ。前代未聞の事である。しかし、日本の王朝にとってこの上ない好都合であった。

 奝然は、『王年代記』だけを献上したのではない、銅器十余事も献上している。これらの銅器は、日本の奥州で採れた黄金で満たされていた。

(歴史学研究会編『日本史年表』岩波書店)は「982年、陸奥国に唐人に給する答金を貢上させる」と書く。
 この『年表』は、三百九十歴史学研究会が総力を結集した研究会が総力を結集した現在の日本で最も詳細で信頼のおける『年表』である。

 奝然が、中国に渡るや、即座に皇帝・太宗に謁見を許された秘密もここに在ったのだろう。
 奝然が帰国後、988年、今度は奝然の弟子の嘉因が目も眩むような豪華な宝物を持参して宋を訪れている。その宝物の詳細な目録を『宋史』は記す。まるで正倉院宝物の上等な部分をごそり運んだような印象である。当時の僧侶は、国家公務員で奝然も嘉因も王朝の命で宋に渡ったことは明らかだ。

 当時、アラビアの冒険商人たちが、インド洋からマラッカ海峡を経由する海路を開拓し、しばしば中国を訪れるようになっていた。陸路のシルクロードで運ぶより大量の品物を運ぶことが可能になっていた。その為、中国国内の商工業は盛んになり、沿岸交通も活発化していた。
 894年、日本の遣唐使は廃止されたが、民間の交易船がしばしば筑紫を訪れるようになっていた。

 日本が求める人気の品物に「経史、文籍」の類があったことは数々の資料により明らかである。当然宋の商人たちも心得ていただろう。最新の正史である『(旧)唐書』(945年上梓)を持ってきたに違いないのだ。

 その『旧唐書』を見た平安王朝は、驚愕しただろう。王朝の連続性、天皇が「万世一系」であることが、日本統治の根拠である。『旧唐書』は、それを否定する。何が何でも『(旧)唐書』を書き改めてもらわなければならなかった。平安王朝は、藤原道長の時代が始まる直前、『源氏物語』が書かれる直前で、全盛期を迎えようとしていた。
 宋朝に『旧唐書』に替わる正史『唐書』を書いてもらう、と云うのが平安王朝の固い決意であったろう。

 宋朝にも問題があった、海洋貿易が活発になり、国内の商工業が盛んになり、国民の生活も豊かになり、当然税収も増えたのだが、宋王朝の台所は常に火の車であった。

 北辺に遊牧騎馬国家の「遼」が重くのしかかり、中国古来の領土と信ずる燕州(今の北京中心)も領土とし、中原に肉薄していた。
 宋朝は、王朝成立の当初から燕州回復を試みたが、一度も勝つことが出来ず、反対に毎年膨大な金銀、絹、食料、美女などの貢納を義務付けられたのであった。宋朝は、お金で平和を贖はねばならなかった。宋は「遼」の属国であった。

 日本からの黄金や宝物は、宋の台所の大いなる助けになったのである。新たな『唐書』の完成時には、さらなる黄金の献上も約束した。
 マルコ・ポーロの『東方見聞録』の「ジパングの黄金伝説」と元の皇帝フビライ・ハンの日本に対する異常な執着は、この時の副産物である。