[3069]米中(べいちゅう)関係 の 今後の重要な会談だった。
副島隆彦です。 今日は、2021年3月30日(水)です。
コロナウイルスとワクチン の話は、どこに行ったのか? 今は、日本ではワクチンを医療従事者に打っている段階で、これから、「静かに、静かに」一般国民にも打ち始めているのか。
打ちたい(接種したい)人は打つ。打ちたくない人は、用心深く、打たない。副作用( side effect サイド・エフェクト )が、どんどん出て、コワイ、コワイが、広がれば、金持ちの、保守の人間たちが、一番、ワクチンを嫌(いや)がるだろう。 コロナワクチンの問題 は、ワクチン肯定派=政府側 対 反政府(反権力)の 問題ではない。 保守の側だけでの問題だ。
貧乏な老人たちは、たった2千円なのだから(あるいは無料)、どんどん打つだろう。そして、「自分の体が一番、大事」で、臆病者(注意深い、と言う意味)の保守と、金持ち層が、 一番、打ちたがらないだろう。 だから笑い話だ。
私、副島隆彦の見方(みかた)では、「世界圧力」(ディープ・ステイト)が、日本政府(菅政権)に、ギュウギュウと命令するので、日本人もワクチンを接種させられる。菅首相たちも、実にイヤそうな顔をして、嫌々(いやいや)ながら、「国民、全員、接種して下さい」と言っている。本当にイヤそうに言っている。
そして副作用(サイド・エフェクト。副反応?笑い)の 病人がたくさん出たら、またバンバン、叩(たた)かれるのは、自分たち政府と、厚労省と、国立感染症研究所の「ワクチン推進派」の医者たちだ。このことを菅首相たちは、分っているから、皆、白けて、浮かぬ顔をしている。日本人全部で、この「世界圧力」に耐えているということだ。だから「こんなワクチンなんか、要らない。全部捨てろ」と、言うだけの度胸の有る責任者が、出てくればいいのだ。
金融セミナーの参加者からの質問で私が当日、答えなかったものに、今、どんどん、私の即答の答えを、送っている。
以下に載せるのは、米中(べいちゅう)関係、どころか、これからの世界政治にとって、非常に重要な、内容なので、以下の評論文を、全文、転載する。
書いた人は、遠藤誉(えんどうほまれ)女史で、筑波大学の名誉教授の、偉いおば様である(80歳?)。
私は、この人のことを、自分の中国本の最新刊の『アメリカの争乱に動揺しながらも 中国の世界支配は進む』(ビジネス社刊)の 中で、中国の、最先端の、 半導体、 量子暗号通信、 核兵器開発 の それこそ、世界最先端の学者たちの、もの凄い勢いを、遠藤誉女史の 大著(たいちょ)、『中国製造 2025の衝撃』を、徹底的に、読み込んで、その重要性を、書いて、詳しく説明した。
遠藤女史からは、何も言ってこない。 そして、世界基準の学者であり、中国語で考えることも出来る彼女が、以下に、私が、全部、転載するとおり、大変、重要な 解説文を書いている。 この文を、皆さん、しっかり、じっくり読みなさい。
他の、日本国内で、流通している、最新の米中会談 (3月18,19日。アラスカ州のアンカレッジで)への解説記事は、すべて、下(くだ)らない。何を書いているのか、書いている新聞記者たち(会談の現場に行った者たち)自身が、分っていない。以下の 遠藤解説文を、読めば、全部分る。だから、遠藤女史には失礼だが、その全文を、勝手に、以下に、私、副島隆彦が、貼り付ける。
ひと言で言えば、「中国、つ(強)えー」、「中国は、これからは、もう黙らない。打たれっぱなしではない」「中国が、世界に向かって、自分の方が、アメリカよりも、もう、上だ。自分の方が、もう強い。世界中の多くの国々が、中国の言うことを聞く」と、宣言している。 日本人は全員、この文を読んで、本気で、考えた方がいい。決して、むずかしくない。
だが、世界を動かしている 政治家たちの 政治言論、というのを、読み慣れていない人たちには、理解できない。それはそれで仕方がない。それでも、ここの
学問道場に集まっている人たちは、読んで考えることが出来るだろう。
副島隆彦記
(転載貼り付け始め)
「米中アラスカ会談――露わになった習近平の対米戦略 」
2021年3/22(月) 遠藤誉(えんどうほまれ)筆 ヤフーの 評論の欄
https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20210322-00228687/
米中外交トップ会談冒頭で激しい応酬があったが、米中ともに「満足」という結論に達した。背後には、今年が中国共産党建党100周年と、屈辱の北京議定書(ぎていしょ、プロトコール)120周年 に当たるため、習近平の野望と周到な戦略がある。
◆異常な中国側の長時間反論
3月18日から19日にかけてアラスカのアンカレッジで開催された米中外交トップによる会談に、アメリカ側からは(トニー・)ブリンケン国務長官と(ジェイク・)サリバン大統領補佐官(国家安全保障担当)が出席し、中国側からは楊潔チ中共中央政治局委員(兼中央外事工作委員会弁公室主任)と王毅(おうき)外相(国務委員)が出席した。
冒頭、各自2分間ずつほど話して、それから記者は退場することになっていた。
最初に話したのはホスト国アメリカの(トニー・)ブリンケンである。
彼は「新疆ウイグル・香港・台湾・(対米)サイバー攻撃および(アメリカの)同盟国に対する経済的強圧など、中国の行動に対する我々の深い懸念についても話し合いたい」と攻撃の口火を切った。時間は2分半ほど。米側通訳を入れると6分ほどになった。次にサリバンが「世界中の同盟国や友好国から懸念を聞いている」と、「対中包囲網」を示唆した。
さて、対する中国側の反論。
もちろん先に口を開いたのは楊潔チだ。これがなんと、延々20分 近くも続いたのである。正確に計れば16分半くらいだが、途中で通訳を入れることなく、まるで全人代か党大会におけるスピーチのように、中国建国時の歴史まで話し始めた。
「今年は第14回五ヵ年計画を発表したばかりだが、中国の五ヵ年計画は1952年に始まり・・・」と、ゆったりした口調で話し出したので、「何ごとか?」と逆に画面にクギ付けになった。
しかし助走段階が終わると、だんだん語調に力が入り、凄まじい反論を展開し始めて、通訳の入る余地がなかった。
16分ほど過ぎたあたりで中国側の通訳が「通訳しましょうか」と言うと楊潔チは「その必要があるのかい?」と聞き返した(公用語は中国語で十分ではないか、を示唆)。通訳が「いや、やっぱり・・・」と返すと「ならテストしようか」と笑い返し、中国側が英語に通訳した。
次に王毅(おうき)が4分ほど話し、本来なら4人各自が「冒頭の挨拶」をしたら記者たちが出ていくことになっていたが、ブリンケンが記者たちの退場を止めた。言われっぱなしの状態で報道されるのは困ると思ったのだろう。
ブリンケン、サリバンが二度目の発言をしたところで記者が退場しようとすると、今度は中国側が止めて、さらに楊潔チ、王毅の発言になった。
公けの場で激しい反論の応酬を見せたのは、前代未聞であったかもしれない。何よりも中国がアメリカに対してここまで面と向かって反論をぶちまけたのは、歴史的にも珍しいことではないだろうか。
それは米中の力が拮抗してきたことを意味し、後述するように習近平が周到に作り上げた作戦であることが読み取れるので、楊潔チと王毅の二度にわたる反論の趣旨(大意)を、順不同でいくつか拾い上げて略記する。
楊潔チ:
1.アメリカには上から目線で偉そうに中国にものを言う資格はない。中国はその手には乗らない。中国と交渉したければ、相互尊重の基礎を守れ。
2.中国の首を絞めようとすれば、結局は自分の首を絞めることになるということを歴史が証明している。われわれが西洋人から受けた苦しみは少なかったとでも言うのか?われわれが外国から包囲された期間は、これでも短かったとでも言うのか?何をされようと中国は立ち直ってきた。
3.中国共産党の指導と中国政治制度は中国人民の支持を得ている。中国の社会制度を改変しようとする如何なる試みも徒労に終わる。
4.習近平は「米中は衝突せず、対抗せず、互いに尊重し、ウインウインとなるべき協力していこうと」と言い、バイデン大統領も電話会談でそのことに賛同した。このたびの中米ハイレベル戦略対話(=外交トップ会談)は、習近平とバイデンが約束した電話会談の内容を具現化するために挙行されたものだ。
5.アメリカにはアメリカの民主があるだろうが、中国には中国の民主がある。中国は国連を中心とした国際システムの中で全人類共通の価値を追い求めているのであり、アメリカが決める価値観が国際的な価値観だと思うな。
アメリカの言い分が国際世論だとも思うな(筆者注:韓国がアメリカとの「2 2」会談で中国を名指しするのを嫌がったことも指しているのだろう)。
アメリカが決めた秩序が国際秩序ではなく、国連が決めた秩序が国際秩序だ。アメリカが決めたルールが世界のルールだとは思わない国が地球上には数多くある。
6.アメリカは常に武力に訴えて世界各地で戦争を引き起こし世界に不安と混乱をもたらしている。世界の秩序を乱しているのはアメリカだ。人権問題に関してもアメリカが抱えている人種差別問題はここ数年の話ではない。
アメリカが解決しなければならないのは自国の人権問題であり、先ずは自国の問題を先に解決しろ。自国内の人権問題をごまかすために中国の人権問題に対して目を向けさせ四の五の言うのはお門違いだ。自国をきちんと管理してからものを言え。
7.台湾、香港、新疆(ウイグル)は分割できない中国の領土であり、中国の内政に干渉するようなことは絶対に許さない。
王毅:
1.客が遠路アラスカまでやって来るその前の日に、香港関係者に制裁を加えるというのは、客を迎える礼儀に反するのではないか。
2.客に会う前に他の国々と申し合わせて中国を威嚇しようとしたのなら、計算間違いだ。そのようなことで譲歩するような中国ではない。
3.あなた方が訪問した国々が中国に脅威を感じていると言っているとおっしゃるが、果たして彼らが脅威を感じているのか、それともアメリカの主観的な憶測なのかはわからない。少なくとも中国と意見交換する前に中国にレッテルを張るのは公正だとは思わない。
◆会談後、米中ともに「満足」と発表
会談終了後、米中はそれぞれ記者発表したが、双方とも「一致しない点はあるものの、率直に意見交換できたことは良かった」という趣旨のことを述べている。
中国側からあそこまでの明け透けな反論を受けながら、アメリカ側はなぜ「率直でよかった」と言ったのだろうか。
それは楊潔チ発言の4で書いたように、何と言ってもバイデンが習近平と電話会談をした時に「米中は衝突せず、対抗せず、互いに相手を尊重する」と誓っているからだろう。
このことは2月12日付けのコラム<米中首脳電話会談を読み解く――なぜ「とっておきの」春節大晦日に?>に書いた通りだ。また2月8日のコラム<バイデン政権の本音か? 米中電話会談、「一つの中国」原則に関する米中発表の食い違い>に書いたように、
ブリンケン自身、楊潔チとの電話会談では「一つの中国」原則を守ると誓っている。つまり、台湾問題には口出しをしないという意味だ。
二人とも中国側に言質(げんち)をとられているので、非公開の場所ではブリンケンは譲歩しただろうことが考えられる。
◆予めCCTVが崔天凱・駐米大使を取材
アメリカが香港関係者24人に対して制裁を発表したのはアメリカ時間の3月16日のことだ。
それを受けて3月17日に中国の中央テレビ局CCTVが崔天凱(さいてんがい)・駐米大使を取材している。
普段は穏やかな崔天凱が、ここでは色を成してアメリカを非難し、楊潔チと王毅の反論を予感させる厳しい抗議と「中国をバカにするのではない」という趣旨の発言までしている。まるでアラスカ会談の序奏曲かと思わせる組み合わせだ。
ということは中国の外交トップ3人が共同して同じ勢いと方向性で動いているので、これは明らかに習近平の指示の下で全ては仕組まれていると考えるべきだろう。
「これまでの中国とは思うなよ」という、習近平の対米姿勢が如実に表れているということだ。
◆「中国共産党建党100周年」と「辛丑(しんちゅう)条約120周年」
その証拠に、3月19日の中国共産党機関紙「人民日報」の微博(weibo)に「二つの辛丑年の対比」というタイトルで1901年の北京議定書(辛丑条約)と今年2021年の中国共産党建党100周年における米中アラスカ会議の写真が対比して掲載された。
念のため以下に転載する。
人民日報の微博に掲載された写真
(副島隆彦注記。あとで、この写真、2枚をここに貼ります)
辛丑(かのと・うし)というのは干支(かんし。えと)の一つで、60年に一回巡ってくる。この60年を中国語で「甲子(こうし)」と称する。1901年から数えると、「二つの甲子」を乗り越えたことになる。
この写真は中国大陸のネットを駆け巡り、至るところに転載されている。
数多くのコメントが示すように、この写真は「今の中国は昔の中国ではない」ということを意味している。
2021年1月11日の中央党校におけるスピーチで、習近平は「時機はわれわれの側にある」と自信満々だ。今年7月1日が中国共産党建党100周年記念となる。
1901年には義和団(の乱)と、清王朝(西太后と光緒帝)が八ヵ国聯合(副島隆彦割り込み、注記。この8各国の中国への侵略国に、日本も入っている。「北京の55日」という映画になっている) から天文学的数値の賠償を求められ、清朝滅亡へとつながった 屈辱的な北京議定書を締結した。中国語ではこの年の干支にちなんで辛丑(しんちゅう)条約と呼ばれる。
習近平の父・習仲勲(しゅうちゅうくん)の祖父母は、1885年に河南省から陝西省富平(フーピン)に移り住んだのだが、貧乏で暮らしが成り立たないほどだった。
ところが1900年、義和団の乱を受けて結成された八ヵ国聯合から逃れるため、西安に落ち延びてきた西太后(せいたいごう)と光緒帝(こうしょてい)を護衛するために(来た)、北京の軍隊にいた習仲勲の叔父が富平に立ち寄り、銀貨数十両を祖母に渡して行った。
それにより習仲勲はようやく生き延びたようなものなので、習近平にとって辛丑条約は身近にあった、父親に直接関係した事件だったに相違ない。
「中華民族の偉大なる復興」には、この意味も込められていると解釈される。
あの李鴻章(りこうしょう)の時代とは違う。
中華民族は、あの屈辱の歴史から立ち直り、必ず「偉大なる復興」を成し遂げてやる。 まるで習近平の声が聞こえてくるようだ。
その意味で崔天凱・楊潔チ・王毅の外交トップをアラスカ(アンカレッジ)に行かせた。(3月18,19日の)アラスカ(アンカレッジ)会談における中国側の反論は、この写真にあるように、まさに「今の中国はあの時の中国ではない」というシグナルをアメリカに送っているものと解釈することができる。
楊潔チが2の反論で「(副島隆彦注記。欧米列強による中国侵略、分割して支配した)これでも少なかったとでも言うのか?」「短かったとでも言うのか?」という言葉を発した時、彼は手先と唇にグッと力を入れ、歯を噛み締めるような表情をした。
習近平はアメリカに対して必ず強気に出始める。そのとき試されるのは日本の姿勢だ。習近平国賓招聘をまだ「中止する」と言えない日本。中止する必要はないと言い張る二階幹事長が絶対的力を持っている日本の政権与党。このようなパワーバランスが転換しようとしている時でもなお中国の顔色を窺うのか。
あの時の八ヵ国聯合の中の一国であった日本が今どう出るかで、東アジアの趨勢は決まっていくだろう。日本はそれでいいのか。覚悟を問いたい。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 このように、遠藤誉の大変すばらしい評論文である。本当に素晴らしい。これを読むと、最新の米中関係と世界政治が分るでしょう。 米中の 世界の2大国(スーパーパウワ super power )は、こういう激論をしている。あとは、自分で、この米中会談への他の新聞記事を読んでください。どうせ、それらの記事は何を書いているのか訳が分らないだろう。
遠藤誉女史は、12歳まで、中国(旧満州)で、過したので、中国語が完璧に出来る。その他の詳しいことは、ここでは書かない。
遠藤女史は、 筑波大学で教えて、長年、ずっと、強固に反共保守、反(はん)中国共産党の立場だ。中国共産党を打倒すべきだ、という政治的な立場だ。
ところが、この数年、どう考えても、彼女は、「中国がさらに大成長して、勝つ」と考えている。 彼女の脳(頭)は、どう考えても、中国人の脳だ。
あの李香蘭(りこうらん。山口=大鷹淑子 よしこ。1970年代の昔「3時のあなた」の司会で出ていた)と同じように、2つの国民文化で、頭が割れているのだろう。山口淑子(李香蘭)は、死に間際に、「私は、本当は、中国人なのよ」と、狂ったように泣き叫んだ、という。 こういう話は、私は、別に書いた。
ポリティカル・クリオール論だ。ふたつの国民文化(カルチャア)が、頭に入っているので苦しむ、という混血児(合いの子)の問題だ。
雅子様の脳が、そうである。小さい頃からの、外交官の娘として、あちこちの外国暮らしをした。そのために、「自分が何国人か、分らない」という、エリート階級(特権階級)の子供たちに見られる、特有の悲しい現象である。雅子様の苦しみは、小さい頃に、日本の、同級の同年齢の女たちと、一緒に遊んで、ゲラゲラ笑って過すという時期を、持っていない。
その為に、雅子皇后は、自分が、一体、何人なのか分らない。どこの文化(culture カルチュア、クルツーツ)に所属するのかが曖昧だ。何語でしゃべっても、ボーッとしてどれも上手でない。自己同一障害(アイデンティ・クライシス identity crisis )を起こす。これが、「雅子皇后の 頭のご病気問題」だ。分るか。このことも、私は、すでに10年前に、評論文で書いた。
もう、このことで、天皇家(皇室)への、不敬(ふけい)で、私と出版社を攻撃してくるような右翼たちも、いない。みんなジジイになって死んでしまったようだ。
遠藤女史は、ずっと、反(はん)中国共産党 で、反(はん)習近平である。習近平には、個人的な憎しみを持っているのではないか、と訝(いぶか)しがられる程の激しい書き方をする。そして、自分こそは、習近平の日本国への正式の国賓招待、反対 を、一番、率先して、ずっと書いて来た。それなのに、この文だ。 最後の、取って付けたような、「日本はそれでいいのか。覚悟を問いたい。」だ。誉(ほまれ)ちゃん、よ、何を書くか。全部、自分の問題だろ。
習近平を日本に国賓(こくひん。大国の最高権力者=主権者を、正式に国家の客人として迎えること。宮中での豪華な晩餐会をする )として迎えるのは、自民党と日本政府として、当然の決定(安倍政権が決定した)で、自然なことだ。それに妨害、反対ばっかりして、自分たちに何の正義がある、というのか。遠藤誉は、このことから逃げないで、はっきりと自問し自答せよ。
遠藤女史の頭の中の、分裂症の苦しみを、私は、じっと横から見ている。
この他に、日本国民に、しっかりと、私、副島隆彦から、教えておきます。
台湾(国府政府)は、1971年10月25日に、国連総会の決議で、追放決議された。同時に、中国が招待された。同時に、5大国(常任理事国、パーマネント・メンバー)になった。
台湾は、即座に同じ日に、「国連からの脱退宣言」を出して脱退した。「追放されたのではない。脱退した」と、今も、公式にそのように言っている。
日本国内の言論人と新聞記者は、誰ひとり、この世界で通用している、大きな事実を書こうとしない。みんなで、知らん顔をして、「中国が攻めてくる。さあ、どうする」と言うような書き方をする。「まさか、そんな。副島隆彦がまたウソを書いている」と、思うなら、各自、自分で、台湾史や、歴史年表とかを、しっかり調べなさい。
その3か月前の、1971年の7月9日に、キッシンジャーが、秘密で、パキスタンの北の軍事空港から、中国に飛んで、周恩来、毛沢東と会談した。米中で組むと決めた。大きな世界史上の転換点だった。このことも、私は、その時の、大きな政治動因 を、「属国 日本論」に書いた。中国を、ソビエトから切り離して、アメリカが取ったのだ。
この他の、世界史上の重要事は、その1か月後の、8月15日の、「ニクソンのドル・ショック」だ。アメリカ政府は、米ドルと金(きん)の兌換(交換)を、停止した。アメリカの世界支配が、この時、金融、経済の場面で、ガタンと落ちた。金ドル体制が、瓦解に向かった。
そして、その翌年、1972年2月21日に、ニクソン大統領が訪中した。中国をソビエトから切り離して、西側(ザ・ウエスト the West )に奪い取った。
その大前提が、「1つの中国」だ。即ち、「台湾は、中国の領土の一部である( 台湾は国ではない)」を、アメリカ合衆国が正式に認めた。中国(毛沢東政権)と合意した。それ以来、一貫して、この「1つの中国」は、アメリカ始め、世界中の決定事項だ。この決議事項を無視した言論は、世界言論にならない。バカ右翼の低(てい)知能の言論だ。
「中国軍が、台湾に攻めてくる」とか、「尖閣諸島に、中国の武装漁民が上陸する」とか、馬鹿なことばっかり書くんじゃない。れっきとした大新聞の論説委員まで、こういう低劣なことを、平気で書く。そして、日本国民を扇動して、恐怖に陥れる。
中国は、そんな愚かなことはしない。もっと悠然と構えている。アメリカの国力、軍事力が、どんどん衰えて、自然に、東アジアからも、徐々に撤退(ウイズドロー)としてゆくのを、じっと待っている。そのあとは、それぞれの国が、しっかりと自立して、それぞれの国家主権(ソブリーンティ)を守ればいい、と中国が、冷ややかに考えている。
再度書くが、台湾(中華民国)は、1971年の10月に、国連(the U.N.ザ・ユーエヌ)の総会(ジェネラル・アセンブリー)で、追放(エクスコミュニケイション excommunication 仲間外れ)、除名(エクスパルション expulsion )の決定をされた。以後、「台湾は、国家主権(sovereingty ソブリーンティ)をもつ、独立国ではない。台湾は、中国の一部である」と、大きく決議された。
WWⅡ(第2次世界大戦)が終わった翌年の、1946年1月10日に、国連(本当は、「連合諸国」と表記すべきだ。the UN。ユナイテッド・ネイションズ )の第1回総会が、ロンドンで開催されて発足した。国連憲章(the U.N. Charter ザ・ユーエヌ・チャーター)は、 その前年の、1945年6月26日に、連合(諸)国(アライド・パウワズ Allied Powers )50カ国が集まって、調印、成立している。
このように国連が、出来て発足した初めから、ずっと、中華民国(台湾)は、米、英、仏、ソビエトと並んで、5大国(ごたいこく)である。だから、1971年10月に、追放決議されるまでの25年間は。 この 5大国というのは、国連の 安全保障理事会(セキュリティ・カウンシル)の常任理事国(パーマネント・メンバー)である。
蒋介石(しょうかいせき)の中華民国は、1949年12月まで、ずっと国内で毛沢東の軍隊と激しく戦い続けた(国共内戦)。だが、蒋介石の国民党軍は、大(だい)敗北して、そして、台湾に逃げた。
毛沢東は、そのまえ1949年10月1日に、北京で、中華人民共和国を設立、建国を宣言した。
このとも、ずっと、蒋介石は、「自分が中国全土の統治者だ」と、強がって、中華民国を名乗り続けたが、実体を伴わないまま、台湾に立て籠もった。
だから、世界が、1971年に、台湾を大国だ、とは認めない、という決定をした。台湾は、中国の一部であって地域だ、国家主権(ソブリーンティ sovereignty )を主張してはならない。と、決定した。この決定は厳粛なものだ。それを、反共右翼たちが、自分の勝手な思い込みで、なんかとなるものではない。この 大きな事実を、日本人は、冷静になって、ひとりひとりが、しっかりと理解しないといけない。これが、国際社会=国連の 重大な決定事項なのだ。
国際社会(=国連)は、「いくら何でも、小さな台湾が、世界の5大国(=常任理事国)のひとつだ、というわけにはゆかない」として、台湾を国連から追放して、替わりに、中華人民共和国を、招いて(招聘、しょうへい)、そして5大国のひとつとして、受け入れた。これが、真実の、世界政治であり、国際政治だ。
「共産主義は、悪(あく)の政治体制だから、そんな理屈は認められない」などと、言って、中国を排斥する理論は、世界中にいる 反共(はんきょう)右翼たちだけの内輪の言論なのであって、国際社会では、全く受け入れられない。このことを、そろそろ 日本国民の多くが、しっかりとり学ばなければいけない。 その為に、副島隆彦の世界基準(world values ワールド・ヴァリューズ)に基づく、日本国内への教育言論がある。
このようにして、台湾は、一個の国、独立国ではないのだ。中国の一部であり、近い将来に、台湾省(しょう)になるべき一地域だ。台湾人たちも、このことを重々、知っている。 それでは、あの鼻ぺちゃ姉ちゃん(姐ちゃん)の、蔡英文(さいえいぶん)の、今の台湾政府は、一体、何なのだ、ということになる。
蔡英文たちは、今も強固に反中国だ。しかし、台湾独立とまでは言わない。言えない。なぜなら、台湾には、大きくは、彼女たちタイワニーズ ( Taiwanese 本省人) 以外に、外省人=蒋介石と共にやってきた中国人たちが、国民党として大きな勢力として今もいるからだ。国民党(こんみんたん)系は、自分のことを中国人だと思っている。
台湾人(タイワニーズ)は、福建省(ふっけんしょう)から13,4世紀ごろに、やってきた、太福建人の一種であり、南閔(なんみん)人という種族だ。福建人を閔(みん)と言い、その南の辺りの人々が、南閔(なんみん)人だ。だから、台湾人は、福建省からやって来た人間たちなのだ。されよりも前の、原住民である少数の山岳民族を除いて。
話している台湾語は、蒋介石たちが話していた中国語である。 ほとんど(98%ぐらい)、プートンホア=普通語=北京官話である。台湾人は、中国人なのである。
この事実を、日本人は、しっかりと知らなければいけない。日本国内の、反中国の歪(ゆが)んだ精神をした、愚か者たちの言論に、私たちは、騙されて、惑わされてはいけない。世界で通用しない考えを、自分の考えにしたら、それは、ただの頑迷な人間だ。
だから、台湾独立論(台独、たいどく)など有り得ない。存在できない。台湾は、近い将来、必ず、中国の省の1つの台湾省になるのである。これは、すでに決まっている台湾の運命である。
この大きな事実を認めないで、グズグズ、訳(わけ)のわからないことを、言い合っている。「台湾に、中国軍が攻めてくるー。日本人の覚悟はあるのか 」などと、戦争を扇動する、日本国内の、日本国民への洗脳(せんのう)言論は、愚か者を通り越して、凶悪である。日本人は、常に穏やかに、「アジア人どうし、戦わず」の大(だい)標語の立場に立つべきだ。
これ以上、何か、私、副島隆彦にぐずぐずと、訳の分からないことで反論するなら、私は、張り倒すぞ。この反共右翼の、バカどもめが。
お前たちが、私、副島隆彦と、論争して勝てると思っているのか。誰でもいいから、有識者が、出てこい。
こういう場面では、学問道場の会員で、あまり頭のよくない者たちは、出てくるな。余計なことを書くな。しっかり勉強しなさい。私、副島隆彦の本を、もっと、しっかり読みなさい。お前たちは、私が、この13年間に書いた、14冊の中国本のうちの、一冊も読んでいないだろう。お前たちも、少しは、反省しなさい。
遠藤誉女史の上記の文にも、はっきりと、「ブリンケン(国務長官)自身、楊潔チとの電話会談では「一つの中国」原則を守ると誓っている。つまり、台湾問題には(アメリカは)口出しをしないという意味だ」 と書いている。
こういう基本の知識も無しに、台湾、尖閣、香港問題で、利いた風なことを言う者は、私、副島隆彦が、張り倒す。
そして香港も、中国の領土である。香港は、イギリスが中国から奪い取って、イギリスの植民地にされた地域だ。そして、1997年7月1日に、イギリスから中国に返還された。香港は中国の一部だ。この歴史事実は、24年前のことだから、私たちはテレビで見たことを覚えている。
あ、そうか、20代、30代の若い人たちは、知らないか。
だから、香港独立論(港独、こうどく)も有り得ない。それを、主張している、「民主派の議員たち」とか、「民主活動家」というのは、イギリスとアメリカの情報部に、扇動されて操られている
、愚か者たちだ。
香港の人権活動家たちが、中国政府に虐(いじ)められて、弾圧されて可哀想、などど、世界基準の知識を知らないで、舐めたことを言う者たちは、自分の愚かさを知れ。自分は、いつも、正義の側の、正しい人、か? 馬鹿どもめが。
台湾の民主化運動の活動家の代表だった、若い3人組の、ネイサン・ロー(デモクラチスト党、党首)も、ジョシュア・ウオンも、アグネス・チョウ(周庭、しゅうてい)も、皆、CIAと英国MI6の回し者だ。 香港の人たちも皆、このことを、知っている。
可憐でかわいらしいアグネス・チョウ(周庭、しゅうてい)が、上手な日本語で、「日本の皆さん、私たちを助けてください」と、言ったので、それで、一も二もなく、香港問題に関心のある日本人は、「アグネス、かわいそう」になった。だが、だからと言って、何かをするわけでもない。
もっとよく大きな事情、真実を知っている者たちは、簡単に自分の頭が動くことはない。
今から182年前の、1839年から43年までの、アヘン戦争(オピアム・ウオー Opium War )で、イギリス(大英帝国)が、どんなに卑劣に、中国に戦争を仕掛けて、そして、清朝(しんちょう、大清=だいしん=帝国)を屈服させて、その後、長く、100年間、欧米列強(ヨーロピアン・パウワズ European Powers )が、中国を分割し、占領し、痛めつけたことか。
日本は、このアヘン戦争の、25年後に、イギリスに屈服して、「隠れた」属国支配を受けた。それが、日本の1860年代の、幕末、明治維新の動乱だ。大きく、はっきりと、このように理解せよ。 日本の当時の、一番頭のいい知識人たちは(蘭学者を中心に。公儀隠密たちも)、中国が白人たち(毛唐=けとう=ども)に、アヘン戦争のあと、どのように侵略、占領、支配されてゆくかを、脅(おび)えながら、中国からの情報を必死になって得て、細かく、よーく知っていた。
その時の、尊王攘夷派 (ここで、副島隆彦注記。X尊皇 と書くなよ。そんな字はない! 当時も今も無い。無いものは無い。◯尊王だ。日本の天皇は、王だ。国王だ。皇帝=ファンディエ=ではない )の、この攘夷派の上の者たちで、指導者たちが、裏からコソコソと、イギリスの手先になって行った。
下っ端の過激派である、本物の攘夷主義者( 神州不滅=しんしゅうふめつ=の日本国に侵略して来る、欧米白人=毛唐、けとう=を見たら、その場で、ただちに斬り殺せ、の純粋思考の正義の人々)たちだけが、無惨に殺されていった。「広く、世界の大勢を知れ」とか何とか、言われて、ということになっている。バカどもめが。
本当は、公武合体(こうぶがったい)派が、正しかったのだ。御門(みかど、天子、天皇)と、将軍が、団結して、まず、日本国内の国力を付けることが優先だ、と考えた。それから、欧米列強と、対等に交渉すべきだ、開国を性急にやってはいけない、と。この考えが正しい。
ところが、何と、徳川家茂(いえもち)将軍(21歳)を、1866年7月20日に、大坂城で毒殺した。続いて、その5カ月後の12月25日には、 孝明(こうめい)天皇(36歳で死)(とその息子、睦仁も)も、暗殺した。誰が? だから、表面だけは攘夷を唱えながら、真実は、イギリスの手先になった者たちが、だ。
だから、真の、将軍、天皇殺しの、命令者は、イギリスの全権公使の、オールコックである。こいつは、むかつくことに、「大君(たいくん。徳川将軍のこと)の都」という分厚い、日本紹介の本まで、書いている。今も岩波文庫に入っている。
このオールコックと、その部下の、戦略外交官の、アーネスト・サトウが、密かに、自分の子分につけて、秘密の開国派に仕立てた、薩摩と長州の指導部の者たちだ。彼らに、討幕運動(江戸幕府の打倒)をやらせた。
公武合体論の、最大の主唱者(プロタゴニスト)で、主導者、推進者は、日本国の最高権力者である、天皇(天子)と将軍だったのである。日本国内の勢力の大団結を優先した公武合体の策は、まさしく、孝明と家茂(いえもち)が、強力に指導したのだ。日本の主権者の、この2人が堅く団結していた。それが、この2人への政治暗殺で、大きく潰された。イギリスが命令して、「障害物を取り除け」と。世界覇権国である、イギリス(大英帝国)の、世界支配の構図に、逆らい、刃向かう者は、殲滅(せんめつ)される。 この重大な、日本史上の 事実を、隠したまま、幕末、維新の日本史は、150年間、描かれ続けている。今もそうだ。私、副島隆彦が、それを許すわけがない。
公武合体派だったはずの、公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)が、転向して、薩長の、同じく密かに大転向した者たちに同調した。岩倉具視は、公武合体の実現である、皇女和宮(かずのみや)の江戸への降嫁(こうか)の駕籠(かご)行列の横について、京都から江戸まで下向した。
このために、岩倉は、「四奸(しかん」と、呼ばれて、攘夷派の、純粋な正義感の、いわゆる、”勤王の志士”と呼ばれる、過激派の、攘夷決行の悲壮な決意をした、脱藩浪人たちから、命を狙われた。
だから、岩倉は、1865(慶応元年)に、思考転向(コンヴァージョン conversion )して、s三条実美(さんじょうさねとみ)と大久保利通に、説得されて、イギリスの手先に成り、彼ら、秘密の開国(ひみつかいこく)派(表面上だけ攘夷論者)に、合流した。
この男と大納言家(だいなごんけ、藤原貴族の筆頭)だった、中山忠能(なかやまただやす)が、孝明天皇を、宮中で、ヒ素で毒殺したのだ。
それから一年後に、能なしで、バカ息子で、知恵遅れの 睦仁(むつひと)を殺した。母親の、中山慶子(なかやまよしこ)も、自分が生んだ息子だったのに、殺害に同意した。
そして、長州(今の山口県)の南の、岩国のそばの、田布施(たぶせ)から連れてきた、元気な少年(16歳)の、大室寅之祐(おおむろとらのすけ)にすり替えた。
この「明治天皇すり替え問題」ことばっかり、歴史好きたちは、この30年間、ワーワー議論して、今では、この明治天皇=大室寅之祐(おおむろとらのすけ)だ論 は、巷(ちまた)の、歴史好き人間たちの間では、ついに多数派、主流派になっている。
南朝(なんちょう)正統論( 室町時代の足利尊氏と後醍醐天皇の「太平記」の政治抗争での)を唱える、右翼言論人たちの間でも、すり替え説が、多数派だ。
だが、日本の体制派は、それでは困るのだ。本当に困る。右翼たちまで、大室寅之祐すり替え説になってしまったから(笑い)。
それでは、孝明天皇の 皇嗣(こうし。後継ぎ)で、長男坊の、睦仁(むつひと)は、いつ天皇になったか。日本歴史学研究会(岩波書店刊、東大系)の『日本史年表』では、孝明が殺された=死んだ(薨去。こうきょ と特別に呼ぶ)12月25日のあと、すぐに翌年になる、「 1967年(慶応3)年の、1月9日に、睦仁親王(むつひとしんのう)践祚(せんそ)」となっている。
この「践祚(せんそ)」が、天皇の代替わりのことで、この日が次の天皇としての即位の日だ。
この日からが、ぼんくら君の睦仁が天皇だ。それで、いつ殺されて、すり替えられたのか? このことを、調べて書いている人は、おそらくいない。ここ数年で出てきた、ヘンなことを書いている、「何とか織部(おりべ)」という人の本に書いているのか。私は、読んでいないので、知らない。
私、副島隆彦の推測、決めつけでは、どうも、この、江戸幕府=徳川氏(し)体制が瓦解(がかい)した
1867年中に、睦仁を、もっと元気な子供に、すり替える計画が立案された。そのことは、この年の7月には、薩摩の大久保利通(おおくぼとしみち)と、公家の岩倉具視(いわくらともみ)が、御所(ごしょ)内で、権力握っている。そして、「王政復古の計画」を立てた。この頃だろう。
だから、この7月に、睦仁を、大室寅之祐にすり替える計画も決定した。しかし、まだ、京都は、幕府の任命した、会津藩の京都守護職(藩主の松平容保=かたもり=)の力が強い。
だから、睦仁を実際に殺害したのは、この年の末の、12月9日に、朝廷、すなわち、この2人が、王政復古を宣言している。この辺りで、睦仁を殺害して、大室寅之祐にすり替えただろう。そして、このあとすぐの、翌(1868年)の 1月3日と4日の、鳥羽・伏見の戦いで、一気に、薩長軍(官軍)が、幕府軍に勝利した。この時には、もう新しい睦仁が天皇として、官軍(西郷隆盛と、有栖川宮熾仁=ありすがわのみやたるひと=が、東征軍を指揮)の江戸城攻めのあとに続いて、神輿(みこし)で江戸に向かった。
新しい睦仁天皇の、ご養育掛かり(係)は、西郷だった。西郷は、天子さは、強くならないといけませんぞ」と、まだ16歳の少年の睦仁と相撲を取ったりして、鍛えていたという。
のちに「明治の元勲」あるいは「大官」と呼ばれた薩長土肥の幹部たちは、新天皇のことを、玉(ぎょく)と呼んで、自分たちがいいように操れる玉(たま)だと、考えていた。
鳥羽・伏見の戦いも、薩長軍は、合わせて3千人しかいない。真実は、これに、1000名の薩摩郡の鉄砲隊を、急遽、イギリスの戦艦が乗せて、神戸(兵庫港)から淀川を溯(さかのぼ)り、鳥羽に上陸させた。そして、イギリス軍が運んできた、アームストロング砲の威力で、2万兵もいたのに(家茂将軍の紀州藩が主力) 幕府軍の最精鋭部隊を、この、当時、世界で最新鋭の大砲(4キロト飛んだ)で一気に 吹き飛ばしたのだ。
幕府の大砲は、400メートルぐらいしか飛ばない。幕府の、最精鋭部隊の新撰組や会津藩兵が、撃滅されると、あとの幕府軍は、血相を変えて、一斉に潰走(かうそう)した(1月6日)。われ先にと、江戸まで逃げ帰った。将軍になっていた徳川慶喜(よしのぶ、けいき。たった1年3カ月だけの、最後の将軍、ラスト・ショーグンだ。その前年の1867年の10月13日には、京都の二条城で、大政奉還をやってしまっている。慶喜は、ワルの勝海舟を通して、薩長や、秘密の開国派の公家たちと繋がっている。幕府の頭領のくせに )は、大坂湾にいた海陽丸で、さっさと江戸に逃げた(1月9日)。
そして、「ピーヒャラ。ピーヒャラ」と鼓笛隊で、「トコトンヤレ、トンヤレナ」と、勝ち組の官軍(かんぐん)となった、薩長軍は、江戸に向かって、朝敵(ちょうてき。天皇に刃向かう賊軍)になった江戸幕府を攻撃するために、東海道を進撃した。
そして、3カ月後の、4月11日には、江戸城に、西郷軍(東征軍。とうせいぐん)の官軍が入って、コトバだけは、何だか有名な「無血開城(むけつかいじょう)」となった。その前の、3月14日には、「五箇条のご誓文」を出して、明治新体制が、この時、出来たことになっている。睦仁天皇も神輿で、一度は、西郷と共に、このとき、ササッと江戸城に入ったようだ。この辺りが、よく分らない。日本史の正史(体制側の記述)でもはっきりしない。江戸城に天皇が入城したことで、これで正式に、徳川氏を打ち倒した、ということにしたのだろう。
そのあと、急いで睦仁は、京都に帰っている。そして、正式に遷都(せんと。都の移転)をして、永住すべく江戸(東京と改名)に移動してきたのは、翌、1869年の3月28日(江戸城に着)である。これが、真実の幕末、維新期だ。 そろそろ、大きく、しっかりと分りなさい。
念のために加筆するが、薩長(さっちょう)同盟が、京都の薩摩藩邸で出来たのは、その3年前の、1865(慶応元)年の6月24日だ。
真実は、この場に、仲介役とされる、坂本龍馬はいない。歴史学者たちは、自分の本を書き変えなければいけない。真の仲裁人は、イギリスだ。 この「薩長同盟」の真実は、8000千挺ぐらいの、米国製のゲーベル銃 や、ミニュー銃( 南北戦争が終わって、不用で余っていたもの)を、イギリスの武器商人のグラバーたちが、薩摩の船で、長州まで運ぶ、という密約のことだ。このことは、私は、今から24年前(1997年刊)の「属国日本論」で、詳しく書いた。
だから、私、副島隆彦は、「次期天皇は大室寅之祐にすり替えられた」問題なんかよりも、もっと10倍は重要な、その1年前の、家茂将軍、孝明天皇の2人の暗殺問題(1866年の7月と12月)の方を、ずっと真剣に考えてきた。
私は、今から24年前に書いた、自分の「決定版 属国日本論」(PHP研究所から、2019年10月に復刊した)の第三部、幕末・明治期論 (P221から)で、このことをゴモゴモ書いた。
この、私が、なんとか伊織なんかよりも、・・・よりも、一番早く、幕末史の真実を暴き立てていいるのだ。私の業績だ。 それを、私は、24年振りに、今、再訪(さいほう。revisit リヴィジット) して、再考しようと考えた。さあ、本気でさらにびっしりと暴き立てるぞ。
孝明天皇暗殺説を、唱えて、ずっと、ひとりで頑張っていたのは、石井孝(いしいたかし)という日本史学者である。この人の本を、今から復活させて、私が、日本国内に真実を大きく広める。
石井孝は、東大の国史(こくし。東大だけは、他のすべての大学と違って、日本史学科と言わない。国史学科という。威張っている)を出て、東大の史料編纂所(しりょうへんさんじょ)に10年も居たのに、言ってはならない、書いてならない真実を書いたために、東大から追われて、大阪大学教授 で終わった。幕末、維新期の日本史学の、権威は、石井孝なのだ。皆、このことを、業界人、学界人は、皆、認めている。しかし、石井のことを煙たがっている。
石井孝 が、あまりにはっきりと、孝明天皇暗殺説を、ずっと書いて主張したので、体制派(東大史料編纂所と、宮内庁書陵部=しょりょうぶ=)は、困り果てて、それで、石井孝を排斥した。さらには、原口清(はらぐちきよし)という、悪質な日本史学者を使って、1989年に、論文を書かせて、「いや、孝明天皇は、やっぱり、天然痘で死んだんですよ」と、ウソの上塗りをした。晩年の石井孝(1909ー1989、80歳死)は、これに怒りの反撃をしている。
石井孝の霊魂に誓って、私、副島隆彦が、大きな真実を、今から追撃戦で、復活させる。
1866(慶應2)年に、続けざまに、日本の最高権力者2人である、天皇と将軍を、殺しておいて、それで、この日本史にとっての最重要の、大事件を、一切無視して、よくもまあ、これだけ覆い隠して、避けて通り続けて、幕末、維新の歴史の本を大量に、書けるものだ。歴史小説家も、歴史学者たちも、あれこれ、バカなことを山ほど書いたものだな。そういう捏造の日本史本を、たくさん、たくさーん、書いて、よくも、それで、この業界が、よく成り立ったものだ。
NHKの大河ドラマもだぞ。歴史再発見やらの馬鹿番組もだ。お前ら、いい加減にしろよ。私、副島隆彦が、これから成敗する。
このあと、明治時代の戦争があって(日清、日露)それから、昭和になって(1926年から)、アホ、頓馬の、日本国 は、イギリスとアメリカに、嗾(けしか)けられて、騙されて中国侵略(日中戦争)を、さんざん、やらされた。 それが昭和の戦争だ。アメリカ軍にボロボロに負けた、日本国代表(国家主権者、ソブリン sovereign )である 昭和天皇は、「ああ、私(朕、ちん)は、バカだった。欧米白人たちに、まんまと私はダマされたのだ」と気づいて、深く反省して、敗戦後は、占領国アメリカが作った座敷牢(ざしきろう)に自ら入った。
そして昭和天皇 (本当は、伊藤博文を殺したあとの、イギリスの手先代表、山縣有朋=やまがたありとも=の子だ。このことも言ってはいけないことになっている。今から、私が、本気でほじくり返す。大正天皇は、明らかに脳膜炎=のうまくえん=だから、子供を産めなかった )は、・・・
敗戦後の 昭和天皇は、賢明にも、「ただひたすら、日本国の平和のために祈る。もう、ダマされての戦争なんか、するものではない 」と、一貫して、平和の祈りの姿勢を貫いた。だから、日本国民が、天皇の戦争責任をブツブツ言いながらも、天皇と皇室を認めて、支持した。昭和天皇は、平和がなによりを、自分の子供や、孫にしっかり教えた。その嫁たちにも。
だから、昭和天皇は、靖国神社に、あの「戦犯たち16柱(はしら)の合祀(ごうし)事件」で腹を立てて、「私は、もう靖国を参拝しない」、「そんなことを私が認めたら、世界を敵に回すことになる」と重々、分って、昭和天皇は、強硬に ストライキを敢行した。 このことも、私は自分の本にした。反共、バカ右翼ども。大きな真実が分ったか。私、副島隆彦にケンカを売って、この件でも、私に勝てると思うか。掛かってこい。
だから、上記の文でも、遠藤誉女史が、観察して書いているとおり、
「 楊潔チが、2 の反論で「( 欧米列強による中国侵略、割譲は、)これでも少なかったとでも言うのか? 短かったとでも言うのか?」という言葉を発した時、彼は手先と唇にグッと力を入れ、歯を噛み締めるような表情をした」 なのである。
だから、日本人を代表して、私、副島隆彦が、この楊ケツチに、倣(なら)って、「欧米白人ども。お前たちの日本支配は、少なかったとでも言うのか? 短かったと言うのか」、と、「属国日本論」を書いた、私だからこそ、中国人と共に、「手先と唇にグッと力を入れ、歯を噛み締める」。
だから、最後の結論は、「アジア人どうし、戦わず」だ。「もう2度と、欧米白人どもに騙(だま)されての戦争はしない」だ。分ったか。ここに集まる、学問道場の会員たちは、これらの大きな真実を知って、急いで、頭がよくなりなさい。 それでも、人それぞれが持って生まれた頭(知能)だ。このことは、どうにもならない。 副島隆彦拝