[2974]亡命中国知識人の朱舜水が江戸時代の政治思想を変えた

田中進二郎 投稿日:2021/02/12 17:04

昨年、副島隆彦先生の監修で、『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』(電波社刊)を書いた田中進二郎です。

2/9に重たい掲示板↓で副島先生に、拙著を紹介していただきまして、ありがとうございます。1/17の学問道場の定例会でも、六城雅敦研究員による『江戸時代の知識人はみなキリシタンである』という発表の中で、紹介して、いただきました。

これから、拙著「秀吉毒殺本」を読もうという方には、完全版として、電子書籍の方をおすすめします。単行本にあった、誤記や訂正箇所を改めています。

副島先生の著書を大量に紹介している、ユーチューバーのごんべえさんが、大河ドラマの『麒麟が来る』の最終回について、副島先生の『信長はイエズス会に爆発され、家康は毒殺された』と拙著『秀吉毒殺本』の視点から、意見を述べている。↓

「読書中毒 アラ還」

https://youtu.be/Oh5vlTLxNw0

日本の読書人たちのあいだに、『麒麟が来る』への怒りがかなりあるでしょう。Amazonの戦国安土桃山時代本ランキングを見ると、それが分かります。「光秀は天海上人だ」説が、これからどんどん主流になってくるでしょう。

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ところで以下は、私田中の続編の原稿です。江戸時代に日本に亡命してきた中国知識人の朱舜水( しゅ しゅんすい 1600ー1682)について、書きました。かなり長文になります。

明治維新の原動力となったが、太平洋戦争後は皇国史観、狂信的であるとして、捨て去られた水戸学について考察する。現代日本の研究機関で水戸学を研究すると、「右翼人間」と思われるそうである。戦前の狂信的な天皇崇拝、天皇原理主義は、敗戦後、徹底的にアメリカのGHQによって除去された。しかし、それでも現在の保守派・右翼は、東条英機をはじめとするA級戦犯を合祀した、靖国神社に参拝するカルト・オブ・ヤスクニが多い。森喜朗・元首相の「日本は天皇を中心とした神の国である」という発言(2000年)もそこから出てきている。
  2016年に出版され、ベストセラーになった菅野完(すがの・たもつ)の『日本会議の研究』(扶桑社新書刊)は、神道系団体(生長の家 等)が、全共闘時代に保守の側から対抗する形で復活した。自民党議員(清和会系)も動かしている。そして、国民の知らないところで、憲法改正を実現しようとしている実態を、暴いた。
これらの起源と言っていい水戸学はいかにして歴史に現れたのか。

●朱舜水の指導で、『大日本史』の編さんが始まる

 水戸黄門(徳川光圀 みつくに 1628-1700)は、時代劇の中では、全国を漫遊する。
しかし、実在の水戸黄門(光圀・義公)は、行動の自由もなくて、水戸と江戸を往復する以外は、水戸領内の巡察と、鎌倉に数回訪れたのみだ。
黄門様の側近で有名なのは、助さん、格さん。助さんのモデルは佐々宗淳(ささ そうじゅん)、格さんのモデルは、 安積澹泊(覚兵衛 あさか たんぱく 1656-1738)である。二人は水戸生まれの儒学者である。
徳川光圀は、長崎に亡命してきた中国知識人・朱舜水(しゅ しゅんすい 1600-1682)を江戸、水戸に招き、教えを乞うた。天皇崇拝の日本通史である『大日本史』の編さんを開始した。安積も佐々もこの事業の責任者、総裁だった。安積澹泊は、1660年にわずか10歳で、朱舜水のもとで学び始めている。

『大日本史』の編纂は、最初、江戸の駒込にあった水戸徳川家中屋敷(現在の東京大学農学部の敷地)の中で始まっている。彰考館(しょうこうかん)という。ここには、全国からの儒学者、歴史学者が30名も集められ、史局員となった。水戸藩の江戸屋敷はほかに、小石川の上屋敷(後楽園と現在の東京ドーム)と、隅田川沿いの浅草、小梅に下屋敷があった。

 彰考館はのちに、水戸城の二の丸の敷地内にもつくられ、50名体制に拡充された。光圀没後も、編纂は長い中断期間はあったものの、延々二百年以上続けられた(完成は1906年 全397巻) 光圀の大日本史編さんが、水戸学の始まりとなった。

●朱舜水が、文天祥崇拝を日本に移し変えた

朱舜水については、副島隆彦先生と石平(シーピン)の対談本『中国人の本性』(徳間書店 2013年刊)で次のように解説されている。
(引用開始)

石平: 水戸光圀は朱舜水からそれほどの影響を受けたのですか?

副島: 影響などというものではありません。水戸光圀は朱舜水から、司馬遷の『史記』の書き方を教わったわけです。隠元禅師(1592-1673)は江戸時代、1654年の63歳のとき、弟子たち20人を引き連れて日本へ渡ってきました。その5年後に朱舜水も日本に永住を求め、日本国学の思想も吹き込んだ。

石平: その国学が水戸学につながって、幕末維新を動かしていったわけですね。

副島: つながったどころか、この国粋思想(排外主義 ショービズム)しかなかったと思います。日本の「尊王攘夷」は中国知識人から教えられたものです。それなのに、「中国から最高級の亡命知識人たちが日本に来た」という真実を、日本の右翼言論人たちは隠そうとしている。日本の各宗派の僧侶たちもこの真実を隠して、地力で高度の仏教思想を築きあげた振りをしています。
(中略)
副島:朱舜水は楠木正成の息子である正行(まさつら)との「桜井の訣別」とか足利尊氏に敗れて自害した「湊川の決戦」の故事を初めて日本の正史として高く評価した人です。
二・二六事件の青年将校たちも、水戸学が築いた「日本の国体」なるものに心酔しました。
だから戦争中に狂ったように崇拝して、今でもあちこちに楠木正成の碑と銅像があるのです。

石平:神戸市にある湊川神社には楠木正成の墓碑(嗚呼忠臣楠子の墓 ああちゅうしんなんしのはか)がありますね。

副島:その墓碑の裏面には、朱舜水のつくった賛文(陰記)が書かれています。今は誰も読めません。この湊川の墓碑の建立(1692年 元禄五年)によって、楠木正成の威徳が極端にまで宣揚されるようになりました。後の幕末勤皇思想の発展につながり、明治体制の精神的指導力にまでなりました。さらに、神がかりといえるほど軍国主義の本尊に祭り上げられました。そして敗戦でアメリカに打ち倒されました。
【P47~51】
(引用終わり) 

田中進二郎です。
以下に、朱舜水の裏面の碑文の書き下し文を挙げる。石碑は難解な漢文である。1692年建立、この年から十年後の元禄十四年(1702年)、「忠臣蔵」の赤穂浪士の討ち入り事件が起こっている。

楠公碑陰記 (なんこうひいんき)
朱 舜 水 
忠孝天下に著(あら)はれ、日月天に麗(つ)く。天地に日月無ければ、則ち晦蒙(かいもう)否塞(ひそく ふさがる 逼迫する)し、人心に忠孝を廢(はい)すれば、則ち亂賊相尋(あひつ)ぎ、乾坤(けんこん 天地のこと)反覆す。余聞く、楠公諱(いみな)正成は、忠勇節烈にして、國士無雙(国士無双)なり、と。其の行事を蒐(けみ)するに、概見(適当に見ること)すべからず。大抵、(楠)公の兵を用ふる、強弱の勢ひを幾先に審(つまび)らかにし、成敗の機を呼吸に決す。人を知りて善く任じ、士を體(たい)して誠(まこと)を推(お)す。是(ここ)を以て、謀(はかりごと)中(あた)らざるなくして、戰(たたかひ)克(か)たざるなし。心を天地に誓つて、金石渝(かは)らず。利の爲に囘(かへ)らず、害の爲に怵(おそ)れず。故に能く王室を興復し、舊都(きゅうと古い都ー京)に還(かへ)せり。諺(ことわざ)に云ふ、前門に狼を拒(ふせ)いで、後門に虎を進む、と。廟謨(びょうぼー朝廷のはかりごと)臧(よ)からず。元兇(足利尊氏のこと)踵(きびす)を接し、國儲(こくちょ- 君主の後継者・護良親王)を構殺(無実の罪に陥れること)し、鐘簴(しようきよ)を傾移(けいい)す(足利尊氏が後醍醐天皇を京から奈良の吉野追い出したことを指す)。功成るに垂(なんなん)として、主を震(おどろ)かす。策善(さくよ)しと雖(いえど)も、庸(もち)ひられず。古(いにしへ)より未だ、元帥前を妒(ねた)み庸臣(ようしん)斷を專(もっぱら)らにして、大將能(よ)く功を外に立つる者あらず。之(これ)を卒(?)ふるに、身を以て國に許し、死に之(ゆ)いて佗(他)なし。其の終りに臨み、子(楠木正成の子 正行 まさつら)に訓(をし)ふるを觀(み)るに、從容(しようよう)として義に就き、孤に託し命を寄せ、言(げん)私(わたくし)に及ばず。精忠(せいちゅう)日を貫くに非ざるよりは、能(よ)く是(か)くの如く整ふに暇(いとま)あらんや。父子兄弟、世々に忠貞を篤くし、節孝一門に萃(あつ)まる。盛んなる哉(かな)。今に至りて、王公大人、以て里巷(りこう)の士に及ぶまで、口を交へて之(これ)を誦説して衰へず。其れ必ず大いに人に過ぐる者あらん。惜しいかな、筆を載する者、信を考ふる所なく、其の盛美大徳を發揚(はつよう)すること能(あた)はざるのみ。
  右は、故(もと)河(内)・攝(津)・(和)泉三州の守(かみ)、贈(おくる)正三位(しょうさんみ)近衛中將楠公の贊(さん)、
明の徴士(ちょうし)、舜水朱之瑜(しゆ)、字(あざな)魯璵(ろよ)の撰する所、勒(ろく)して碑文に代へ、以て不朽に垂(た)る。

(楠公碑陰記おわり)

田中進二郎です。
江戸時代には、湊川神社には、この顕彰碑だけがあって、社殿などはなかったことが、当時の名所図会(めいしょづえ)に描かれている。水田や松林などの中に、この碑だけが屋根で囲われてあった。頼山陽(らいさんよう 1780-1832)がここを訪れて、漢詩を読んだ。
幕末になると、東上する吉田松陰、西郷隆盛、坂本龍馬ら志士たちが、必ず神戸の湊川を訪れて、この碑文の前で、頭を擦りつけて、尊王を誓って涙を流した。どれだけ涙を流せるかが、本当の志士であるかどうかの基準とされた。

これは、朱舜水が、南宋の政治家で軍人の文天祥(ぶんてんしょう 1236-1283)をそっくりそのまま日本の楠木正成に移し変えたものだ、と言える。文天祥は元の皇帝フビライ=ハン(1215-1294)と最後まで抗戦するも、捕らえられる。獄中で、フビライに「大臣にしてやるから、臣下になれ」、と何度も言われるが、拒否し、南宋に忠義を貫いて処刑された人物である。
文天祥の死は、日本史の二度の元寇(1274年 文永の役、 1281年 弘安の役)のすぐ後だ。
しかし、楠木崇拝が、中国に原型があり、亡命中国人が日本に伝えたのだ、ということを知っている日本人は、戦前にはいなかった。

『空気の研究』で知られる故・山本七平(1921-1991年)は、次のように書いている。
『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』(山本七平・小室直樹 共著 文藝春秋社1997年刊)p48より引用する。

(引用開始)
楠公(楠木正成)を発見し、これに賛を書いたのが、中国人朱舜水だなどということは、戦前の日本人にありえざることだったのだろう。(中略)
楠公碑は、講談にも副読本にも歴史教科書にもでてきて、私たちの世代の人間はいやおうなく覚え込まされたが、その表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」が、光圀の自筆であることは語られても、裏面の文章は朱舜水であることは、まったく語られなかった。と同時に、そのすべては戦後に消されてしまった。

(引用終わり)

●朱舜水と同郷の黄宗羲(こうそうぎ)の復明(ふくみん)運動

朱舜水が、日本に亡命するに至った、当時の東アジアの情勢を次に見てみよう。
明末清初に、満州の女真族を統一したヌルハチ(太祖 位1616-26)は後金(こうきん)を建国した。彼はもともと、軍人ではなく、商人であった。遼東地方で薬用の人参や貂(てん)の毛皮の交易を行いながら、利権を独占して、力を握った。
ヌルハチに巨大な権力を与えたのは、皮肉なことに、スペイン帝国がもたらした銀と、明朝のバブル経済であった。
故・岡田英弘博士は、『読む年表ー中国の歴史』(WAC 2015年刊)という新書の中で、次のように書いている。

(以下引用する)
メキシコから太平洋をわたってきたスペイン人が1571年、フィリピンにマニラ市を建設してからメキシコ産の銀が流れ込み始め、そのおかげで中国では空前の消費ブームが起こった。その結果、女直人(マンジュと呼ばれた。これが満州という地名の語源である)たちの住む森林地帯の特産品である高麗人参と毛皮の需要が高まり、ヌルハチたちも富を蓄積することができるようになったのである。
(中略)
ヌルハチとしては、できれば明と平和的な貿易を再開したかったのだが、明の朝廷では主戦論ばかりが幅をきかせていた。・・・そうした事情で、戦争がずるずると続いた。
【P225】
(引用終わり)

田中進二郎です。
岡田英弘博士と同様のことを、故・西村三郎(京都大学名誉教授)が『毛皮と人間の歴史』(2003年刊)で指摘している。大興安嶺(だいシンアンリン)山脈からアムール川流域、長白山脈の奥地から、貂(テン)皮をはじめとする特産品が、遼東南部、つまり建州を通って、中国本土へと運ばれた。それらの見返りに、中国からは、朝廷からの下賜品や交易市で入手された物品が、再び建州を通って、北の辺境の地の隅々にまで流れていった。だから、ここから、ヌルハチとその一族が、後金国(のちの清帝国)が生まれたことは不思議ではない、と西村三郎氏も書いている。

ヌルハチが病没し、次のホンタイジ(皇太子の中国読みがホンタイジ 太宗 位1626-43)のときに、国号を清と改めた。清は1637年に、李氏朝鮮を服属させた。丙子(へいし)の役(1636-1637)。
この戦いで、朝鮮の宮廷も、明の朝廷と同様に、門閥貴族階級である両班(ヤンパン)が、いたずらに徹底抗戦を唱え、和平の道を自ら閉ざしてますます窮地に陥っていった。
朝鮮王・仁宗は、12万の大軍を率いるホンタイジの前で、屈辱的な三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)を行った。
この戦役を描いた最近の韓国映画に、『天命の城』(2017年公開)がある。

明が1644年に李自成によって、滅ぼされた数十日後に、清の次の皇帝(順治帝)の後見人ドルゴンが李自成を破り、北京紫禁城に入城。こののち、清軍は、漢民族も軍に編成して(漢軍八旗)、女真族の風習である辮髪(べんぱつ)も強制するようになった。清に対する漢民族の抵抗運動が、中国南部の江南地方で起きていた。
なかでも、大きかった反乱は、揚州(現・江蘇省揚州市 南京から100キロ北)においてのものだった。この地で、「揚州十日事件」という悲惨な虐殺事件がおきている。

明の遺臣たちは、南京を拠点として清に抵抗した(南京は、明朝の最初の首都だった )。長江流域の諸都市も、明の遺臣にならった。 が、翌1645年、清の大軍が、揚州を包囲して攻め落とす。その直後、80万人という住民の大殺戮がおこなわれたという。これは中国の王朝の残酷史の中でも、特筆される出来事だ。
(『蜀碧・揚州十日記(しょくへき・ようしゅうじゅうじつき)』東洋文庫所収。『揚州十日記』は1805年(文政年間)に日本でも刊行されている。江戸時代の日本の読書人がこの本を読んだ。そして震え上がった。)

●朱舜水と黄宗羲の出身地ー余姚(よよう)ーについて

朱舜水の出身地の余姚(よよう)県は、 上海とは長江を隔てた南の対岸にある。対岸といっても200キロも離れている。王陽明が学塾・を開いた陽明学の聖地である。だから、朱舜水も、はじめは陽明学者だった。
余姚(よよう)県出身の陽明学者は他にもいる。『明夷待訪録』(めいいたいほうろく)を著した黄宗羲(こうそうぎ 1612-1695))だ。

黄宗羲の父親も、明の復興を企てる政治結社・東林党に属していた。そのため清の政府によって殺されている。その仇を討つために、彼は生涯懐に刀を入れて持ち歩いていた、という。黄宗羲は東林党の精神を引き継いで、政治結社・復社(明を復興する組織)に参加した。清が中国本土に侵入してくると、郷里の子弟を組織して義勇軍を結成、清朝支配に抵抗した。
黄宗羲は、明の皇族で、福建省を支配した魯王・朱以海(ろおう・しゅいかい)の政権に協力し、1649年には長崎を訪れ、日本の江戸幕府(3代家光の時代)に反清の援軍を要請した。この時の要請は果たせず、結局「反清復明」の運動は絶たれてしまい、以後は故郷の余姚で、著述に明け暮れる日々を送った。

この、黄宗義の『明夷待訪録』によって、湯武放伐論という易姓革命の思想が生まれた。
易姓革命は王朝の姓が易(か)わり、天命が革(あらた)まる。と言う意味だ。王朝交代は正当だ、とする考え方だ。もともと孔子の百年後に現れた孟子が説いた。

この本は、明から清への交替を経験した黄宗義が、明朝末期の社会混乱の原因や理由を考察し、君主専制の否定、「民本重民」の思想をのべたものである。この時代の政治評論集として白眉(はくび)であると評価されている。黄宗義の『明夷待訪録』は中国のルソー、中国の「民約論」として清朝末期にもてはやされ、「排満興漢」の起爆剤になった。
(参考ー副島隆彦・石平 対談集『中国人の本性』徳間書店刊)

 
黄宗羲の秘密結社は、ずっと続いていった。今も中国フリーメイソンの祖と崇められている。一説には、中国フリーメイソンの組織は一億人いるそうだ。華僑(かきょう)はみんな中国フリーメイソンだ、という見方もある。

このように黄宗羲と朱舜水は、王陽明の故郷の余姚で、陽明学を学び、復明運動を行ったところまで同じである。このことは、戦後の日本の陽明学の研究者たちが言わないことだ。
そして、清代の陽明学は、王陽明の教えとは変質して、経世学(けいせいがく)になっている。
彼らの同時代の考証学者の一人・顧炎武(こ えぶ1613-1682)は、「経世致用」(けいせいちよう)をスローガンに掲げた。、朱子学(空虚な理気ニ元論、大義名分論)などに対して、自分の学問を経学と称した。朱子学の抽象的な議論を嫌った。

ヌルハチ、ホンタイジ、順治帝の後に、康煕帝(こうきてい 位1661-1722)が即位すると、いよいよ清帝国の隆盛ははっきりしたものになった。もはや漢民族の抵抗運動の時代は終わった。この時代は、清代の盛世(せいせい)と呼ばれる。康煕、雍正(ようせい)、乾隆帝(の前半)まで清朝は繁栄を続けた。
 だから、反清運動は革命路線を捨てて、「経世致用』を説いて、現実社会の役に立つことを目指した。

●国姓爺=鄭世功はキリシタンだった

ところが、朱舜水や鄭世功(ていせいこう)はなおも、日本の徳川政権の力を借りて、明の復興を企図したのである。
朱舜水は、鎖国政策下の日本へ、鄭成功の救援を求める日本請援使として派遣されていた。1647年、51年、53年、58年にそれぞれ長崎に立ち寄っている。鄭成功軍が南京攻略戦で敗退した後、59年朱舜水は明の復興運動(復明運動)を諦め、日本の長崎へ亡命を希望する。鄭成功は、オランダ東インド会社の支配する台湾を攻略するが、翌年の1662年に、39歳の若さで死んだ。

鄭成功は、日本人の母を持っているが、母子ともに熱烈なキリシタンであった。 彼の活躍を、近松門左衛門(1653-1725)が人形浄瑠璃の脚本『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん 初演 1715年)で和藤内(わとうない)として描いた。 近松が国姓爺=鄭世功を主人公にしたのは、彼もまた、隠れキリシタンであったからにほかならない。

古川愛哲著『江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた』(講談社α新書 2011年刊)には次のように記されている。

-若き日の近松は、京で雑掌として一条恵観と、その兄の後水尾帝にも仕え、とくに後水尾帝(1596-1680)からは和歌を賜っている。

一条恵観の兄である後水尾天皇の后と母が早くにイエズス会の説教を聞きに京の教会を訪れたことを、イエズス会のルイス・フロイスが記録している。このように戯曲を書く前の近松は、キリシタンゆかりの人々に囲まれて成長をしたことになる。おのずから近松門左衛門の精神は、隠れキリシタンによって形成された。

■参考ー鄭成功の母 田川マツについて

『日本女性人名辞典(普及版)』p.646-647より引用します。

田川マツ (生年不詳-1646)

鄭成功の母。肥前の国平戸、川内浦の住人田川七左衛門の娘。明の泉州(中国福建省)出身の鄭芝竜と契って、福松と七左衛門を生んだ。福松が後の鄭成功である。芝竜は平戸老一官と称して藩主の寵を受けた。のちオランダ船で南に行く途中海賊に捕えられたが才幹を認められ、頭目の死後は、党類を率いて中国南部の沿岸を攻め、明朝に帰順し、富貴権勢赫々たるものがあった。子供たちは平戸に残っていたが、福松は単身渡海し、一五歳で南京の太学に学ぶ。二一歳の時、明王隆武に謁し、国姓朱を賜り、成功と改名、軍部督となった。人々は国姓爺と敬称した。のち平戸の母を中国に招き、よく尽した。清が起り、明王が危険に瀕した時、芝竜は清に降ったが、マツは泉州安平城内で憤死した。平戸 川内浦千里ケ浜に、鄭成功の児誕(じたん)石と葉山鎧軒撰文の碑が立つ。(『史都平戸』『長崎女人伝』)

(引用終わり)

田中進二郎です。このように、日本に亡命してきた朱舜水は、陽明学、経世学、そしてキリスト教(これらは同一だった)の背景を持っていた大学者だった。
だから、長崎にやってくると、当時の儒学者たちが、次々と朱舜水に教えを
乞うた。山鹿素行、伊藤仁斎、山崎闇斎(あんさい)、浅見絅斎(あさみ けいさい)たちも思想を変容させていった。次回はそれについて書きます。
(続く)

田中進ニ郎拝