[297]流域思想について

茂木 投稿日:2011/03/20 10:41

会員番号1149番の茂木です。

東日本巨大地震で被災された方々に心よりお見舞い申しあげます。また復興に従事する皆さまに深い敬意を表します。

福島原発事故が提起するこれからの日本のエネルギー政策に関連して、以前私のブログ
http://celadon.ivory.ne.jp
に書いた、「流域思想」と「流域思想 II」の記事を転載させていただきたいと思います。21世紀型産業システムであるところの多品種少量生産、食の地産地消、資源循環と整合するこの「流域思想」については、以前転載した「内需と環境技術」(旧サイト[1425])でも触れたことがあるので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。

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流域思想(5/11/2010)

 これまで「内需主導と環境技術」や「牡蠣の見上げる森」などで紹介してきた流域思想(もしくは流域思考)について、“環境を知るとはどういうことか” 養老孟司・岸由二共著(PHPサイエンス・ワールド新書)の「あとがき」から、岸由二氏のお考えを紹介したい。その前に、本のカバーから同書の紹介文を引用しておこう。尚この本はすでに「内需主導と環境技術」の項でも紹介した。

(引用開始)

大地を構成する流域から考えよう。
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生物学者・岸由二氏は三浦半島の小網代や、都市河川である鶴見川の環境保全活動に尽力し確かな成果を挙げてきた。小網代は源流から海までまるごと自然のままで残っている、全国的にも稀有(けう)な流域である。本書で岸と養老孟司は共に小網代を訪れた後、「流域思考」を提唱する。自分が暮らす流域のすがたを把握することから、地球環境に対するリアルな認識が生まれるのだ。後半では元・国土交通省河川局長の竹村公太郎も鼎談に参加する。

(引用終了)
<同書カバーより>

 次に、岸由二氏の「あとがき」からの引用に移る。

(引用開始)

 環境を知るということはどういうことか。<脳化>社会の常識でいえば、それは、温暖化や、生物多様性の危機や、さまざまな汚染指標について、あまたの理論をまなび、技術や指標をマスターし、危機の現状と未来について知識をためこむことといって良いかもしれない。しかし本書に通低するテーマは、そういう知り方以前の知り方、生まれ、育ち、働いて死んでゆくヒトが、だれとどんな場所を生きてゆくと了解するのか、そういう意味での「生きる場所」としての世界の知り方の問題でなければならない。

(引用終了)
<同書「あとがき」(岸由二)より>

ここで岸氏は、自分を環境から外さない思考の重要性を述べておられる。これは、私が以前このブログで紹介したアフォーダンスの考え方と親和性がある。「アフォーダンスについて」の項からその部分を引用する。

(引用開始)

 アフォーダンス理論では、我々の住むこの世界は、古典幾何学でいうような、直線や平面、立体でできているのではなくて、ミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)から出来ているとされる。そして我々は、自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚の五つ)によって、運動を通してこの世界を日々発見する。(中略)

 この論理の重要な点は少なくとも三つある。一つは、常に思考や行動の枠組みから「自分」というものを外さないということ。私は「集合名詞(collective noun)の罠」で、行為主体として自己の重要性を指摘し、自己言及性に富んだアフォーダンスとの親近性に触れた。(後略)

(引用終了)
<「アフォーダンスについて」より>

残りの二つの重要な点については全文をお読みいただくとして、ここに引用したアフォーダンスにおける環境の捉え方や自己言及性は、岸氏のいう“「生きる場所」としての世界の知り方”と極めて近い考え方であることがご理解いただけると思う。

 続けて岸氏は、“「生きる場所」としての世界の知り方”の歴史を振り返る。

(引用開始)

 思い切って単純化すればそのような知り方は、実は数種類しかないというのが私の感想である。足もとの大地を生きものたちと共に生きる場所として、採集狩猟民のように知るという知り方。足もとの大地を耕作すべき場所として農耕民のように知る知り方。そして足もとの大地から地球製を剥奪し、大地そのものの生態的な可能性や制約とますます離れた様式で、ひたすらに経済的な功利性・技術的な可能性に沿って空間を分割し、極限的にまったくの人工空間、デカルト的な座標世界として世界を構成することこそ成熟と考える都市文明的な知り方。これまでの歴史は、おおむねこの三種類の知り方を時系列として展開されてきたのではないか。地球環境危機は、その展開が、足もとのリアルな地球の限界によって、いよいよだめ出しされている状況と考えるほかないと、私は思うのである。

(引用終了)
<同じく「あとがき」(岸由二)より>

ここで氏は、地球環境に対する人類の歴史を俯瞰している。日本列島の歴史に引き付けていえば、縄文文化、弥生文化、都市文化、という流れだろうか。その上で氏は、次のように自らの「流域思考」を定義する。

(引用開始)

 苦境からの脱出は、たぶん新しい文明を模索する脱出行となるだろう。それは都市からの脱出ではない。宇宙への脱出ではさらにない。むしろ都市の暮らしの只中において、採集狩猟民の「知り方」、ときには農民の「知り方」を駆使して、足もとから地球の制約と可能性を感性的・行動的に再発見し、もちろん都市そのものの力も放棄することなく、地球と共にあるエコロジカルな都市文明を模索する道なのだろうと私は考えている。採取狩猟民時代の人類は足もとの地表にすみ場所をさだめる地表人であった。産業文明の都市市民は足もとにますます暗く、<家族と家>というまるでスペースシップのような人工空間暮らしと、さらには実現するはずもない宇宙逃亡さえをも妄想する宇宙人となりつつある。その宇宙人たちが、採集狩猟の地表人のように足もとから地球=環境を知る暮らしを再評価し、地表人の幸せの中で子供たちを育てはじめ、やがて宇宙人+地表人=地球人となってゆく。百年かかるのか、二百年かかるのかわからないが、<流域思考>を手立てとして、人類はそんな道を選んでゆくことができるのだろうと私は信じているのである。

(引用終了)
<同じく「あとがき」(岸由二)より>

 いかがだろう。新しい環境の知り方は、これまでの採集狩猟民的、農耕民的、都市文明的、という三つの「知り方」の上に立脚し、さらにそれらを発展させたものでなければならない。それがこれからの「流域思想」であると岸氏は云うのである。

流域思想 II(5/18/2011)

前回「流域思想」のなかで、流域思想とアフォーダンスの考え方の親和性に触れた。「アフォーダンスについて」の項では、アフォーダンス理論の重要な三点を挙げたので、流域思想についても、同じように重要だと思われる点を三つ挙げてみたい。その前に、「アフォーダンスについて」から、アフォーダンス理論の重要な三点を復習しておく。これは前回飛ばしてしまったところだ。

(引用開始)

 この論理の重要な点は少なくとも三つある。一つは、常に思考や行動の枠組みから「自分」というものを外さないということ。(中略)

 二つ目は、環境と知覚とが、運動を通して表裏一体とされる点である。(中略)表裏一体ということは、お互いの交換価値が等しいということである。私はこの価値等価性を「通貨とは異なる価値基準の鼎立」として、さらに展開・深化できないものかと考えている。これまでの経済理論では、生産と消費とは別々の場面で、それぞれ異なった動機で行われ、その価値は通貨という客観的な価値基準で決まるとされている。このようなアフォーダンス理論の経済学への適用は、まだあまりなされていないのではないだろうか。(中略)

 さて、アフォーダンス理論の重要な点の三つ目は、「知覚システム」には終わりがないということだ。どういうことかというと、我々は、世界の何処で何をしていようが、常に世界全体を(一挙に)把握しているということである。知覚システムは常に環境からの情報をそれまでの情報に重ね合わせて修正を加え続ける。たとえば、今あなたはPCの画面を覗いているが、画面の後ろにある壁、部屋全体、家や街、そして世界全体を(一挙に)把握している筈だ。あなたの頭の中にはあなたがこれまで体験してきた世界の全てが同時にある。アフォーダンスではこれを「異所同時性」と呼ぶ。つまり、脳は常に「現在進行形」なのだ。

(引用終了)

 さて、それでは流域思想に戻ろう。まず重要な点の一つは、アフォーダンスと同じように、常に思考や行動の枠組みから「自分」というものを外さないということである。これは前回「流域思想」の項でも述べたところだ。環境の内側から自己を捉えることが流域思想の重要な点の一つ目である。

 二つ目は、多様性の尊重である。ひとつの流域は、水の流れに沿って一つの纏まりを形成する。「内需主導と環境技術」の項で紹介した“環境を知るとはどういうことか” 養老孟司・岸由二共著(PHPサイエンス・ワールド新書)によると、日本には「一級水系」と呼ばれる流域が全部で109あるという。同書から引用しよう。

(引用開始)

岸 日本には一級水系が一〇九ありますが、どの水系に対応する流域でも基本構造は同じです。生きものの体の単位が細胞で、細胞がわからなかったら生物がわからないのと同様、大地のことを知るためには、その構成単位である<流域>のことを知らなければならない。(中略)
 私はグーグルアースが、ワンクリックで地球の全表面を流域に分けるプログラムをつくってくれないかなとつねづね考えています。プログラムは難しくないはずですし、そうしたら全世界規模で大地の認識が激変すると思いますね。(後略)

(引用終了)
<同書69-72ページ>

東京周辺の主な一級水系を挙げてみると、利根川、荒川、多摩川、鶴見川、相模川などなど。さらに二級以下の水系には、渋谷川、目黒川、呑川、帷子川、大岡川、境川、引地川などがある。自分が暮らしている水系を人々がもっと意識すれば、流域独自の文化と共に、全体の多様性について認識できる筈だ。

 三つ目は、資源の循環。「牡蠣の見上げる森」の項で述べたような食物連鎖とエネルギーの循環が、流域思想の重要な柱の一つだと思う。自然に理に適った流域ごとの発電・供給システムはもっと検討されて良いのではないか。同じく「内需主導と環境技術」の項で紹介した“本質を見抜く力”養老孟司・竹村公太郎共著(PHP新書)から引用しよう。

(引用開始)

竹村 日本はどうしたらよいのでしょうか。私はやはり、エネルギー源を日本列島内で分散化すべきだと思います。「国土の均衡ある発展」などという建前ではなく、各々の地方地方が自立したエネルギー獲得システムとしく食料自給システムを作らないといけない。そうやって自立した地方には、今後必ず、都会から逃げ出す人が出てきます。地方にそのときの受け皿になってもらいたいです。
たとえば電力会社が大発電所を作り、全国津々浦々に送電するのは無駄が多い。そこで、たとえば過疎地は地元の川で水車を回してエネルギーを作ることにする。夜は水車で発電し、余った電気で水を分解して水素を作り、昼間はその水素をチャージする。そんな新しい文明を、国家として構築することが大事だと思います。(後略)

(引用終了)
<同書45-46ページ>

 以上、流域思想の重要点を三つ挙げた。これからも様々な角度から流域思想について勉強していきたい。