[2663]日本統一王朝の初代天皇(その四

守谷健二 投稿日:2020/11/09 08:36

何故大海人皇子(天武天皇)は「壬申の乱」を決起したのか

 天智天皇の嫡男・大友皇子に大海人皇子(倭国の大皇弟)と額田王(ぬかだのおほきみ)の間に生まれた十市皇女(といちのひめみこ)を嫁がせその間に御子(葛野王)が誕生していた。

 つまり大海人皇子は、天智天皇の後継者・大友皇子を祝福していたのである。両王家の婚姻が成立したことに安堵していた。
 ではなぜ決起に踏み切らなければならなかったのか。

 「壬申の乱」の起因は、すべて西暦671年11月の唐使・郭務宋の来日にあった。688年に宿願であった高句麗討伐を成し遂げたが、朝鮮半島経営に関して共に戦ってきた新羅との間に深刻な対立が生じ、ついには戦争に発展してしまった。半島統一に向けた新羅の意気は高く、唐軍は苦戦を強いられ窮地にあった。
 そこで倭国に対して援軍の要請(命令)をして来たのである。しかし倭王朝は既に近畿大和王朝(日本国)の臣下に成り下がっていた。唐の要請を大和王朝に丸投げするしかなかった。

 大友皇子(弘文天皇)は、唐の要請に応え美濃尾張国で徴兵を開始していた。天智天皇は、百済からの亡命者に美濃尾張の土地を与え開墾自活を促していた。これらの中には少なからぬ倭国の王党の人々も紛れ込んでいた。
 この兵士たちの数は二万にも及んだと記されている。この兵を何の抵抗も受けずに手に入れた事が、大海人皇子(天武天皇)の勝因であった。

 それでも何故、天智天皇の恩情、信頼を裏切って「乱」に走る必要があったのか。

 この郭務宋の来日に、見落としてならない記事(日本書紀)が付いている。長安に拘留されていた筑紫の君・薩野馬(さちやま)なる人物を帯同していたのである。
 筑紫君とは筑紫王朝(倭国)の国王に他ならない。唐朝は、捕虜となっていた倭国王を送還して来たのであった。
 
 大皇弟(大海人皇子)に後事を託して長安に連行された倭国王である。しかし帰還して見れば、倭国はすでになく、最愛の妃・鏡王女は大和王朝に献上されていた。倭国王の落胆、怒りはいかばかりであったろうか。

 そんな中へ、百済亡命者、倭国の王党を中核とする兵団を送り込んだら倭国王は、必ずやこの兵団を獲得すべく画策するであろう。日本統一王朝の分裂、倭国の再独立、国内大戦争に発展するのは目に見えていた。

 この兵団が筑紫に立つのを何が何でも阻止せねばならなかった。大海人皇子は追い詰められていたのであった。