[2651]日本統一王朝の初代天皇(その一)

守谷健二 投稿日:2020/10/26 11:19

守谷健二です。七世紀、八世紀の日本の政治情勢を書きたいと思います。 

 我々日本人が学んできた『日本史』は、中国正史『旧唐書』の日本記事を誤りと決め付け無視することで創られてきました。

『旧唐書』は、日本代表王朝を七世紀半ばまで倭国(筑紫王朝)で作り、八世紀初頭から日本国(近畿大和王朝)を日本代表と扱っています。当然「白村江の戦」で唐・新羅連合軍と戦った相手は倭国であったと記します。

七世紀半ばまで日本列島を代表していたのは倭国(筑紫王朝)で、勢力は近畿大和王朝を圧倒していました。
『隋書』は、「新羅・百済は皆倭を以て大国とし珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使往来す。」と書く。

つまり倭国は、新羅・百済に対し宗主国の立場にあった。その新羅が西暦650年、唐朝に走り、唐朝の完全な臣下に入ったのです。これは倭国に対する裏切りでした。この時から倭国の新羅討伐は喫緊の課題になっていた。

それなのに661年八月まで新羅討伐軍を派兵できなかったのは、背後に控える大和王朝(日本国)の協力を取り付けることが出来なかったからです。大和王朝は近年目覚ましく国力を充実させていました。

西暦661年正月六日、斉明天皇は筑紫行幸に出発します。教科書に「新羅討伐への親征」と書かれている事です。
しかし『日本書紀』は、この二日後に船中で大田皇女(中大兄皇子の娘、大海人皇子に嫁いでいた)が女子を出産した、と書きます。

いったいこれはどうしたことでしょう、新羅討伐のため、戦争するための筑紫行幸ではありませんか。それに身重の臨月になっている皇女を、どうして帯同する必要があったのですか。これは日本最初の正史『日本書紀』の記事です。

百済王朝は、この前年(660年)八月に唐・新羅連合に滅ぼされていました。斉明天皇はこの事実を知っていたのでしょうか。知った上で身重の皇女を帯同していたのでしょうか、私はとても信ずることが出来ません。倭国が情報を遮断していたのではないか。

斉明天皇は661年七月崩御します。新羅討伐の出兵は翌八月に強行されました。
もし日本列島が統一王朝になっていたなら、斉明天皇は日本全体の天皇です。その天皇が崩御した翌月に戦争を開始するなど許されることか。

私は次のように考えます。日本には二つの王朝が並立していた。『旧唐書』の記事は正確である。
力関係は、倭国が断然優っていたが、近年の大和王朝の充実は無視できなかった。
大和王朝を説得する切り札として大海人皇子(天武天皇)が派遣され、何とか説得することに成功し、中大兄皇子(天智天皇)の娘・大田皇女との婚姻が成立した。

斉明天皇の筑紫行幸は、身重の大田皇女を無事倭国に送り届けるのが目的であった。筑紫王朝と大和王朝の同盟が成立したことを大々的に披露するための行幸であった。
斉明天皇は、筑紫について初めて百済王朝の滅亡を知らされたのだろう。斉明天皇は出兵反対、同盟解消をも言い出したのではなかったか。天皇の死は、どうも暗殺の気配がある、『日本書紀』が、そう匂わせているのだ。

半島出兵は、663年八月「白村江の戦」において倭国軍の壊滅的惨敗に終わった。
三万もの海外派兵であった。倭王朝は大打撃を被ったのである。力関係は完全に逆転していた。倭国の民の怒り恨みは大きく、都の治安さえ守ることが出来なくなっていた。

次回につづく。