[2642]日本学術会議の問題についての核心

相田英男 投稿日:2020/10/04 02:01

相田です。

最近はおちゃらけた投稿ばかりでしたが、今回はマジで行きます。

新たに総理になった菅氏が、日本学術会議のメンバー数人を承認しなかったと、物議を醸している。それに関する記事の一つを引用する。

(引用始め)

2020/10/3 16:00 (JST) ©株式会社京都新聞社
社説:学術会議人事 萎縮生む不当な介入だ

学術の立場から政府に政策提言する「日本学術会議」の新会員について、菅義偉首相が同会議推薦の候補者105人のうち6人を任命しなかった。首相が一部の候補者を「排除」した形だ。法律上、会員の任命権者は首相だが、現在の制度下で推薦された候補者が任命されなかったのは初めてだ。

加藤勝信官房長官は「任命する立場に立って、しっかりと精査していくのは当然」と述べ、法律に基づく判断だと強調した。だが、なぜ任命しなかったのかについては明らかにしていない。理由を示さず一方的に人事に介入することは、政府への過剰な忖度(そんたく)を生み、会議の活動の萎縮につながるおそれがある。学問の自由を著しく侵害する行為だと言わざるを得ない。

学術会議は日本の科学者を代表する組織として、1949年に設立された。「学者の国会」とも呼ばれ、前政権下では防衛省による軍事研究への助成制度を批判するなど、政府から独立した立場で提言を続けてきた。会員には、高度な専門性が求められる。このため、学術会議は各分野の代表となる会員候補を推薦し、政府もこれを尊重してきた。

ところが今回、菅首相はこの慣例を変えた。任命しなかった6人には、共謀罪の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法に反対したり、安全保障関連法案の審議過程で違憲性を主張したりした学者が含まれている。法律上の任命権を盾に、前政権の政策に異論を唱えた人物を外したと受け取られても、仕方あるまい。

懸念されるのは、今回のケースが、政府に恣意(しい)的な人選を認める前例となることだ。菅首相は、官房長官時代から官僚組織の掌握に人事権を活用してきた。総裁選中に出演したテレビ番組でも「反対するのであれば異動してもらう」と明言している。科学者に対しても、首相自ら人事権を握っておきたいとの意向なのだろう。

 無難な勧告や提言だけしていればいいと言わんばかりの対応では、専門的な知見を政策に生かす機会が奪われよう。政府にとってもマイナスになるのは明らかだ。学術会議はきのうの定例総会で、菅首相に対し、任命を見送った理由の明確化と、改めて6人を任命するよう求める要望書の提出を決めた。政府は真摯(しんし)に応じるべきだ。

(引用終わり)

相田です。

さて、今回の問題で騒いでいる政治家や、マスコミ関係者の中で、日本学術会議というものが、そもそもが、どういう目的で作られた組織なのか、正確に理解出来ている人物はいるのだろうか?

おそらく誰もいないだろう。

学術会議の別名が「科学者の国会」と呼ばれる、その本当の理由も、騒いでいる連中の殆どは知るまい。70歳以上の、大学出の方々はご存じであろうが。

学術会議が終戦直後に作られた詳しい経緯を書いた本は、今では簡単には見当たらない。科学史家の広重徹(ひろしげてつ)が残した「科学の社会史」、「戦後日本の科学運動」か、同じく、科学史家の中山茂がリーダーとなって、トヨタ財団の支援でまとめたプロジェクトの成果である「通史 日本の科学技術」(全5巻)、を読めばわかる。物理学者の伏見康治(朝永振一郎よりも数学の能力が高いといわれた人物)の自伝「時代の証言」にも、学術会議の発足についての記載がある。

しかし、令和の今になり、これらの古い本を読む方は、殆どいないだろう。

結論をいうと、日本学術会議の設立は、日本の科学体制の歴史を辿る中で、最重要の出来事である。断言できる。

私は自著の「東芝本」に、上記の本を参考にして、学術会議の結成についての経緯を、ざっくりと書いた。読んだ人は殆どいないだろうが・・・。ちなみに元になった原稿を、「重たい掲示板」の過去ログに残しているので、興味がある方は辿っていただければよい。物好きの方がいれば、であるが。

日本学術会議とは、1949年に、日本国が米軍の支配下にあった時代に発足した学術組織だ。その目的は、戦前の旧い学術組織を全て解体して、一本化し、現場の科学者達の手に、取り戻す事だった。文科、理科の両方における日本の学術分野の全体の方針を、科学者達自信の代表により決定するために、学術会議は作られた。学術会議員の選抜はは、科学者達による直接選挙であった。直接選挙で選ばれた二百数十人の学術会議員の合議により、日本の学術方針を決める場が、本来の学術会議だったのだ。

しかし、1980年代に体制が変わり、議員の選抜は直接選挙から、科学者同士の推薦による方式となった。そこで推薦された会員候補者を任命するのが、総理大臣の役割だと、現在の学術会議法には定められている。だから法律に則って、今回は相応しくない学者達6名の任命をしなかった、と言うのが、菅総理の説明らしい。

さて、道理の上からは、菅総理の言うことは全く正しい。しかし、相手の科学者達の気持ちは、これでは絶対に収まらないだろう。学術会議の役割には重要な不文律がある。菅総理の判断は、その伝統的な不文律を踏みにじる行動だからだ。

その不文律について、伏見康治(昭和53年から57年まで学術会議長を勤めた)は、「時代の証言」の中で、発足当時の学術会議法を引用し、次のように語っている。

(引用始め)

日本学術会議法
 第1条第2項
   日本学術会議は内閣総理大臣の所轄とする。
 第1条第3項
   日本学術会議に関する経費は、国庫の負担とする。

この第1条第3項が注意が必要である。およそ国の機関で国費で賄わないものがあるだろうか。国の他の機関の設置法で、こういう条項のあるものがあるだろうか。これは日本学術会議が実は国の機関ではなく、政府から独立したものであることの実際上の保障なのである。日本学術会議の運営上の事務を担当する事務局があるが、この部分は政府の一部なのである。科学者の会員が色々な会合を催すのに必要な費用も国が負担する。しかし会員の集合体である日本学術会議の本体は、政府と全く独立して物を言うことができる。時にはその時点での政府の政策に対して、真向から反対する意見を出してよい訳である。

(引用終わり)

相田です。学術会議は総理大臣の直轄下に置かれた理由は、総理大臣に科学知識の助言を行うためで、等はない。学術会議を政府と切り離した、完全な独立組織とするためである。伏見によると、政府の意向とは完全に独立に、場合によっては政府の意向に反してでも、自由な発言権を科学者達の代表に与える事が、学術会議には当初は許されていたのだ。

発足当初の学術会議は、世界的に見ても例のない、過激な民主主義の理想の下に作られた組織だった。GHQ -SCAPにいたニューディーラー(多くはアメリカ共産党員だった)の、意気込みを受けて作られたからだ。

ニューディーラー達は、日本の科学者達に、自らの考えにより、国家の学術体制の理想形を作るように、強く訴え続けた。アメリカ側との連絡を取り持ったのは、「リエゾン」と呼ばれる、学術分野毎に分かれた、能力の高い若手研究者の少人数のグループであった。

学術会議の準備段階で議論されたアイデアの一つには、「科学および教育に関するあらゆる政策、研究費の決定・配分の案を決定し、国会の決議を得たうえで政府にその執行を命令し、監督する権限を持つ “最高科学者会議” を設置せよ。最高科学者会議のメンバーは、科学者による直接選挙で選べ」という、過激な案まであったという(広重の著作による)。さすがにそこまではやりすぎだ、ということで、「科学者の意見を政府に提言する組織」という内容で、落ち着いたらしい。

学術会議発足後の、占領下での国が貧しい時代には、日本の学術に関する重要事項の全ては、学術会議の議題として審議され、承認を受けた後に政府で実施されていた。文字通り学術会議が、日本の科学体制の司令塔として活動していた。しかし、朝鮮戦争を経て経済復興が本格化すると、学術会議のまどろこしい議論を待つ余裕が、経済界や政府には無くなって来る。1954年に当時は駆け出しの若手議員だった中曽根康弘により、「原子力予算」が国会に提出され、成立した。これをきっかけに、科学技術庁が学術会議とは別に設立される。科技庁を通じた研究開発予算は、学術会議の審議を経ることなく、研究現場に行き渡り始めた。

このように自民党の政治家達により、学術会議の当初の権限は、徐々に切り崩されていった。一方で、学術会議側にも問題が生じていた。議員を直接選挙により選ぶ仕組みを利用して、レッドパージにより農林省を追放された、農学者の福島要一(ふくしまよういち)や、同じく国立科学博物館を追放された、古生物学者の井尻正二(いじりしょうじ)等が、20年以上に渡り議員に在職し続けるという、部外者から見てあまりにも不可解な事象が生じていた。

彼らのような、組織に属さない在野の研究者でも、政治思想的な影響力を駆使することで、票を集めて議員になる事が出来た(当時は学術会議員の当選回数には制限は無かった)。右翼議員として名高い森山欽司(もりやまきんじ)から、「アカの巣窟と化している」と罵倒された、日本原子力研究所(原研)の、労働組合(原研労組)のリーダーだった中島篤之助(なかじまとくのすけ)も、学術会議員を長く務めていた。

森山が科学技術庁長官時代に起こった不祥事を、国会で追求する際に、中島は共産党議員から何度か、証人として国会に呼ばれている。中島の発言が始まった途端に、森山が「お前のようなものが、どうしてこの場にいるのだ」という嫌味を述べたのが、国会の議事録に残っている。

結局、1970年代になると、高い理想を掲げていた学術会議の中に、多くの矛盾が存在することが露呈するようになる。そのような状況で、自民党議員達から、かねてから反政府的な発言を繰り返す学術会議員への対応として、直接選挙から推薦方式への選抜方式の変更が、要望として出された。伏見康治が会長の時代に、なし崩し的に、学術会議法は自民党により修正される。これにより、直接選挙による学術会議の体制は終焉を迎えたのだった。

科学者自身による直接選挙のしくみが奪われたことで、学術会議の理念は実質消滅した。当時の覚書として、政府は学術会議が挙げた推薦人について、口を挟むことはない、と述べた内容が、議事録に残っているらしい。しかし、菅総理は今回、その約束を反故にした。長くなったが、そういう経緯である。

はっきり言って、現状の日本学術会議は、あっても無くてもどうでも良い、老人達の寄合のような集団に過ぎない。このまま時を重ねれば、自然に忘れ去れる存在だと、私は思う。しかし、学術会議を店仕舞いするのであれば、単に終わらせるだけではいけない。設立時に唱えられた崇高な理念が、現実のものになったのか、理念が未だ実現しないのであれば、どうすればよいのか、きちんと総括しなければならない。それこそが、後を継ぐ者の責務である。

学術会議が成立した時、菅総理は物ごごろつかない赤ん坊に過ぎなかった。秋田の田園の中で、首が座るかどうかの幼児がのんびりと過ごす同じ頃に、東京では多くの学者が集まり、米軍の監視の下て、激しい議論を交わしていた。科学技術の力が劣った故に廃墟にされた日本の社会を、科学の力を正しく使うことで復興させることを目指して、科学者達は理想をぶつけ合っていた。その事実をせめて認めて、その意思を(形だけではあるものの)受け継ぐ、今の学者達に対して、僅かでも理解を向けてもらえないのか。

菅総理はそんなことは、恐らくは、全く関知しないであろう。科学者達の怒りは、そこから発しているのである。

最後に書くが、自分よりも弱い相手に対して、厳しい道理を説いて、バッサリと斬り捨てるのも、仕方がないのかもしれない。しかし、それならば、今度は、自分よりも強い相手に対峙した際に、相手の道理により切り捨てられることを、今から覚悟すべきだろう。

相田英男 拝