[2635]加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった①

田中進二郎 投稿日:2020/09/20 20:46

加賀前田藩は隠れキリシタン王国だった ① 田中進二郎

 このたび、副島隆彦先生の監修と推薦文を頂き、電波社より『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』が出版されることになりました。↓著者の田中進二郎です。


秀吉はキリシタン大名に毒殺された

 1冊の本を書くというのが、とても大変であるということを、身をもって学ぶ貴重な経験になりました。9/28に発売開始予定、ということで、この場をお借りして、宣伝させて頂きます。(少し製本作業が遅れて、9/24の発売予定日に間に合わないのではないか、と思われます。)

 『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』のタイトルは、副島先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(2016年 PHP刊)の間を埋める内容である、ということです。『信長はイエズス会に爆殺され、・・・』以外の副島先生の著作からも、理論や知識を借用させて頂きました。

 大小含めて、全部で30箇所ぐらいあります。ですから、副島先生の本の読者にとっては、『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』は、馴染みやすいのではないか、と思います。ただ、全て著者の理解した範囲での、副島理論の引用、活用であることはお断りしておかなくてはなりません。

 副島先生から頂いた推薦文の冒頭で、「本書ー『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』ーの圧巻は、加賀(石川県)金沢の大名、前田利家のもとに落ち延びた、キリシタン大名の筆頭、高山右近が、そのあと25年にもわたり、加賀でイエズス会宣教師たちとともに密かに布教活動を続けていた事実を明らかにしたことである。秀吉のキリシタン禁教令(バテレン追放令)天正15(1587)年6月のすぐあとからだ。金沢は今やキリシタン文化都市として知られる。」
と紹介して頂いています。

 本書の後半の主人公は、秀吉、家康ら天下人と、キリシタン大名・高山右近、前田利家、蒲生氏郷、宣教師ヴァリリャーニです。

 利家の正室・まつや、利家の四女で宇喜多秀家の正室だった、豪姫も重要です。豪姫は、関ヶ原の戦いで西軍についた夫・宇喜多秀家が八丈島に流されたあと、1608年に備前岡山から生まれ故郷の金沢に帰還しました。この年に、高山右近は金沢教会(現在の金沢城と兼六園の入り口辺りに存在した)に、豪姫を招待して日本最初のクリスマス・パーティーを開いた、ということです。

 右近の金沢での布教活動について、実際に現地調査を行ったところ、新たに興味深い事実が分かってきました。本書で書き切れなかった部分を中心に、以下補足として書きたいと思います。
(写真貼り付けに失敗しているだろうな、、、。空白は写真を入れてるつもりなんですが)

●キリシタン大名・高山右近が加賀に落ち延びるまで

 高山右近(1552-1615)は1564年に、父・飛騨守(友照)とともに、イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラから洗礼を受けて、入信する。ヴィレラは、ザビエルの来日布教(1549年)後の、第2陣の宣教師である。

 1568年高山父子は、足利義昭を擁立して、入京した織田信長に下り、武将・荒木村重の配下に入る。73年に家督を父・飛騨守から譲られ、高槻城主(大阪府)となっている。
1576年には、京都(四条蛸薬師通り)に南蛮寺を建立し、父子が揃(そろ)って、落成式に参加している。


京都・南蛮寺跡(三階建てで、本能寺から150mほど離れたところにあった)

 高槻領内では、家臣や領民をキリスト教に改宗させている。強制的な改宗も行われ、高槻の仏教寺院は破壊された。イエズス会の『1579年日本年報』(ローマに送る年次報告書)には、高槻の領内に八千人のキリシタン信者がいた、と記されている。が、さらにその2年後の、81年には、高槻の二万五千人の人口のうち、一万八千人が信者だった、ともいわれている。

 1579年の荒木村重の謀反では、荒木と連携して、信長に抗した。だが、信長が宣教師オルガンチーノを高槻城に送り、右近が恭順しなければ、京都の宣教師は皆殺しにされる、と説得させた。右近は、高槻城を開城し、信長に下った。その後、再び高槻領の城主になる。
 
 一方、父・高山飛騨守は荒木の本城・伊丹城(摂津国 兵庫県)に逃げた。伊丹城が信長の大軍に攻め落とされた後、飛騨守は信長の重臣・柴田勝家を頼って、北の庄(越前国 福井市)に逃れている。そして、越前国で布教を続けた。一向宗の拠点でもある越前国に、キリスト教が入っている。柴田勝家と妻・お市の方(信長の妹)、それから、お市の方の前の夫・浅井長政の娘の三姉妹・茶々(のちの淀君)、お初、お江(のちの徳川秀忠の正室)の一家が、飛騨守の影響でキリシタンになっていた可能性もある。

 1583年に、秀吉に北の庄城を攻められた、柴田勝家、お市の方は自害するが、そのあとも越前国にも、隠れキリシタンは少なからずいたようである。


金沢カトリック教会前に立つ高山右近像(1588年秋から、26年以上、能登と加賀で布教活動を行った)

 高山右近は、1582(天正10)年6月2日の本能寺の変後の、山崎の戦い(京都府 6月13日)で、秀吉に味方して、決定的な役割を果たした。これは本書で詳しく論じましたが、ルイス・フロイスが、「右近はわずか一千の兵で、明智光秀の軍一万を破った」と記している。(1583年イエズス会総長宛書翰『信長の死について』より)

 山崎の戦いで勝利を収めた秀吉が、柴田勝家ら信長の重臣たちを圧倒して、次の天下人になっていきますが、秀吉は右近を用いつつも、警戒するという姿勢でした。1614年に右近を国外追放した徳川家康は、右近を徹底的に嫌いました。
 
 家康は常々、「右近麾下(きか)千人は他の何人(なんびと)の部下の一万人にも優る」と言っていた。これは、山崎の戦いでの右近の働きを指している、と考えれば納得がいく。
秀吉本隊が、「中国大返し」で20km余りを走ってきて、疲労困ぱいで戦場にたどり着いたときには、光秀軍は敗北寸前だった。先鋒隊の右近隊一千が、光秀本隊に勝利を収めつつあった。秀吉本隊は、総崩れとなり、逃げる光秀軍を追撃して、光秀軍の首を取るだけでよかっただろう。
 山崎の北にある勝竜寺城を包囲すると、光秀はさらに逃げようとして、京都の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りにあって死んだことになっている。が、本当は、光秀は家康の忍者部隊・水野忠重に保護された(副島先生の『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』)。
 そして、天海となった光秀は、家康に、イエズス会が背後にいる高山右近の恐ろしさを教えたのだろう。
 
 秀吉は、右近の山崎の戦いの功績に報いて、高槻領に隣接する能勢郡(大阪府北部)を与えた。ここは一帯が、多田銀山と総称される銀の産出地だった。大阪夏の陣のときに、豊臣方の真田幸村が、ここに大阪城の埋蔵金を隠した、という伝説がある。
 ところがその三年後(1585年)には、明石に改易(国替え)になっている。秀吉は京都、大阪の真ん中にキリシタンがぞろぞろいることを望まなかった。領民と領主がキリスト教で一丸となることを、秀吉は恐れていた。また、この年、右近は、黒田官兵衛(如水、孝高)ら秀吉配下の武将に、洗礼を与えた。蒲生氏郷(がもう・うじさと)もこの時受洗した、とされている。
が、彼らはその前から、ずっとキリシタンだっただろう、というのが、筆者・田中の考えだ。この頃に秀吉の家来たちが、公然と、キリシタンとして動き出した、ということだろう。
  
 20年後のことですが、右近は、京都の伏見屋敷でも布教している(1604-1614)。「右近の屋敷は、そのまま教会であった」、と伏見屋敷跡の説明に書かれている。伏見の町の中心部です。現在、酒造会社の「月桂冠」がこの跡地を整備しています。


(筆者撮影)

 右近は、改易後、明石の城と港を整備して、ここにガスパル・コエリュ、ルイス・フロイスらが長崎から寄港すると、彼らと、総勢三十名で大阪城に向かい、秀吉と歴史的会見をする(1586年5月4日)。しかし、ここでのコエリュ(イエズス会日本準管区長)とフロイスの傲慢な発言が、秀吉に、イエズス会に対する警戒の念を抱かせることになった。加賀の前田利家も、この時秀吉と同席して、不快になった。右近もあわてて発言を制止しようとしたが、この時、イエズス会の日本侵略の謀略が、ばれてしまった。そして、翌年の87年(天正15)7月、青天の霹靂(へきれき)のように、バテレン追放令が出される。しかし、右近だけは、この日が来ることを予感していた、という(渡辺京二著『バテレンの世紀』より)。

 小西行長や黒田官兵衛が表向きの棄教をして、秀吉の勘気を和らげたが、右近は棄教を拒み、秀吉の家臣を追放される。そのあと、小西行長の領地の、瀬戸内海の小豆島(香川県)に潜伏していたが、それが秀吉にばれて、そこを離れ、長崎でコエリュに会っている。そして、前田利家が、秀吉の怒りが和らいだ頃合いを見計らって、とりなした。右近は、秀吉の許しを得て、加賀の前田利家のもとへ頼っていった(1588年9月)。千利休が蒲生氏郷に、手紙でそのように伝えている。「利休十字軍」の情報網だ。右近は、以後1614年まで、26年間も、加賀で布教活動をした。

●『右近が建てた金沢教会は日本で最も繁栄した貴族集団である』

 加賀の前田利家についてであるが、金沢を本拠地にするのは、賤ヶ岳の戦いの後である。それまでは、本能寺の変以後、利家は、能登国の七尾城に拠っていた。金沢は信長の家臣・佐久間盛政が入っていた。金沢の街割りも、佐久間盛政が最初に行っている。金沢城はもともと、浄土真宗の道場の金沢御坊があった。それが、叩き壊されて、城下町に変わった。大阪城が、石山本願寺の跡地に建てられたのと同じだ。佐久間時代の街割りを、ほぼ当時のまま残している、と言われるのが、金沢の香林坊(こうりんぼう)の近くの長町(ながまち)武家屋敷の辺りだ。佐久間盛政は賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、柴田勝家側について奮戦するも、捕らえられて処刑される。「死んでも、秀吉の配下になりたくない。」という猛将だった。以後、利家が金沢を拠点として、佐々成政(さっさなりまさ)を末森城に破って、加賀国を支配することになった。


前田利家像
   
 右近は、利家に匿われ、1万5千石の禄(ろく)をもらった。能登の七尾の本行寺にいて、ここで利家と正室・まつたちをキリシタンに変えていった。ここでイエズス会宣教師が、当時の西洋学問も教えた。ここで学んだ一人が辰巳用水を開いた、板屋兵四郎である。日蓮宗の本行寺の茶室で、ミサを行っていた。

 右近は、金沢城天主閣の修築も、手掛けたと言われている。この時天主閣は、京都に建てた南蛮寺を模して作られた。

金沢城 菱櫓と京都南蛮寺が酷似していることについての記事↓
https://go-centraljapan.jp/route/samurai/spots/detail.html?id=140


金沢城 菱櫓の木組み 実物の10分の1の模型と菱櫓((菱櫓内にて筆者撮影)

 金沢の年配の観光ボランティアから聞いた話であるけれども、京都の南蛮寺と、金沢城天主閣(1602年の火災で焼失)を再現したもの、といわれる菱櫓(ひしやぐら)には、大きな共通点がみられる。菱櫓の四隅が黒塗りだが、それは柱を入れた上から、黒漆塗りの鉄板で覆っている点である、とのことである。金沢城・天主閣で右近はミサなども行っていたはずだ。
どうも、高山右近が天才建築家であったことは疑い得ないようである。これは、イエズス会宣教師たちから、非常に高度な工学を教わっていたためであろう。

 七尾だけでなく、金沢城下にも、高山右近は屋敷を構えた、とされている(1599年以降とされている)。兼六園の入口の紺屋坂下に、金沢教会(南蛮寺)があった。
 
 右近の生存中に、加賀前田藩の有力藩士はみな、キリシタンになっていった。ミサを執り行うたびに百名の藩士たちを一晩で受洗させていた、という。しかし、領民たちはほとんど、右近のミサに参加しなかった。武士たちが密かにデウスを信仰した。

 また加賀藩は、真宗王国の加賀・能登の一向宗徒を弾圧した。キリシタンと一向宗信徒が階級で真っ二つに分かれていた。
 
 バテレン追放令を出した羽柴秀吉だが、「農民、町人など下々(しもじも)の者が、キリシタンを信じるのは、勝手にせよ。だが、大名、武士たちがキリシタンになることは、許さない。」と考えていた。しかし、徹底できなかった。秀吉の中途半端なキリスト教禁教政策の裏には、一向一揆に対する恐れがあった。それが仇となり、加賀前田藩は、秀吉が恐れていた通りの布教状況になっていった。

 右近国外追放の翌年の、1615年のイエズス会年報には、「金沢教会は日本で最も繁栄した貴族集団である」と記されている。金沢は、1587年のバテレン追放令以後、キリスト教布教の中心であった。
 
 イエズス会の指令を受けたキリシタン大名たちが、繰り返し秀吉暗殺計画を行っていたことは、本書『秀吉はキリシタン大名に毒殺された』第二部で論じました。これまでの利家像は,秀吉政権を裏で支えるナンバー2、というのが、一般的でした。秀吉と利家の関係は、たとえるなら、中国共産党の毛沢東と彼に忠実な、周恩来の関係のように思われてきた。

 しかし、それはキリシタン大名という存在を全く捨象して、築かれてきた戦国日本史の中の利家像である。秀吉の身内や側近たちはキリシタンだらけだった。

 その中心人物が千利休、高山右近、小西行長、蒲生氏郷である。この4人はイエズス会から直接指令を受けていた。利家が右近を庇護したことにより、利家と秀吉は、「懐に刀を隠した友情」の関係になっていく。副島先生いわく、「秀吉が利家を殺そうとして、家康がかばったこともあった」そうである。

 利休は何度も秀吉暗殺を企てているが、その度に失敗して、最後は処刑された(1591年3月17日)。右近は、直後、再来日した宣教師ヴァリリャーニに会うために大坂に出向いた。
イエズス会の方針は、「秀吉を謀殺せよ、そして小西行長を日本国王にする。」というものだった。この指令は右近を通じて、加賀の前田利家にも伝えられた。

 その後は、骨肉相食む(こつにくあいはむ)の恐ろしい殺し合いでした。そして、秀吉はキリシタンの前に、敗北した、本書で筆者は結論づけました。

 利家もまつも、秀吉の正室・北の政所も、側室の淀君もみんなキリシタンでは、秀吉もお手上げです。

 秀吉の死(1598年9月18日)後、五大老・前田利家も、1599年4月27日に死ぬ。利家は、二代目藩主・利長に、右近の忠誠をたたえ、大事にするように、と遺訓を与えた。家臣の扱いについて、触れたくだりで、右近は二番目に名前が挙がっている。嫡子・利長は、利家に輪をかけて熱心な隠れキリシタン大名だった。だから、家康は利長を憎悪した。
藩主の名代(みょうだい)として、高山右近と横山長知(ながちか 加賀の有力藩士)が、大坂城の家康の元へ弁明に向かった。

 だが、家康はふたりに面会もしなかった。キリシタンを極度に警戒していたためである。
 家康はそれでも、キリシタンに寛容であるか、禁教の立場なのかあいまいにして、関ヶ原の戦いを迎える。前田家は徳川方につく。
 
 右近は加賀へ戻ると、すぐに加賀藩の防衛強化を急いでいる。わずか27日間で、金沢城の城下に内惣構、(および外惣構)(うちそうがまえ)をつくり、城下一帯が攻撃に耐えられるように工事した。関ヶ原の戦いの後の徳川との戦に備え動いていたのである。右近の凄まじい工事のスピードに驚かなかった者は、一人もいなかった、という。

イエズス会の日本のエージェント高山右近と、三人目の天下人・徳川家康の暗闘が、関ヶ原の裏で、始まっていたのであった。

(参考:『ユスト高山右近 光は今も 』木佐 邦子
    『福者ユスト高山右近ー金沢市内の足跡を訪ねて』 監修 木佐 邦子
カトリック金沢教会 発行より)

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田中進二郎拝