[2548]千利休とイエズス会の関係について(2)
千利休とイエズス会の関係について (Ⅱ)
田中進二郎筆
(前回[重たい掲示板2540] の続き)
千利休は豊臣秀吉との対立、対比で語られることが多い。
だが、織田信長の時代、筆頭茶頭(さどう )は、千利休ではなく、堺の豪商・今井宗久( いまい・そうきゅう 1520~1593年)だった。今井宗久は、信長が畿内を制圧したときに、(1568年)堺五ヶ庄の代官に任じられ、但馬(たじま)銀山(生野銀山を含む)の支配権を与えられた。その他にも塩の専売権や 大阪の淀川を通行する船から通行料を取る権限も持っていた。今井宗久は生野銀山から採れた銀をポルトガル商人に売って、鉄砲火薬の原料の硝石を買い、それを信長に売り渡した。
これほどまでの特権を今井宗久が手に入れたのはなぜか?
1568年に信長が将軍足利義昭を擁立して上洛し、自治都市の堺に服従を迫った。そのときに、納屋衆(なやしゅうー堺会合衆[えごうしゅう]の最高幹部)の今井宗久がいち早く恭順の意を表したからだ。宗久は、密かに名物茶器「松島の壺」と武野紹鴎(たけのじょうおう )所持の「茄子(なす)茶入れ」を信長に差し出した。その際に、信長は茶道を自分の天下布武計画に利用することを考えついたのである。「茶の湯御政道(ごせいどう)」の始まりである。
宗久から茶道を教わった信長は、茶会を認可制にした。信長が許可した者だけが茶会を開くことができた。こうして自らを頂点にした文化価値のヒエラルキーを作りだした。信長付きの茶頭が鑑定した茶器を、信長が家臣に恩賞として与えることで、その茶器には法外な値段がついた。名器には一国一城に相当する価値が付与されることもあった。信長は今でいう一種の仮想通貨(バーチャル・カレンシー Virtual Currency)を作り出したのである。信長の『茶の湯御政道』に重商主義(Mercantilism)の形ではあるが、資本主義の曙(あけぼの)を見ることができる。
ところで一方、津田宗汲(つだ・そうぎゅう 屋号は天王寺屋 ?-1591)と千利休が、信長の茶頭に取り立てられたのは六年ほど遅く、1574年(天正二年)4月ごろである。今井宗久が、この両名を信長に推薦したことがきっかけであった。
千利休(宗易)はこの時53歳。信長は40歳である。
(利休が信長より一回り年上であること、利休は1551年にザビエルに堺で会っていただろう、ということをよく覚えていただきたい。)
(以下前回の私田中の重たい掲示板[ 2540]〈千利休とイエズス会の関係〉より転載します。)
【ーローマ・カトリック教会が、朝ミサを正式に承認ー
〈携帯祭壇(茶室)を使って行うミサは、聖別された教会以外でも、ーただし品位ある適切な場所でー夜明け1時間前に点(た)て、また必要であれば午後でも点てることができる〉
-1573年9月8日 グレゴリウス13世勅許ー
これはローマ法王がカトリック・キリスト教の日本布教のためには、茶道を利用することが有効だと認めた、ということなのである。このときから、茶道が本格的に隠れキリシタン(大名)の礼拝の儀式となった。
その儀式を取り仕切るグル(首領)が千利休だったのだ。】
(転載おわり)
田中進二郎です。
1573年9月にローマ・カトリックの法王グレゴリウス13世は勅許を出して、日本人による朝ミサを正式に承認した。この動きと利休の台頭はほぼ一致している。
信長の家臣の中で茶会を開くことができたのは、限られた者たちだけだった。
荒木村重ー高山右近ー明智光秀ー羽柴秀吉の順に茶会を開く免許が与えられた。
(参考 前田秀一 『天王寺屋會記』に見る武将の記録」)
→ https://blog.goo.ne.jp/shuichimaeda/e/84eb355e04472016c461412a0688bbfa
この順番を眺めると、信長が新しい家臣団をどのように評価し、序列化しようと考えていたかが見てとれる。
筆頭茶頭・今井宗久は明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、千利休は羽柴秀吉、荒木村重と、それぞれ茶会を開くことが多かった。高山右近は「利休七哲」(利休の弟子)の筆頭に挙げられている、誰もが知る「信仰心厚きキリシタン大名」だ。ローマカトリック教会が高山右近を「福者」認定したことは記憶に新しい。
千利休は最初、茶の湯の門人の中で、教養のない秀吉のことを「筑前(ちくぜん)」と呼び捨てにするほど、低く見ていた。が、利休の茶会に集まるキリシタン大名や豪商の人脈を自分のものにすることで、秀吉は天下人へと成り上がっていく。利休も「天下の宗匠」と呼ばれることになるが、それは本能寺の変(1582年)の後の話である。
荒木村重ー高山右近ー明智光秀ー羽柴秀吉
ローマ教会
↑ 指令 ↑ 指令 ↓
今井宗久ー津田宗汲ー千宗易(利休) ←ヴァリニャー二、オルガンチーノ
(教会・茶室で指令を伝える)
この図から茶の湯のネットワークが、イエズス会と直結しているということが、大づかみに納得頂けるだろうか?
イエズス会は、隠れキリシタン大名に謀叛を教唆(きょうさ そそのかすこと)し、事が成就せずとみると謀反人の梯子(はしご)を外して、被害者のふりをする。荒木村重の反乱(1578-79)の時と、三年後の本能寺の際の明智光秀に対するイエズス会のやり方が同じだ。まるで本能寺の変の予行演習であるかのようだ。現代のCIAとも手口がそっくりだ。
しかもキリシタン大名・高山右近は、2回の謀叛に加勢を求められながら、二度とも戦線離脱をしている。彼はイエズス会の日本人エージェントであったと、どうして誰も書かないのだろうか?不思議でならない。高山右近(と茶の湯の師・千利休)は宣教師ヴァリニャー二とオルガンチーノから指令を受けていたはずだ。千利休や高山右近は外国勢力の手先なのである。
だが、彼ら「隠れ」キリシタン大名たちが共有した信仰=信念=結社というのは、まだまだ我々の想像を超えた根深いものがあったようだ。