[2480]粟田真人の遣唐使の意義ー4

守谷健二 投稿日:2020/02/06 13:04

『旧唐書』と『新唐書』

日本では『旧唐書』は全く無視されている。何故ならば『旧唐書』は、日本列島の記事を「倭国伝」と「日本国伝」の併記で創っているからだ。
倭国の最終記事は西暦663年の「白村江の戦」の記事である。唐・新羅連合軍と戦ったのは「倭国」であったと『旧唐書』は証言する。

それに対し「日本国伝」の開始は、大宝三年(703)の粟田真人の遣唐使からである。唐朝は、倭国と日本国は別王朝、七世紀の後半に日本列島の代表王朝の交代があったと認識していた。

唐朝の認識の信頼性は極めて高い、何故なら唐と倭国は二年に亘り朝鮮半島で直接戦争していたのである。倭国にとっては王朝の命運を賭けての総力戦であった。そして倭国の惨敗で終わったのである。
唐軍は、筑紫に乗り込んできて倭国王を捕えて、唐の都長安に連行していた。唐朝には、日本列島に関する資料は、詳細に膨大に残されていたのである。『旧唐書』は、それに基づいて編纂された。

それに対し『新唐書』は、984年、東大寺僧・奝然(ちょうねん)の齎(もたら)した「王年代記」に基づいて創られている。その年代記は、天御中主(あまのみなかぬし)を開祖として第六十四代円融天皇に至る系図である。天つ御神を祖に持つ万世一系の天皇の系図であった。日本国には開闢以来大和王朝しか存在しなかったと云うものである。

『新唐書』の編者には欧陽周と云うビッグネームも名を連ねていることもあり『旧唐書』の欠を補うために創られた、より完成度の高いものだという「神話」が日本では造られ信じられて来た。

しかし、調べれば直ぐ分かりことであるが、中国の学者の間では『新唐書』は、錯誤が多く、その上記事の改竄さえ犯している、と極めて信頼性が低いと云うのが常識である。

しかし、日本の王朝にとっては『新唐書』は、何物にも代えがたいありがたいものであった。奝然は、東大寺の一僧であるが、中国に渡ると直ちに宋の皇帝に拝謁を許されている。普通考えられないことである。

歴史学研究会編『日本歴史年表』(岩波書店)に、「西暦982年、陸奥の国に宋人に給する答金を貢上させる。
983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り、皇帝に拝謁。」とある。
 
この歴史年表は、日本で唯一の本格的な年表で信頼性も極めて高い。
奝然は、陸奥国の金を持って行ったのではないのか。それが皇帝に拝謁を許された因では無かったか。半端な量ではなかったはずだ。
奝然だけではない、次に派遣された僧嘉因も膨大な財宝を宋朝に献上したことは正史『宋史』の記すところである。

もしかして『新唐書』は、日本の王朝の要請で編纂されたのではないのか。
マルコポーロの『東方見聞録』のジパングの黄金伝説は、ここに根拠を持つのではないか。
元の皇帝フビライの日本に対する異常な執着もここに原因があったのかもしれない。