[2479]粟田真人の遣唐使の意義ー3
大宝三年(西暦703)の遣唐使の意義は、非常に重大である。
中国(唐朝)は、この時から近畿大和王朝(日本国)を日本代表王朝と認定したのである。
『隋書』以前の中国正史の記す「倭国」は、すべて近畿大和王朝ではない。「倭国」は、筑紫に本拠を置く筑紫王朝のことであった。
筑紫王朝は、朝鮮出兵の惨敗で自壊したのである。国民の信頼は一気に失われ、都の治安を維持することも出来なくなった。王族たち(大皇弟・大海人皇子後の天武天皇が中心)は、大和王朝の天智天皇に救いを求め、天智天皇の臣下になることを誓い大和王朝に身を寄せたのであった。
「壬申の乱」は、臣下に入ったはずの大海人皇子(天武天皇)の裏切り、謀反である。大和王朝を乗っ取り新王朝を樹立した。
裏切者、謀反人は正統性を欲する。王朝の永続の為には何が何でも正統性が必要であった。正統性は、創造された。
「正史」に、天武天皇を天智天皇の『同母の弟』と書き込むことで。天智天皇と天武天皇は、両親を同じくする兄弟と規定したのである。
近畿大和王朝の天智天皇と、倭国の大皇弟は、両親を同じくする兄弟であると。大和王朝と筑紫王朝を融合する歴史を作ることを命じた。それが天武の正統性の創造である。 天武十年(西暦681)三月であった。
それから遣唐使の派遣を決めた大宝元年までの二十年間に、天武天皇を正統化する歴史は完成を見ていた。
粟田真人等は、それを唐朝に説明して承認してもらうために派遣されたのである。
しかし、唐の役人たちは、そのあまりの荒唐無稽に腰を抜かさんばかりに驚いた。粟田真人たちは、唐朝を説得することが出来なかった。むなしく帰るしかなかった。
重要なことが一つある。『隋書』がすでに上梓されていたことである。六世紀末から七世紀初頭にかけての筑紫王朝の記録を唐はすでに持っていた。
粟田真人等は、その『隋書』を土産に持ち帰った。
天武の後継の王朝は、歴史を修正しなければならなかった。中国王朝を、より説得できるものに書き改めなければならなかった。
和銅五年(712)に書かれたとの序を持つ『古事記』は、その修正のための指示書である。
日本最初の正史『日本書紀』は、養老四年(720)に選呈された。