[2478]金融経済も、法律も、全て「偶像」

藤川健二 投稿日:2020/01/22 12:06

少々長く、情報量が多くなるが、途中省けば辻褄が合わなくなるので、お付き合い下さい。

私は、「絶望の金融市場」の、第五章、”Y=M”のところを読みながら考えたのだけれど、M(おかね)自体が、偶像(幻想)なのではないか?すなわち、金融経済全体が、貨幣含め、システムの、「まるっきり全て」が偶像である。故に、MMT(現代貨幣理論)の、M=Yの逆読み適用は出来ない。実体が無いのだから。

小室直樹さんの本、「日本人のための経済原論」などで述べている、

Y=C I と C=aY

の、連立式の、「乗数効果」というのがある。

aの係数(収入に対し、幾らの割合消費に回すか)が0.8なら、Yは5倍になるし、0.9なら、10倍に膨らむ。すなわち金融経済というのは、この連立式の「乗数効果」を利用し、架空の

”Y(お金)=C(負債=債券) I(投機資金)”

に読み替え、「賭け」の資金を際限なく膨らませただけではないのか?

原理は競馬などの「呑み」と同じ。いわゆるブックメーカー。たとえばCDSなどは、踏み倒しリスクを債券として評価すれば、賭けの対象が見つかる限り、市場ボリュームは膨らんでゆく。

もはや長期保有で、”割に合う投資”が無くなってしまったので、賭けの対象が無くなるまで、みんな仲良く破綻まで、イケイケ、ドンドン、である。しかし残りの「賭けの対象」が限られてゆく。割の悪い賭けは、オッズ(金利・配当)を上げて、ギャンブラーを募る。賭けはどんどん割の合わないものになってゆく。それでも投資を生業とする企業は、止められない。全てが御和算になるまで続けるしか、しょうがない。でもいつか御破算が来る。ウィズドロー(撤退)しなきゃなんない。例えば、ある企業の踏み倒しを評価したCDSは、その企業が破綻すれば、保険の全額を払わなければならない。どうせみんな仲良くスワッピングしてるから、まぁ、いいじゃないか。その時を調整すれば。

ならば実体経済とは何か?幻想の金融経済(M)に対し、実体経済(Y)というのは、

”Y(世の中)=C(多くのバカ) I(少しのおりこうさん)”

これが本来の資本主義ではなかろうか?
貨幣(カタチを変え続ける資本の交換ツール)は、実体経済に対し、従属的な存在に過ぎない。
自営業をやってみれば解るのだが、商品の価格を決めるというのは、真剣に考えれば、悩ましいものである。100%合理的・論理的にはならない。商品を受け取る側の価値観は、個人個人バラバラだから。
偶像である貨幣が問題なのだから、貨幣が要らない経済を創れるなら、それに越したことは無い。

話を戻し、問題の本質は、「I=少しのおりこうさん」が全く足りないか、居ても、パフォーマンスを発揮出来ていない事。故に、今は「金融経済カジノ」で延命する事しか出来ない。結果、トマ・ピケティの g(国民の成長率)<y(金持ち儲かり率) が成立してしまう。

原因は、「抜きんでた才能」を目利き出来る人が足りないのと、「既得権」が邪魔している。”既得権が邪魔”という要因は、とてつもなく、圧倒的に大きい。例えばニコラ・テスラの、無線電力供給のような発明は、電力利権にモロに抵触する。
逆に、「I=少しのおりこうさん」が本来能力を発揮すれば、実体経済での乗数効果が生じるはずである。
それを阻害する問題の根っこは、とてつもなく深い。そして、バカはバカでいいのだ。卑下する必要はない。消費は、「おりこうさん」の数より、遥かに多く必要である。「おりこうさん」と偉そうにしても、自分の専門外では、バカな消費者の一人なのだから。
私は、この問題の根本原因は、行動のみならず内心までもを規律している、「法制度」であると考えている。

少数の犯罪のために戒律(法律、条令)を書けば書くほど、コンプライアンス、コレクトネスを追求するほど、国民の自由と財産が奪われ、ポテンシャルは落ちてゆく。ゆえに不景気になる。
人の本性というのは、マスローの欲求段階説ではないのだろうか?アブラハム・マスローは、自己実現した「I(少しのおりこうさん)」を対象に研究した。いっぽう、いわゆる行動主義心理学者たちは、パブロフの犬みたいに、精神病質者やサルや犬を対象にしたのではないか?動物から得たデータを用いてソシアル・エンジニアリングすれば、人間が動物になる道理である。
設計どおりの動物の世界になる。

今の日本は、カルロス・ゴーン氏の逃亡事件から考えれば、「少しのおりこうさん」を扱える体制ではないのは明らかである。大企業の経営者は、仕事や組織全体を「システム」として考える必要がある。が、クーデター起こした経産省だっけ?「組織の規律に従う」労働者。天下り官僚がリードしたところで、上手く行くハズがない。幾ら事務方の、労働者として抜きん出ていようが、暗記と暗算がどんなに得意だろうが、次元(属性)が違う。ゴーン氏と官僚では、見えるもの、認識できるものからして違う。巨大な企業システムを、構築、運営、改変なんて、到底出来っこない。それをやってのけたのが、カルロス・ゴーン氏ではないのか?トヨタでさえ、生き残りを賭けなければならないご時世である。ゴーン氏がシステムを改変途中で(クライスラーとのアライアンスを画策しているところ)で、政府と天下り先、官民共同謀議により、彼を外してしまった。結果、収益はどうなったか?

日本の憲法は、戦後に自由民主政治のユニテリアン思想(国民の三大義務を除く。あんな義務なんて、無効解釈で良い)に変更されたが、民法や刑法の「法律」は、戦前の制文法が、手直しされ、そのまま使われている。憲法が米国流なら、なぜ慣習ベースの判例法体系にしなかったのだろうか?疑問に思う。自民党が急いでいる憲法改正なんかより、現行「法律」のほうが、”絶対的”に問題だ。

ところで新約聖書の、「パウロの手紙」のところを読むと、日本の法律の原理原則、価値観は、彼の言葉から引用されているのが解る。元を辿れば、ローマン・カトリックから出てきた自然法論全体が問題なのだ。日本に限った問題ではない。

例えば

自力救済禁止の原則→ ”愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。”(ローマ人への手紙12-19)

権威主義→”すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。”(ローマ人への手紙13-1)

納税の義務→”あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。”(ローマ人への手紙13-17)

勤労の美徳→”また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。”(テサロニケ人への第二の手紙3-10)

罪刑法定主義→”律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。”(ローマ人への手紙5-13)

福音でのイエスは、真逆の言動。例えば、律法主義者が神殿で、イエスに対し揚げ足取りするため、「ローマに税金を払うべきでしょうか?」と問うた場面(マタイ22)。イエスは、「コインを見せてみろ。なんだ、カイザルの顔を描いてあるじゃないか。全部カイザルのだ。お前らは”神のものだ”とウソついて税金取りやがって、カイザルのものは全部カイザルに返しちまえ!」と、皮肉で返している。

考えれば考えるほど、法律とはパウロの創作ではないか?と思わせるほどである。いや、そうなのだろ。彼は、精神的に未熟な構成員で組織された集団を運営するための、”少数が多数を支配するテクニック”を編み出したのだ。とはいえ、これまでは、「生産性を上げる」のに役立ったのだろう。だが今の世界状況を考えれば、もはや「役立たず」ではないのか?自然法論全体が。

私は、ベンサムの、「人権というものが在るなら、取り出して見せてみろ!」という言い回しは正しいと考える。
「国家官僚は勝手に善悪判断して戒律書きやがって。善や悪などというものが有るなら、取り出して見せてみろ」である。
どうせ差別の始まりの、セム、ハム、ヤペテの話からして、作り話なのだ。作り話に対して作り話の「人権」をぶつけただけではないのか?真実は、地球上でホモ・サピエンス程に能力が均等な生き物は、極めて珍しい。近代市民社会はヨーロッパ(オランダ:決然たる政治学への道)で起こったとされる。私は、新約聖書自体が、最初から福音(イエスの行動、発言)とパウロの手紙の内容の間にジレンマあるが故、起こるべくして”気づき”が起こり、遊牧民の移動が誘発することにより、ヨーロッパに近代市民社会が発生したのではないか、と考えている。白人が優れているというより、たまたま白人社会に条件が揃っただけ。

一方、日本。江戸時代末期の、日本の支配層は、白人の思想がメインストリームになったので、国際基準に合わせて開国するため、天皇を、人の子にして神の子=イエスキリスト役として登場させ、ムラ共同体だった幕藩体制を、国家共同体にまとめ、法治主義社会に変えさせたのではないか?大日本帝国は、法治主義導入プロジェクト。
戦後。憲法は米国流の自由民主主義政治に変わったが、法律は手直し改正のみで流用。法律は戦前の、カトリック共同体。共同体だから、巨大なムラ社会。日本の法体系は、憲法と法律の間でジレンマを抱えているところが、新約聖書と似ている。

戦前の「絶対者」は人間宣言してしまったが、「神の奴隷たち」が残った。官僚機構が勝手に戒律を書き、相対的な「社会」だけが在るかのように宣伝し、世界のド田舎、巨大な「ムラ社会」を維持しようとする。
憲法では、「主権者たる国民が絶対者」である。憲法と法律で、権力と権威の所在が、ちぐはぐなのだ。構造上の欠陥がある。
憲法で選挙を保障された筈の公務員のうち、いわゆる上級公務員、官僚を、我々は選挙で選べない。米国流なら、猟官制でなければいけない。

ところで日本で法律について理詰めで議論すると、必ず最後は、あやふやなものにぶち当たってしまう。善悪とか伝統とか人情とか。
伝統など、どうせ日本人は明治時代までしか知らない。そんなので欧米人と議論で渡り合えるか?土人扱いされるだけである。しかし欧米でも、法律(自然法論)の発生源はキリスト教聖書だから、究極の問いは「神」である。

「神とは何者か?」という問い。神って何?契約って何?

誰も神権政治の”始まり”、政治の本当の起源と原理までは、論理的に説明していない。法律は100%論理的に、目的合理性で貫かなければダメだ。これを詰めずして、100%論理的と言えるのだろうか?
私は「いや、神が居ると言うのなら、ここに連れて来て下さい。世の中おかしいので、新しい契約についてディールするから」と思ってしまう。

と、ここまで書いて、この先書いていいのか多少迷うのだが、色々本を読む程、これが正解のように思えてしょうがないので、書きます。真実は暴かれなければならない。

私は、キリスト教聖書は、”シュメール神話の書き換え”である、と考える。元がややこしい話なので、わかりやすい昔話への書き換え。
残された文献で、シュメールより古いものは無い。シュメール神話でなければ説明のつかない遺跡や遺物は多くあるが、やがて科学が結論を出すだろう。

いわゆる人類起源の「宇宙人渡来説」なのだが、ゼカリア・シッチンという言語学者が、シュメール遺跡の粘土板を解読してまとめた、「地球の主 エンキの失われた聖書」というのがある。
「猿の惑星」含め、あらゆるSFヒット作の寄せ集めのような物語。シッチン氏の著作「宇宙年代記シリーズ」の中で、なぜかこの本は、日本で絶版。古本でしか買えなかった。400ページ以上ある複雑な物語で、具体的ストーリーは省略するが、オカルト好きな人たちや、海外の先鋭的な科学者達に有名なので、ネットで検索すれば、物語の要約や解説が見つかります。この物語をベースに考えれば、様々な古代のなぞなぞの、辻褄が合ってしまう。天文学など、最近ようやく解明された、人間が到底知り得なかったはずの情報が書かれている。最も古い文献で「主」と名乗る男が語っている事を、世界は無視出来ないだろう。

登場するのは、自分たちの惑星を救済するため、金を求め地球にやって来て、労働者として、遺伝子操作によって人類を創成し、教育した、神々を名乗る者たち。登場する神々は、キリスト教での禁欲的な神々と違い、己の欲望に忠実で、あらゆる問題をテクノロジーで乗り切ろうとした。滅亡か存続かの宿命を、自分たちで定めた、元祖開拓民。そこにはギリシャ神話に似た、ディオニュソス的世界がある。リバータリアンの元祖であり、ユニテリアンの元祖。ここでの「善・悪」は、「役に立つ・役に立たない」といった程度の意味。石に刻んだ「契約」なんてのは出てこない。歴史を伝えただけ。

興味深いのは、聖書、日本神話含め、世界中の神話が、場面(シーン)で、この物語の”韻を踏んでいる”事。また、歴史書であるだけでなく、思想書でもある。語り部であるエンキの「運命か宿命か?過去は未来なのか?地球人は我々を真似るのだろうか?」という問いは、ニーチェの永劫回帰、或いは仏教の、色即是空・空即是色、阿頼耶識・末那識といった、哲学的思考を想起させる。ニーチェがイエスを「ただの人」と言ったのは、この本によれば合っている。早い話、地球上の全人類が、主エンキの子孫である。
物語の中で、エンキは古代の「I(少しのおりこうさん)」であり、ほぼ彼、ただ一人の発明により、地球文明は発展した。しかし最後に、決定的にしくじった。故に、自身の決断と行動を、後の世代のため、石板に記録に残した。
シュメールの旧文明は滅亡し、後の世代は、記憶が失われた。黙示録や旧約の”十の災い”は、シュメールが滅びた最終戦争時の描写である。

これは、作り話と解釈するには、余りにも出来過ぎている。支配層の本拠地、スイスが年金を払い執筆活動を支えたフリードリッヒ・ニーチェは、「何か」を知って、「トゥラトゥストラ」を書いたのだろうか?私はこの「失われた聖書」を最初読んだとき、空想的な物語と感じていたキリスト教聖書を、あまりにも現実的に解釈出来てしまうので、ゲラゲラ笑ってしまった。例えばイエス誕生の「処女懐胎」は、エンキと浮気した人妻の秘密である(ダビデとバテシバの話に同じ)。ダ・ヴィンチが遺したクソコラ画も、この本を読めば、違った解釈が出来る。人間的な「神」が居たという点では、福音派は正しいのだろう。いっその事、この本を世界の経典にしてしまえば、あらゆる問題が解決するのではないか?とさえ感じさせる。世界中全ての宗教の原点がこれなのだから。

しかし結果として、エンキ自身の野望(自身の弟エンリルが”くじ”によって地球支配者になったので、次の”牡羊座の時代”には、弟の子ではなく、自身の長男マルドゥクを地球支配者に望んだ)が、色即是空・空即是色の連鎖で、兄弟が敵対し、悲劇が続き、今の文明よりも高度だったはずの旧文明は、全て滅びてしまった。

ちなみに、ストーリーの中で、聖書のペテロはエンキの長男マルドゥク、パウロがその息子ナブであると、私は考えている。イエスとは、彼の息子である人間ジウスドラ(聖書のノア)と、神々の複合キャラクター。かつ、直接のモデルは、マルドゥクに殺された、エンキの末っ子ドゥムジ(ほふられた子羊)である。例えば、聖書の記述での、イエスの発言はおかしい。「私でなくて父が言っている」とか、ペテロとの会話で、「私を愛しているか?」と問いながら(ヨハネ21)、ペテロは「愛しています」と言うのに、突然「サタンよ、引き下がれ」、と。イエスが一人で構成されているなら、筋が通らない。ここで「神の事を思わないで人の事を思っている」とは、神々に背き、自分都合で神話を書き換え、人間たちを扇動した事に対する非難を意味している。大きく括って、イエスとは「シュメールの人物」と解釈しても良い。

また、重要なのが、娼婦のマリアは殺されたドゥムジの婚約者、イナンナである点である。金星がシンボルのヴィーナス、アプロディーテー、パークスや、自由の女神、クリームヒルト、ハロウィンの魔女を含め、世界中の女神の原型はイナンナ。いっぽう、神話で殺されている、アドーニス、ジークフリート、オオナムヂなどは、女神の配偶神、ドゥムジを象徴している。
旧約で「エジプトの長男」(マルドゥク)を皆殺しする「過ぎ越し」の神も、イナンナ。つまり、パウロの手紙で「私が復讐する」と言っている神は、イナンナである。いっぽう、ペテロとパウロは神々にとって反逆者であり、むしろ魔女に復讐される側。

しかし少数が未熟な多数を支配するための「死後の天国」という概念を発明した点で、マルドゥクは他の神々より、支配体制の構築に有利だった。ペテロとパウロが福音の解釈を捻じ曲げてしまった。人間たちが未熟なので、その手法が2000年余り使われただけ。

結論は、もともと人間みたいな神しかいなかった。幼い人類の教育用に、新約と旧約の、聖書を残した。今更神に祈っても何も起きない。助けてくれない。人類は、自ら宿命を定める覚悟を持つしか無い。自分で考えなければならない。

現代日本に話を戻し、今更戦前の、共同体の戒律としての法律が必要だろうか?「いかさま司法」で自分らの出世しか考えない奴らに勝手な判断を任せるくらいなら、いっそのこと法律など全廃、自力救済で良いのではないか?高い税金がかかるだけ、割に合わない。正義とは、本来「バランスを取る事」。今の法制で、例えば池袋の、元官僚が電気車で暴走事故などを考えれば、正義に適うバランスなど、到底期待出来ない。自力救済、”復讐法”で良いのではないか?

中国の古代思想家は本質を捉えている。政治は経世済民以外やってはいけない。今の官僚機構など、コストのかかる余計なおせっかいばかり。どうせ問題の根本治療なんて、やる気も能力も無いのである。無くしてしまった方が合理的ではないか?国防も福祉も要らない、その代わり税を無くせ、である。自力救済のリバータリアニズムで良い。どうせどこの国も攻めてこないだろうが、もし来たら、自分で武器を持って戦えばいい。

少数派の天才を見出すだけで乗数効果が発揮されるのだから、仮に文化的な最低限の生活に必要なカネが20万なら毎月20万を、その月限りで消滅する、揮発性のベーシックインカムとして、電子マネーで全員に配れば良いんじゃないか。蓄財したいとか、それ以上欲しければ自分でビジネスやって下さい、と。後は、ほっとけば、勝手に分業が成立する。それ以外はやってはいけない。ロクな事にならない。税金目当てに余計なおせっかいで、出世とカネ儲けを企むな、である。

今更、「労働」なんて、美徳でもなんでもない。ストレス溜めながら、やりたくない事を毎日やるくらいなら、やらずに済んだ方が、皆が関心のある事にフォーカス出来て、効率的である。さっさと「原始的労働者」のAIに労働を任せ、一人でも多く、ずば抜けた「I(少しのおりこうさん)」を登場させる方が、リターンが大きいのではないか?やがて貨幣の意味が薄れると、貨幣制度自体を廃止出来る。

よって、100%合理的、論理的に詰めてゆけば、次の時代のあるべき法(政治)思想は、リバータリアニズムとなる。今の体制、金融経済と、自然法論全体が、偶像崇拝のカルト宗教。もはや役立たず。