[2463]最新刊藤森かよこさんの『馬鹿ブス貧乏』をおすすめする(1)

学問道場の進次郎 投稿日:2019/12/01 20:35

藤森かよこさんの『馬鹿ブス貧乏』をおすすめします

↓の六城雅敦さんの書評もありますが、私が以下に書くのは感想文のようなものです。主観を交えて書きます。

●『馬鹿ブス貧乏』の読み方はいろいろある

この本は非常に広い視野に立って書かれているので、いろいろな角度から読める本だと思うんですね。フェミニズム部門に分類されていますが、↓の六城さんもお書きになっているように男性が読むと得をすることがいっぱい書いてある。それを発見して自分の武器にできるか、ということが
「男の器量」だと思います。これまでフェミニズム本を男性が読もうと思ったか、というと読まなかった。

田嶋陽子さんの「社会主義くささ」が、どうしようもなく男性から嫌われていた、と思う。(こんなこというとぶっとばされるかもしれないけど)フェミニズムというのは、日本では「馬鹿とブス」がやってるものなのだという固定観念が定着してしまった。だからもう社会党系の支持率なんて、話にならない。もはや馬鹿ブスを超えて、ゴーストだ。

上野千鶴子さんのフェミニズムの場合、男性社会へのカウンター・アタック
としてのフェミニズムの側面が強過ぎてしまって、男性が読んだら萎(な)えてしまうんですよね。やっと脱がしたと思ったら、鉄の貞操帯を履いてた、みたいなところがあるでしょう (よく読んでないから知らんけど)。

両方とも世界の支配階級が作り出した日本社会の仕掛けだ。
片や「馬鹿ブス貧乏」な女性が、母親原理から平和主義のファンタジーを
訴える。みんな母親から生まれたのだから、反論できないのだろう、というわけだ。もう片方はアマゾネスみたいな女戦士が東大の教壇から、批判の矢を次々と放つ、というやり方だ。
詳しく読んでないから、責任持ちませんが、一般男性の眼からみたらその程度の扱いだろう、と思う。女性からみたら、どう映っていたのだろう?

本当に「馬鹿ブス貧乏」の女たちは、上のフェミニズム運動に魅力を感じていたのだろうか?彼女たちは、大量消費社会のなかであてがわれたものを享受したというだけだったのではなかろうか?
その光も「最貧困女子」(鈴木大介著 2014年刊)には、届かない。
日本社会の最貧困女子というのは、細井和久蔵の『女工哀史』(1925年刊)で描いているように、とてつもない待遇を受けている。百年前と変わらない。
ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』(×ああ無情 〇悲惨な人々)の中に出てくるような女性は、現代日本にもいるだろう。ただただ可視化されていないだけだ。

藤森かよこさんの『馬鹿ブス貧乏』は、この階層の女子にまで光を当てている。深い海底に一条の光が差し込むようなイメージを、私はこの本に対して抱いている。これは、本来の意味での啓蒙書だ。「馬鹿の頭を啓く」が啓蒙のもともとの意味だ。養老孟司さんのように、『バカの壁』と言っていてはいけないのだ。その壁を刺し貫くほどの知性を持たなければならないのだ。
藤森さんのフェミニズムは、海底で反射した光が水面にまで戻ってくる。男性の読者は、その光をすくえばいい。それでも十分勉強になる。
自分も「馬鹿」の一員だ、と謙虚な気持ちで読むと、心が軽くなる。

●自己啓発本としての『馬鹿ブス貧乏』

先日、中曽根康弘・元首相が亡くなった。101歳だった。残念だ。これで日本国民の手で、中曽根首相の罪を裁く機会は永遠に失われてしまった。1985年の日航機墜落事故は、自衛隊または、米軍のミサイルが尾翼に当たって墜落したらしい、ということは、すでに多くの国民が知っている。さらに、事故の生存者たちが、翌日の朝までに焼き殺されたというのも真実だろう。これについての科学的検証も行われている。大きな悪事は必ずバレるのが、21世紀だ。

しかし、昨年の100歳のときの中曽根康弘氏の映像をみると、とてもまだまだ亡くなるようには見えなかった。矍鑠(かくしゃく)としている、とまではいかないが、顔の肌つやなどは、とても寿命を感じさせなかった。だから、死去したことは意外だった。「世界皇帝」のデーヴィッド・ロックフェラーも、100歳を過ぎても権力を手放さなかった。支配階級というのは、どうしてそこまで強くて健康的なのか?その秘密についても、藤森さんの『馬鹿ブス貧乏』で触れられている。

(引用開始)

ー(支配階級というのは)負ける自分、不幸な自分、弱く惨めな自分、孤独で孤立した自分、・・・・など想像できない。負けないように仕組まれた仕組みの上に乗っているので、それは当然だ。(p160)

ー支配階級との違いは、「94歳にして足腰が丈夫で、リッチで、健康で、陽気で、明るい自分は、当たり前であり、実現して当然の規定のこと」と思い込めるかどうかにかかっている。(p162)

(引用終わり)

これまでの自己啓発本は、だから、被支配者である一般ピーポーが、支配階級を補完する勢力として生きていくにはどうすればいいか、という処世術みたいなものだったのだ。
自己啓発本をいくら読んでも、自分の身に付かない、というのは被支配者の片割れが、さらに弱い被支配者に説教しているのだから、当然だ。自己の内面が弱いままで、頭や体を鍛えたってダメだということだ。((以下つづく)