[2450]六城雅敦著『隠された十字架ー江戸の数学者たち』を読む(2)

田中進二郎 投稿日:2019/09/22 05:45

●隠れユダヤ教徒のフェレイラ(沢野忠庵)にはマイモニデスの影響がみられる

六城さんが、↓で引用された数学史の研究家、鈴木武雄氏とユダヤ思想研究家の小岸昭氏の論考は非常に正しいと思われます。以下でも、小岸昭氏の『隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン』(人文書院刊)に依拠しながら、イエズス会のユダヤ人迫害と、1609年に日本に来た、クリストヴァン・フェレイラ(1580-1650 イエズス会日本管区長代理)がどう関係するのか、を述べよう。

フェレイラが、長崎奉行(竹中重義は同年に割腹自殺、後任の今村伝四郎と曽我又左衛門)による拷問(穴吊り)に耐えられず、五時間で棄教した(1633年)。このことは、映画「サイレンス」の原作である遠藤周作の『沈黙』でも書かれているが、それを「神の不在」という信仰の問題として使っている。しかし、フェレイラの棄教後の活動を見ると、「殉教せずに生きる」という合理的な選択をすることによって、イエズス会のキリスト教に対し反逆した、という方がやっぱり真実だろう。

フェレイラは隠れユダヤ教徒であり、ルネサンスの時代精神を生きた人物であったことを、小岸昭氏が論証している。

フェレイラは、1609年に日本に来るまでの前半生については、詳しいことがほとんど分からない人物だ。ポルトガルの小さな村で生まれたこと。1596年にコインブラ大学で二年間アリストテレスの哲学を学び、この大学でイエズス会に入会した。
(コインブラ大学はリスボンに1290年に創設された、ヨーロッパ最古の総合大学の一つ。パリ、オックスフォード、サレルノなどの大学に匹敵する。)
グレゴリオ暦(1582年)を作った、当時最高の数学知識をもっていたクリストファー・クラヴィウスからも学んだ。クラヴィウスはイエズス会士であったが、ガリレオ・ガリレイをパドヴァ大学教授に推薦したことでも知られる。

だが、フェレイラについては、当時ヨーロッパ最高(世界最高)の学問を学んだこと以上には、よく分かっていない。↓の六城さんの投稿にもあるように、改宗ユダヤ人の家系であったことが分かるのは、フェレイラよりもむしろ、イエズス会士ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583)である。このことは、イエズス会インド巡察視のヴァリニャーノ(1539-1606)の記述にあるようだ。

●『顕偽録(けんぎろく)』でフェレイラ(沢野忠庵)が表明していること

新キリスト教徒(転向したユダヤ教徒)の家系であることは確かめられないものの、フェレイラには、同時代の重要なユダヤ人思想家たちーバルーフ・スピノザ(1632-1677)、 ウリエル・ダ・コスタ、 サバタイ・ツヴィら -との大きな共通点がある。それは、迫害に遭って、信仰を捨てたとしても、それは神(God)を捨てたことにならない、という論理だ。むしろ、自己の生に執着することによって、その人特有の能力(potencia)と、徳(virtus)は高められてゆく(スピノザ『エチカ』)というのが、改宗ユダヤ人思想家たちが考え、唱えたことである。フェレイラが、棄教した3年後の1636(寛永十三年)に、日本の儒学者たちと著した『顕偽録』(キリスト教の教理批判書)
にもその考えがみられる、と小岸昭氏は指摘する。

日本名・沢野忠庵の名で刊行された『顕偽録』の冒頭を引用する。

「それおもんみるに、天地の間、物おのおの情あり、禽獣、蟲魚、草木、風水、土石、風水、その徳を備えざるものなし。獣は走らんことをのみ思ひ、鳥は飛揚することを思ひ、魚は水に泳ぐことを思ひ、虫は鳴かんことを思ふ。木は欲す、高く長ぜんことを、草は欲す、横に伸びんことを、土は物を生じ、石は火を生じ、水は湿を生じ、風は涼を生ず。一つとしてその徳あらずということなし。これ皆造化の所為(せい)なり。」

と、万物にはそれ固有の価値や目的がある、とする汎神論(pantheism パンテイズムのパンが「汎」になった)的な自然観を最初に表明している。
それから、アリストテレスの哲学とキリスト教を対置させ、アリストテレスの優位性を説く。

「その上(ゼスキリスト)出生以前、南蛮にアリストウテレスと云える大学匠、天地の初(はじまり)を論じるに、『天地その初(はじまり)なし』と正しく書き記せり。
・・・然(しかる)を天地の作者、万事の主(しゅ)一體(いったい)ありと教ふるところ、偏(ひとえ)に切支丹の宗旨を立つる謀(はかりごと)なり。」

と、アリストテレスの万物に始まりもなく終わりもない、という哲学の後に、キリスト教徒たちが、デウス一神による天地創造をねつ造したのだ、と説く。

ここでフェレイラが、アリストテレスの名を持ちだしていることに重要な意味がある。フェレイラが学んだコインブラ大学(リスボン近郊の町)では、中世にイスラム圏(北アフリカ)から流入したアリストテレスの哲学が、盛んに翻訳研究されていたからである。スペインのコルドバが翻訳の拠点だった。

●マイモニデスの思想はユダヤ人ネットワークを通じて世界に伝わっていた

この研究を行っていたのは、マラーノ「豚」と呼ばれた改宗ユダヤ人たちであり、その源流にマイモニデス(1135-1204)がいる。フェレイラもマイモニデスを大いに学んだはずだ、ということである。この巨人については、SNSI論文集『金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ』の祥伝社新書版(2018年度版)で副島隆彦先生が『ユダヤ思想の中心、マイモニデス』をお書きになっている。

この副島先生のマイモニデスの思想の、度肝を抜く解説に、日本の若手の哲学研究者たちは、発狂しているらしい。それは、ユダヤ思想といえば神秘主義-カバラ思想ーと考える大方の理解を、副島先生が合理(合利 レイシオratio)主義の立場から一刀両断してしまったからだ。カバラとは貧乏なユダヤ人たちの思想だったのだ。それで、若手のユダヤ思想研究者たちが、
「副島隆彦ごときがマイモニデスを理解できるわけないだろー!」とわめきながら、苦しがっているらしい。その噂をききながら、思わず私田中は笑ってしまった。

副島先生の「ユダヤ思想の中心、マイモニデス』から引用する。

「マイモニデスはユダヤ人であったが、表面上はイスラム教徒に改宗しているイスラム学者だった。真実の姿は、当時のユダヤ人(ユダヤ教徒)たちが中東全体に張り巡らした、情報と知識の秘密ネットワークの大組織者であったらしい。このことは鈴木規夫愛知大学教授が私に教えてくれた。(中略)

イスラム学者たちが研究して理解したアリストテレスの思想の中心、根幹が、まさしく合理(レイシオ、ラチオ)の思想である。エクイリブリウムequilibrium といって、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の中に出現した。その実態は、合理的な生き方をしなさい、金儲けをしてもいい、利益行動をしてもいいという思想である。

(中略)
『迷える者たちへの導きの書』(1190年)の中で、マイモニデスは貸付や贈与、債権、財産権の
掟を規定して、詐欺を禁じている。公平で公正な規則、すなわちこれがアリストテレスの平衡(エクイリブリウム)であり、この規則に基づいての金儲けを認め、人間の諸欲望の追求を肯定したのだ。

(中略)
アリストテレスの思想は、地中海を北アフリカの方からぐるっと回って、1200年代にスペインのコルドバで初めてヘブライ語やラテン語に翻訳された。そして新約聖書は、1517年のマルティン・ルターのプロテスタント運動の、その直後にようやくドイツ語版の『イエスの物語』、すなわち新約聖書が出されたのだ。

だから、ユダヤ教だけが、資本主義(キャピタリズム)をもともと全面肯定している宗教であり、思想なのだ。近代資本主義の精神を作ったのはプロテスタンティズム(キリスト教の新版)ではない。ユダヤ教である。

(『金儲けの精神をユダヤ思想に学ぶ』より引用終わり)

田中進二郎です。
マイモニデスの時代のユダヤ人共同体は、ヨーロッパだけで数十万人のネットワークを作っていた、という。中東地域はその十倍だ。マイモニデスの書物は、商人たちによって、イスラム教やキリスト教世界に運ばれた。イスラム教、キリスト教とユダヤ教の信仰の相克に迷える者たちに世俗主義を教えた。

マイモニデス死後、一族がエジプトに王朝をたてる。隠れユダヤ人の商人の王国である。これは1517年にオスマントルコ帝国に滅ぼされるまで、三百年間続いた。そして、この間、ヨーロッパとアジアの絹・胡椒貿易を、インドのコーチンのユダヤ共同体と連携して、ほぼ独占的に(全体の5割)取り扱った。(ジャック・アタリ著 的場昭弘訳『ユダヤ人、世界と貨幣』 作品社2015年刊より)

前回の投稿で触れた、イエズス会のザビエルがインドのゴアにまで異端審問所を作ろうとしたのも、改宗ユダヤ人のみならず、中世から続いてきた強大なユダヤ・ネットワークを、滅ぼそう。キリスト教会とポルトガル王国で横取りしよう、とする運動の一部であったことが分かる。

現在の高校の日本史の教科書にも、ザビエルの正体は書かれていないし、世界史の教科書にも、香辛料貿易はポルトガルが大航海時代を迎えるまで、イスラム商人が独占した、としか書かれていない。イスラム教のふりをした隠れユダヤ教徒(商人)が、ヨーロッパから地中海、インド洋を経て中国にまたがる商業圏を作り上げていたことが、隠されている。
真実はじわじわとしか広がらない。

しかし、このようにしてみていくと、イエズス会日本管区長のクリストヴァン・フェレイラが、マラーノの一人であるとして、当時ユダヤ思想を体現するかたちで強大になってきた新教国オランダ側に寝返ることは、必然の成り行きだろう、と思える。1609年に来日してからのフェレイラは、イエズス会の日本宣教活動を克明に記録し、本部に連絡を続けていた。1623年の元和の大殉教の際には、一人ずつどのように殉教したかを、報告し続けていた。フェレイラの心の中にだんだん虚しさが広がっていっただろう。殉教した人間の「霊魂は不滅」などとは信じられない。ただの犬死にだ。さらに、自国ポルトガルで行われているマラーノの迫害と、日本人キリシタンたちの迫害がだぶって見えただろう。自分たちの布教はただこうした迫害者を増やしているだけではないのか?という疑念は大きくなる一方だった。荒木トマスや千々石(ちぢわ)ミゲルといった日本人のキリシタンも離れていった。ファビアン不干斎が、キリスト教は邪教だと論じた本『破提宇子(はだいうす)』を著した(1620)。その書の中で、「キリスト教会は日本占領を企てている」と攻撃した。
フェレイラは「不干斎が述べていることは事実だ」、と認める手紙をローマに送っている。

1623年、幕府はオランダと手を結んで、スペイン船の来航を禁じた。1615年には、マラッカ(インドネシア)はオランダの艦隊に攻撃されている。やがてここも陥落するだろう(1641年マラッカから、ポルトガル軍撤退)。
こうした逡巡(しゅんじゅん)がフェレイラの中で長く繰り返されたのちに、棄教、転向となったのだ。
そして江戸に連れていかれた彼が対面したのは、幕府が秘密裏に育てていたスパイマスターの井上政重だった。「イノウエ」と話したフェレイラは、幕府の情報収集能力の高さに驚嘆したと思われる。

フェレイラについて、私田中が考えたことはここまでだ。切支丹屋敷をつくり、そこにフェレイラの弟子の「ルビノ第二団」カルロ・スピノラを住まわせ、高度な数学を学ばせた。関孝和はここに連れてこられて、そこで高等数学を秘密に伝授された。と六城さんの新刊『隠された十字架』に書かれている。

●関孝和は群馬県藤岡市の「関東の隠れキリシタン」だったか?

最後に。関孝和の出生の謎について。群馬県の藤岡市が生まれたところだ、と一般には言われている。六城さんは、静岡県の三島市だろう、とお書きになっている。藤岡市と切支丹屋敷とをつなぐ一つの歴史があるので、それを紹介したい。

1658年に宗門改役の井上政重が群馬の藤岡市南部の鬼石にやってきて、キリシタンを一斉に摘発し、切支丹屋敷に連れていった、ということです。この中に16歳の関孝和(1642-1708)が混じっていたとすれば、つじつまが合いませんか?どうでしょう。

(↓の記事より引用)

「 北関東の渡瀬・鬼石キリシタン殉教者顕彰祭」
2017年5月12日06時51分 記者 : 守田早生里
https://www.christiantoday.co.jp/articles/23739/20170512/silence-movie-catholic-hidden-christian.htm

隠れキリシタン」と聞いてまず思い浮かぶのは、映画「沈黙」の舞台にもなった長崎県の五島列島だろう。多くのバテレンやキリシタンたちが迫害を受け、拷問の末に殉教した地として有名だ。しかし、北関東のこの小さな集落にもかつてキリシタンが実在していた。このことは、1658(明暦4)年に編集された『契利斬督記(きりすとき)』にも次のように記されている。

「伊奈半左衛門御代官所。三波川(さんばがわ)村、渡瀬村、鬼名村、中カツ原村、コノ四ヶ所ヨリ、明暦二申年五月マデ、宗門一四、五人モ出デ申シ候」

この史料は当時、キリシタン弾圧の指揮をとっていた井上筑後守政重(『沈黙』にも登場する)の手記など、禁教の記録をまとめたもので、捕らえられたキリシタンを出身地別に整理した「吉利支丹出デ申ス国所ノ覚」の中に記されている。
(中略)
この地には14、5人のキリシタンがいたと先の史料には書かれていたが、その多くは、現在の東京都文京区にあったとされる「切支丹屋敷」に幽閉され、牢死(ろうし)したとされている。
(引用終わり)

田中進二郎拝