[2448]六城雅敦著『隠された十字架ー江戸の数学者たち』を読む(1)

田中進二郎 投稿日:2019/09/19 16:08

副島隆彦監修 六城雅敦著 最新刊『隠された十字架・江戸の数学者たち』を読む(1)

六城雅敦さんの初の単著となる『隠された十字架・江戸の数学者たちー関孝和はキリシタン宣教師に育てられた』(秀和システム刊)を読みました。
SNSI論文集の『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』、『蕃書調所の研究ー明治を創った幕府の天才たち』など、副島学問道場の歴史研究を数学史から深めた一冊です。

『蕃書調所の研究』(成甲書房 2016年刊)の第二章『明治の国家運営を担った旧幕臣の数学者たち』の六城氏の論文を大きくふくらませた内容になっている。
蕃書調所(ばんしょしらべしょ 1856年設立)が、幕末に蘭学者たちを集めた江戸幕府の諜報機関(スパイ、インテリジェンス機関)だった。が、その二百年前に、幕府は潜伏してきたキリシタン宣教師たちを棄教(ききょう)させ、西洋科学(数学・天文学・測量学など)を日本人に教えさせていた、という秘密が明らかにされている。日本人由来のものと思われてきた和算は、幕府が隠密活動の一分野として、キリシタン宣教師からひそかに学ばせてきたものだった。数学は忍術の一つでもあったのだ。

キリシタン禁制を敷いていた幕府にとって、このことは絶対にもらしてはならない国家機密だった。だから、幕府の公設の施設で、宣教師を囲うことはできなかった。目付、大目付の(スパイマスター)の井上政重(1585-1661)の私邸があてられた。この屋敷は切支丹屋敷と呼ばれた。

六城雅敦さんは、この井上政重こそが、キリシタン屋敷で西洋科学を宣教師から学ばせて、日本に輸入した大思想家だ、と『隠された十字架』の中でお書きになっている。私田中進二郎
は、井上政重とコンビで宣教師の改宗を行っていた、クリストヴァン・フェレイラ(1580-1650)こそがルネサンス知識人であり、大思想家である、ということを、ここで論じようと思う。

●切支丹屋敷で何が行われていたのか?

窪田明治著『切支丹屋敷物語』(1970年刊)によると、
江戸時代の初期には、切支丹には拷問を加え、改宗しないものは、見せしめに磔(はりつけ)の刑に処していた。が、磔にすると、見物人たちが寄り集まってくる。殉教者の姿を見て、逆にキリスト教に接近することも考えられる。江戸の切支丹ははじめは、浅草牢、小伝馬(こてんま)牢に収監され、打ち首となっていた。1623年には、家康の直臣(じきしん)で、家光の縁者でもあった原主水(はら・もんど)がバテレンたちと布教していたことが、発覚し、五十人が江戸の芝口で処刑されている(元和の大殉教)。この翌年に、切支丹屋敷が設けられている(完成は1646年)。

窪田明治氏によると、関ヶ原の戦い(1600年時点)で、キリシタン大名だけでは全国に二千名にのぼった。彼らキリシタン大名は徳川家康方についたものが多かった。西軍側(石田三成、豊臣方)についた大名のうち、キリシタン大名は小西行長、島津義弘、織田秀信、毛利秀包、宇喜多秀家ぐらいなもので、有馬、大村、寺沢、五島、伊東などの九州のキリシタン大名や、筒井、蒲生、津軽などは東軍についていた。関ヶ原の戦いを全国規模の戦いで見ると、違った様相が現れる。

キリシタン勢力は、バテレン追放令(1587年)を出した豊臣秀吉に対し、激しい恨みを抱いていた。これが秀吉死後の、徳川家康の天下獲りに大いに利していたのである。
徳川政権がキリシタンに厳しくなるのは、1612年に天領に禁教令が出されてからである(翌13年に全国にだされる)。当時の日本にキリシタンは75万人いたとされる。
それが、1630年代には表面上キリシタンはいない、ということになったのであるから、幕府の弾圧は、やはり苛酷を極めた、ということが言えるだろう。

江戸小石川(小日向町)の私邸で、大目付 兼 宗門改役(しゅうもんあらためやく)となった井上政重はかなりの時間をかけて、キリシタンの改宗の方法を練ったようである。
公式に幕府のキリシタンの収容所となるまでに、20年以上もかかっているのだ。

その間に、イエズス会宣教師クリストヴァン・フェレイラが、長崎で奉行・竹中采女正重義(たけなか うねめのかみ しげよし)の拷問にあって、棄教(1633年)。以後、沢野忠庵「目明かし忠庵」との呼び名で、キリシタンを摘発する側に回った。この時まで、長崎奉行だった竹中重義は苛烈な拷問で知られていたが、翌年に密貿易の罪を着せられて、死罪となっている。竹中重義は、踏み絵や、映画『サイレンス』にも出てくる「穴吊り」といった拷問方法の考案者と言われている。

おそらく、幕府の大老・老中は井上政重を重視して、竹中采女をもはや不要と考えて、切って捨てたのであろう。。

フェレイラ(沢野忠庵)はこの穴吊り(逆さ吊り)に耐えられず、わずか五時間で棄教した、とされている。
そして、これに対して、イエズス会はフィリピンのマニラから、宣教師9人からなる決死隊を2回に分けて送り込んで、転向者フェレイラを説得しようとした。1643年(寛永二十年)。スコセッシ監督の映画『サイレンス』はここから話が始まっている。副島隆彦先生の『歴史再発掘』(ビジネス社2019年刊)の第3章「映画『沈黙ーサイレンス』が投げかけるもの」には、次のように書かれている。

「イエズス会にとっては、一般信徒の棄教はありえても、宣教師の棄教はあり得ない。死ぬしかない。だから、イエズス会が決死隊(ルビノ隊)に出した本当の命令は、「フェレイラが説得に応じない場合は、殺害せよ」だったと思う」

イエズス会にとって、一度恐ろしいことは、転びバテレンのフェレイラが、幕府にイエズス会の秘密を話してしまうことだっただろう。それは、たとえば20世紀のスターリン体制のソ連の「収容所群島」(ソルジェニーチンの長編小説)の実情を、亡命先の国でペラペラとしゃべってしまうことにも相当することだろう。

●本当は恐ろしいフランシスコ・ザビエルの正体

フェレイラが新たに宗門改役に就任した井上政重ら、幕府の最高幹部たちに語った秘密とは、どういうものだったのだろうか?

小岸昭・徳永恂著『インド・ユダヤ人の光と闇ーザビエルと異端審問・離散とカースト』(新曜社2005年刊)を参考にして、述べてみたい。この本には、日本人が全く知らないイエズス会宣教師ザビエルの正体が描かれているからである。ほとんどの日本のキリシタン研究本は、1549年にザビエルが布教のために来日するまで、何をしていたのか、を明らかにしていない。

16世紀中ごろのイエズス会のアジア宣教の本拠地はインドのゴアである。本国ポルトガルを出発したザビエルは1542年にここに到達する。ザビエルは、ゴアを拠点として、インドの海岸部で布教している。
『インド・ユダヤ人の光と闇』より引用する。

(引用開始)

(ザビエルが1543年に漁夫海岸から帰ったあと)ゴアで最初に訪れたのは、司教アルブケルケのところだった。新キリスト教徒(キリスト教に改宗したユダヤ人)に有罪判決を下したあと、司教は自ら次の日曜日に大聖堂で説教した。説教壇から司教は聖なる異端審問の大勅書を読み、カトリック信仰に反対する異端者側についた者を告発する責務が、キリスト教徒全員に課せられていることを、聴衆に訴えた。ザビエルがインドで最初の異端者(ユダヤ人)の処刑を目撃していたことは間違いない。

またザビエルは1546年にポルトガル国王ジョアン三世宛の書簡に次のように書いている。

「インドで必要とすることは、こちらで生活している人たちが、善良な信者となるために、陛下(ジョアン三世)が宗教裁判所を設置して下さることです。こちらではモーゼの立法に従って生活するユダヤ教徒またイスラム教の宗派に属しているものたちが、神への恐れや世間への恥じらいなしに平然と生活しております。彼らは、インドのすべての要塞に散らばっておりますので、宗教裁判所や多くの説教者が必要です。」

このザビエルの提言から14年後の1560年、ゴアに異端審問所が設置される。
このゴアの異端審問所の建物の中には、200もの独房があり、密かにユダヤ教や新教を奉じていた異端者ばかりでなく、重婚者や男色者や魔術師などがここで裁判にかけられた。1814年に勅令により廃止されるまで、ほぼ250年も設置されていた。この異端審問所で、4046人が有罪を宣告され、121人が火あぶりの刑に処せられている。火あぶりの刑を免れた者たちも、奴隷の身分に落とされたり、船の漕ぎ手のような重労働を強いられた。

(ちなみにポルトガル本国の異端審問時代1540年ー1756年の処刑者数は1175名。スペインのレコンキスタ以降の異端審問によって処刑者された人の数は1200~2000名と推定されている。)

(引用終わり)

田中進二郎です。ザビエルはポルトガル出国の直前に、本国で始まったユダヤ人(キリスト教に改宗したユダヤ教徒ーコンベルソ、 「マラーノ」(豚)と呼ばれたーの大量虐殺を見ていた。毎日のように、異端審問で有罪とされた人間たちを牢に訪れ、懺悔させるのが彼の日課だった。もちろん、彼の説教に応じたからといって、刑が軽くなることはなかった。その後、死刑囚たちは火あぶりの刑にされた。改宗ユダヤ人の財産は、異端審問裁判所によって、ことごとく没収された。

(小岸昭氏は、ザビエルはこのスペイン・ポルトガルの官僚組織の「犯罪」に加担した、と結論付けている。)

その後、ザビエルがインド宣教で目撃したのは、離散ユダヤ人がインドまで逃げてきて、安寧に(?)暮らしている姿だった。彼らを撲滅することが、キリスト教の神の栄光にかなう、とザビエルは狂信的に考えたのだ。1492年にスペインで、セファルディ系ユダヤ人の大迫害が始まり、彼らは世界各地に離散(ディアスポラ)していた。
それを地の果てまで追って、イエズス会はインドにまで異端審問所を作らせたのである。ザビエルはまさに、ヨーロッパの思想警察の尖兵だったのである。

またザビエルがインドの海岸都市で見たのは、本国ポルトガルがゴアを1510年に武力で占領したものの、その後も、胡椒貿易が伸び悩み、思うほど利益が上がらない。その理由として、ユダヤ人商人がインドの胡椒をほぼ独占的に扱っている、という実態があることを、知ったのであろう。
インドから離散ユダヤ人を絶滅させることは、ポルトガル王国の国益にも叶う、と考えたのであろう。ユダヤ人はインドのカースト制度の最下層であるシュードラ階級に組み込まれながらも、商魂たくましく、根を張っていたのである。彼らはイスラム商人と同様に、航海術にも長じていた。ユダヤ人が世界の商業ネットワークの中心だった。
(以下次回に続きます。)
田中進二郎拝