[2402]『旧唐書』と『新唐書』の間

守谷健二 投稿日:2019/05/20 11:39

守谷健二です。〔2040〕の続きです。2019.5.20

 東大寺の僧・奝然(ちょうねん)の後日談

 宋の二代皇帝・太宗との謁見を終え、西暦986年、宋商人の船で帰国した奝然は弟子の嘉因に太宗皇帝に対する御礼状と貢物を持たせて宋に派遣した、と中国正史『宋史』は詳細に伝えている。
 礼状は、太宗の徳の高さを称え、謁見を許された事への感謝をくどいほどに言葉を尽くして述べている。

 貢物がすごいのだ。琥珀、青い色の水晶の函、青紅白の水晶、螺鈿細工の花形函、金銀蒔絵の函、金銀蒔絵の硯箱と金の硯、金銀蒔絵の扇函などなど数多く。
 とても一介の僧侶が準備できるような財宝ではない。
 
 十世紀末から十一世紀初頭と云うのは、平安遷都から二百年経ち、平安の王朝文化は爛熟期を迎えていた。紫式部が『源氏物語』を書き、平安時代の最大の政治家・藤原道長が権力を握った時代である。
 また中国では、唐朝後半の治安の悪化は、陸路(シルクロード)での交易の安全を脅かすようになっていた。それに交易品は絹に加え、中国陶磁器の占める比重が重くなり、海路による交易が有利になっていた。
 
 十六世紀、ヨーロッパの大航海時代の幕開け以前は、アラビア人が海路の主人公である。アラビア人は海路でしばしば中国を訪れるようになっていた。海上交易の活発化で、宋の交易船が日本を頻りに訪れるようになっていた。

 『旧唐書』が上梓されたのは、945年である。宋の商人の手で『旧唐書』が日本の王朝に齎(もたら)されたのではないか。王朝はそれを読み驚愕したのではなかったか。日本の王朝の正統性は、神代より断絶がなく続いてきた(万世一系)ことにある。易姓革命の思想を完全に排除したことで「日本の歴史」は創られている。『万世一系』こそが日本の信仰・王朝の正統性の根幹である。

 それなのに『旧唐書』は、日本記事を「倭国伝」と「日本国伝」の併設で創っており、倭国が日本列島の代表王朝であったが、日本国が倭国を併合した、と書く。
 これは『易姓革命』ではないか。『易姓革命』を認めては、平安王朝の正統性は崩壊するのである。相手は中国正史『旧唐書』であったが手を拱(こまね)いてもおれなかった。王朝の正統性・存続にかかわる問題であった。

 西暦982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。
 983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り皇帝に拝謁。

 一介の僧侶が、渡海早々に皇帝に拝謁などできるはずがない。それを可能にした裏技があったはずである。それが奝然が日本の『職員令』『王年代記』と共に運んだ銅器十余事に詰められていた黄金であったのではないか、と云うのが私の読みである。

 奝然は、仏典を求めて中国に渡ったのではない、単なる僧侶ではない。王朝の密命を受けて宋を訪れたのだ。膨大な貢物は、一介の僧侶に用意できる範囲をはるかに超えていた。正史『宋史』は、それを一々記録しているのである。
 奝然は、平安王朝の密使に違いないのだ。平安王朝は、公にできない願い事を奝然に託して宋朝に送ったのだ。『旧唐書』の日本記事を何とかしてくれるよう頼みこんだに違いない。『旧唐書』の日本記事は、平安王朝の正統性を否定するものであったのだから。
『王年代記』を持って行ったのは、そのためだろう。奝然は、日本には王朝の交代がなかった、易姓革命は一度も起きなかった、と熱弁をふるったのではないか。宋の二代皇帝・太宗が、それに感心したのであった。中国皇帝の最大の悩み
は、いとも簡単に革命が起きることである。唐が滅んで宋朝が出来るまでの五十年ばかりの間に五王朝が交代した。

 太宗が、奝然の願いに同調したことは十分に考えられることである。易姓革命のない国があっても良い、いや理想はそうであるべきだ、と太宗が考えたらしい。『旧唐書』の日本記事を、何とかしてやる、太宗は奝然に約束したのではなかったか。帰国後、弟子・嘉因に持たせてやった膨大な貢物は、それにたいする御礼ではなかったのか。
 中国に、日本は金の大産出国であるとの認識が生まれたのは、奝然の訪問に始まっている。
 『新唐書』編纂の動機は、意外にこの辺にあったのではないか。『新唐書』は『旧唐書』の欠を補うために編纂されたというが、『旧唐書』より信頼性が低いというのが定説である。いったいどういう事だ。ちょっと軽蔑されているような歴史書に見えるのだ。

岩波文庫『旧唐書倭国日本国伝・宋史日本伝・元史日本伝』を編集された石原道博先生も、『旧唐書』の方が『新唐書』より信頼性は優ると認めておられる上で、『新唐書』は『旧唐書』の「倭国と日本国を併設するような不体裁なこともなく、記事も整っている」と書かれているのはどうしたことであろう。

 少なくとも日本の王朝にとって『旧唐書』の他に『新唐書』が成立したことは非常にありがたい事であったのだ。