[2400]『旧唐書』と『新唐書』の間

守谷健二 投稿日:2019/05/06 13:45

2398の続きです。 2019年5月6日

 『旧唐書』と『新唐書』を比較する。
「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅東南の大海の中にあり、山島に依りて居る。・・・」
「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・」   以上『旧唐書』より

「日本は古の倭奴なり。京師を去ること万四千里、新羅東南の海中にあり、島に居る。・・・」『新唐書』より

『新唐書』では、日本国と倭国は同一の国として記載されている。日本には、倭国(筑紫王朝)と日本国(近畿大和王朝)の並立などなかった。王朝の交代(易姓革命)など無かった。と云うのが『新唐書』の見解です。

『旧唐書』が成立したのは西暦945年、『新唐書』が成立したのが1060年です。この百十五年の間に、中国は日本に対する認識を変えたのです。

 実は『新唐書』の日本記事は禁じ手を使って書かれています。どういう事かと云いますと、『新唐書』の日本記事は、983年、東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が齎した『王年代記』に依拠して書かれています。

983年は、宋の二代皇帝太宗の時代です。唐の時代ではありません。宋の時代に新たに手に入った資料で『旧唐書』の認識を変えてしまったのです。

『王年代記』は、日本の最初の主を天御中主とし、天照大御神、神武天皇らを経て六十四代円融天皇に至る系譜であった。

 不思議に思うのは、宋に渡った奝然が皇帝にいとも簡単に拝謁を許されていることです。奝然は日本国の公式の使者ではありません。一介の学僧にすぎない奝然がどうして皇帝に拝謁することが許されたのだろう。

「雍煕元年(984)、日本国の僧奝然、その徒五、六人と海に浮かんで至り、銅器十余事ならびに本国の『職員令』・『王年代記』各一巻を献ず。・・・
・・・太宗、奝然を召見しこれを存撫する事甚だ厚く、紫衣を賜い、太平興国寺に館せしむ。上、その国王は一姓継を伝え、臣下も皆官を世々するを聞き、因って嘆息して宰相に言って曰はく、「これ島夷のみ。すなわち世祚遐久にして、その臣もまた継襲してたえず。これけだし古の道なり。中国は唐季の乱より寓県分裂し、梁・周の五代、歴を享くること尤も促(みじか)く、大臣の世冑、能く嗣続すること鮮(すく)なし。朕、徳は往聖に慙ずといえども、常に夙夜寅(つつ)しみ畏れ、治本を請求し、敢えて暇逸せず。無窮の業を建て、可久の範を垂れ、また以て子孫の計をなし、大臣の後をして世々禄位を襲わしむるは、これ朕の心なり」と。『宋史』日本伝より

宋の皇帝太宗は、奝然の説く日本の歴史(万世一系・易姓革命がなかった)を聞き、溜息をつき、それこそ古の道(理想)であると、中国も本来そうあるべきなのだ、としきりに感心した。と『宋史』は記す。

『王年代記』の内容の真偽を検討する事なしに、唐の滅亡から極短期間に五王朝が交代(易姓革命)した中国の現状、二代皇帝・太宗もいつ革命が起こるか、不安で堪らなかったのであろう。革命が起こらないことは、中国皇帝の強い願望であった。この願望が、『旧唐書』の日本認識を捨てさせ、「日本国は古の倭国である」を中国正史に定着させたのではないか。『新唐書』は宋の代に編纂された。

 それにしても、一介の東大寺の学僧にすぎない奝然が中国に渡る早々に、皇帝に拝謁を許されているのはどうした訳であろう。彼が持って行った銅器十余事とは何であったの何だろう。

 歴史学研究会編『日本史年表』(岩波書店)の西暦982年、陸奥国に宋人に給する答金を貢上させる。983年、奝然、宋商人の船で宋に渡り、皇帝に拝謁。とある。

奝然が持って行った銅器の中には、黄金が満載させていたのではなかったのか。十kgや二十kgではないだろう、そんな程度で皇帝に拝謁を許されたとは思えない。何百キロの単位だろう。黄金の力で拝謁を買い取ったのではないのか。 ( 続く )