[2399]新天皇の即位で、天皇家の代替わりが行われた。

副島隆彦 投稿日:2019/05/04 19:31

副島隆彦です。今日は、2019年5月4日(土)です。

 4月30日に、明仁(あきひと)天皇が退位して、上皇(じょうこう)となり、翌日5月1日に、徳仁(なるひと)天皇が即位した。 私は、もう、今上(きんじょう)天皇というコトバは使わない。こんなコトバはもう要らない。

日本国は、世界に向かって、平和に新国王(しんこくおう)を迎えて、世界に向かって、まるで中世国家(ちゅうせいこっか)のような、王国(おうこく)としての姿を強調した。


徳仁天皇と雅子皇后

 私、副島隆彦が、これまでずっと主張してきたとおり、日本国は、外側が、王国(キングダム、モナーキー)でありながら、内側が、デモクラシー( 代議制民主政体、だいぎせいみんしゅせいたい)の、二重構造の、「入れ子」構造の国 である。立憲君主政(コンスティチューショナル・モナーキー constitutional monarchy )の国である。この考えしか他には成り立たない。世界中から、すなわち、諸外国から見ても、どうしても、このように見える。

(ここに、あとで、「入れ子」構造、2重構造 の 図を入れる)

 日本国天皇は、国王なのであって、皇帝(こうてい。エンペラー、インペラトーレ、ファンデイ)ではない。今も世界中にある王国(キングダム)の国王(キング)のひとつである。

 日本の憲法学者たちも、政治学者たちも、このように「日本国は、外側が、王国(憲法1条から8条)であり、その内側が、民主政治体制(デモクラシー。「国権の最高機関は国会」とする憲法41条。 )になっている、二重構造の国である 」とする、私、副島隆彦のこの学説を受け入れるべきである。 

 私は、法学部出(で)であるから、大学時代に憲法学を学んだが、そのとき、東大で、‘ 戦後憲法の護(まも)り役’であった宮沢俊義(みやざわとしよし、1899-1976年)、芦辺信義(あしべのぶよし、1923-1999年)の憲法の本を読んでいる。 この2人が、日本国憲法の成立過程の、生(なま)臭い、アメリカ政府による製造であり、日本国民に下げ渡したものである、という事実を、「そんなものはありません」ことにして、隠し通した。

 ヘルメノティーク( Hermeneutik 解釈学。英語で言えば、ハーマニューテックス)、すなわち憲法の条文の1条、1条を細かく、細かく解釈、説明することだけに徹して、それ例外はやらないことにした。条文を解釈すること以外はしない。それ以外は、法学の基礎学問、土台の学問である、法制史や、法(ほう)制度論や、法哲学( 私、副島隆彦は、× 哲学という言葉は、キライだ。正しくは、ジューリス・プルーデンス juris-purdence 、法についての思索、熟慮 という) でやってくれ、ということにして、大きく誤魔化(ごまか)した。 日本国民の目と思考を、真実から逸(そ)らさせた。アメリカ政府(占領軍)の意思、意図もそこに働いていた。

「憲法制定権力(けんぽうせいていけんりょく)」という理論があって、ドイツのカール・シュミットという、優れた大(だい)学者が、これを唱えたときに、はっきりした。 「憲法が、作られるときに、その背後、土台に、本当の権力者がいる。その本当の権力者を探り出せ。それが、主権者だ」という理論である。ということは、アメリカ政府が、日本国の主権者だ、という政治分析も成り立つのだ。

 カール・シュミットと、大(だい)思想家のマルチン・ハイデガー の、ふたりだけは、ドイツの敗戦後も、「 アメリカのヤンキーともめ。私は、あんな、低(てい)知能の連中には、屈服しないぞ」と、山に籠もって、死ぬまで抵抗した。 ヤンキーYankee というのは、 ニューヨークのユダヤ人 (ヤンクというは、臭いチーズを食べるオランダからのユダヤ人という語源) のことであって、ただの、アメリカ人への蔑称ではない。この秘密を、アメリカ国民でも、今は、公然とは言わなくなった。それでも、ニューヨーク市の、北の方、150丁目ぐらいに、ヤンキー・スタジアムが、今もあるじゃないか。

 上記の東大の2人の憲法学者が書いた 憲法教科書は、元首(げんしゅ)問題に、拘(こだわ)っていた。そのことを、私は覚えている。今は、天皇が国家元首(ソブリン、sovereign ドミナント、dominant プリンチペ principe )であることに、異論を言い出す人はいなくなった。日本は、王国(君主国、王様の国)なのである。

 私はその末流であるが、佐賀の副島氏は、幕末の尊王(そんのう)の家系である。私は、敗戦後の8年目(昭和28年、1953年)に生まれたので、全部、壊されていたので、尊王思想を受け継いでいない。ただ、飲んだくれの医師だった 私の父親(最後の年の海軍に応召、岡崎市にあった軍医学校で終戦。ポツダム少尉で除隊。1923年、大正12年生)から、「隆彦。あの戦争は、国民、皆んなで戦ったんだぞ」という言葉だけが今も、私の耳に残っている。

 特別な人がいてはいけないのである。国家体制上の生まれながらに特別な人たちは、居てはならない。それがデモクラシーである。人間平等主義(エガリタリアニズム)だ。ただし、これは、国家体制から、すべての人(法人も)は平等の取り扱いを受ける、ということであって、これを、「法の下の平等」(イークオル・アンダー・ザ・ラー)という。

 だが、人間は、現実の世界では、平等ではない。背の高さ、低さも、姿形(すがたかたち)も、美醜も、知能の能力(頭の良し悪し)も、生まれた家の貧富の差もある。障害者として生まれた可哀想な人たちもいる。人間は、現実には平等ではない。

 ただし、生まれながらに、天皇家(皇室)だけは、特別な人たち、ということにして制度(国家体制)として残した(憲法1条から8条)。このあと、第9条が、平和憲法、戦争をしない、軍隊を持たない。

 だから、中学生だった私は、「民主政治=人間は皆、平等 と、学校で教えるのに、どうして、天皇家という特別な人たちがいるのか」と私は自問した。教師たちに質問しても、誰もこの疑問に答えてくれなかった。私が、持ったこの疑問を、素朴に持つ日本人は、今も相当多く居る。だいたい、中学生ぐらいで持つ。

「なんで、皇室に生まれると、あんなにきれいなドレスを着れるの。いいなあ。私も着たい 」と、素朴に疑問に思う女性もたくさん、いる。だが、日本国内ではこの疑問は、口にしない、タブーになっている。誰も、この疑問に説明をしてくれない。政治学者も、法律学者も、何も答えない。

「そういうことは、言ってはいけないのよ。昔からそういう風になっているの」と、娘は、母親から窘(たしな)められることになっている。 分かりますか、これが、私たちの日本という国です。

 ちなみに、私、副島隆彦は、×「民主主義」というコトバは、使わない。× デモクラティズム  democratism というコトバはない。 デモクラシーは、紀元前450年ぐらいに、古代アテネの、本当に”賢帝(けんてい)” だった、ペリクレスが、我慢に我慢の指導者ぶりを発揮して、アテネをよく統治したときに、生まれた。それを30歳ぐらい下の、ソクラテスが、言論人として、よく支えた。

 だから、デモクラシーとは、代議制 = 選挙で選ばれる、デモス(民衆)の代表による、政治体制(政体)のことである。それから、のちに、ゲルマン民族(諸族)の、” チュートン(トイトブルク)の森” のゲルマン民会(みんかい、Gemainde ゲマインデ)からも、democracy は生まれた。

 だから、デモクラシーは、「民主政治」 と訳すべきであって、×民主主義 は、誤訳であり、間違いのコトバだ。× 民主主義 というコトバを、平気で使う人は、知識人としては知識が足りない。東大系の政治学者は、皆、「民主政治」を使う。× 民主主義を、みんな、もうやめた方がよい。ソシアリズム socialism 社会主義のような、イズム -ism と、言っていないでしょう。

デモクラシー demos-cratia は、「デーモス」(demos 民衆、大衆)の代表者たちが、政治権力を行使する、「クラティーア」(cratia 、制度、体制、支配秩序)のことである。

 だから、前の方で、私が説明したとおり、日本国の、国家体制は、外側の殻(から)が、立憲君主制(国王の権限が憲法によって制限されている君主政体 )であって、その裡側(うちがわ)が、デモクラシーになってるのだ、と、このように考えるしかないのだ。 

 今や、日本の憲法学者も政治学者も、この私の考えに従うしかないはずだ。難(むずか)しい、あれこれの、専門家の議論に持ち込んで、私を騙せると、思わない方がいい。国民を騙(だま)してはいけない。

 それから、もう一つ。正確には「日本国民が主権者だ」という考えは、間違いである。
  日本国は、国民主権(こくみんしゅけん)だと、憲法学者たちも解釈(かいしゃく)するが、それは、「主権(ソブリーンティ sovereignty )の存する国民は、・・・」と、憲法典に、前文を含めて、3カ所出てくるだけで、それだけだ。「主権者国民」 と言う言葉は、短絡的で知恵の足りない、近代学問(モダーン・サイエンス)を勉強したことのない人が使うコトバだ。日本のリベラル派は、この「国民が主権者」という言葉に、縋(すが)り付く。その分、あまり知能が高くない。

 それは「お客様は神さまです」に、近い、「消費者(しょうひしゃ)主権」というコトバの、馬鹿らしさ、とよく似ている。企業が、客、国民を騙(だま)して、商品を買わせるように仕組む、ときの、猫なで声の、いやらしいコトバだ。

 正しくは、国民の、代表者たち(レブレゼンタティブス・オブ・ザ・ネイション representatives )が、日本国の主権者(ソブリーンテイ sovereignty の保持者 )である。国民の代表者「たち」に国家主権が在る。

 だから、憲法41条以下で定める「国権の最高機関は、国会である」のとおりであり、選挙で選ばれた、国会議員たちという人間の集団が、主権を持つ。そして、そこから選ばれる、内閣(ないかく、キャビネット)は、主権の内の、行政権、国家業務の推進の権限(エグゼクティヴ・ライツ)だけを持っている。だから、日本国の意思は、対外的には(世界に向かっては)、閣議で決定したもの、である。内閣総理大臣(首相。プライム・ミニスター)も含めて、内閣(キャビネット)に行政権(ガヴァメント)が有る。

「政府」と言うのは、広義(こうぎ、広い意味)では、国民議会(国会)を含むが、狭義(狭い意味)では、内閣(政権)だけを指す。

 主権者とは、政治学では、権力者、支配者のことである。 政治学(ポリティクス politics ) という学問では、厳格に、そのように決まっている。
だから、主権者・国民と書くと、大勢の人である国民(民衆)が、大勢の人である国民(民衆、大衆、非統治者)を、支配、管理する、ということになる。これは論理矛盾である。支配者は、少数でなければいけない。民衆(国民)は、常に、非統治者(ひとうちしゃ)である。 

非統治者(= 支配される者たち)が、統治者(支配者、ルーラー)と、同じだ、というのは、幼稚な考えだ。愚かな考えだ。それは、「民衆が、支配者だ」という、愚劣な、コトバとなって、人類の20世紀(1900年代)を、覆(おお)い尽くした。それで、人類(人間)は、世界中で、悲惨、無惨、極(きわ)まりないことになった。ロシア革命と、中国革命 の、ふたつの、人類の大(だい)実験で、夥(おびだだ)しい数の人間が、殺された。銃殺刑にされた。収容所でもたくさん、死んだ。

 だから、1917年からの、ロシア革命の時、指導者のレーニンによって作られた、「プロレタリア独裁」というのは、大間違いの考えだ。「民衆による独裁」という、思想が、どれぐらい、愚かで、無惨な考え(政治思想)であったか、私たち、今の人間は、あれらを、徹底的に、解剖して、切開しなければいけない。 「プロレタリアート(労働者階級)による、政治的な独裁(ディクテイターシップ)を、肯定する」という思想が、どれぐらい、その後の、人類(人間)に、害悪と、迷妄と、残酷な結末を、もたらしたか。 

 ロシアの民衆、労働者にとって、大変な迷惑だった。中国民衆にとっても、極まりないことだった。共産党の幹部や、高級軍人たちが、ロシアでは、80万人とかが銃殺刑になり、400万人ぐらいの民衆が、シベリア送りになった。 中国でも、あの文化大革命(1966年から1976年の10年間)で、2300万人の
党幹部や、民衆が殺された。今、人類(人間)は、この2つの大(だい)実験の大失敗の、大きな反省の上に立って、生きている。 一番、苦しんだのは、当の、ロシア人と、 中国人だ。

 だから、「国民が主権者」で、「国民が、国民を支配し、統治する」という、愚か極まりないコトバを、私たちは、もう使っては、いけないのだ。この言葉自体に、大きな過(あやま)ちがある。私たちは、綺麗(きれい)ごとの、理想主義によって、何ごとか、大変な、進歩、発達が出来ると思わない方がよい。 私たちは、何ごとも、深く、深く、疑いながら、慎重に生きなければいけないのだ。 
一見、立派そうな、美しい言葉には、大きな、欠点と策略が潜(ひそ)んでいる。

 だから、今の北朝鮮のような、プロレタリア独裁の思想が残っていて、異常な政治体制が続いていて、北朝鮮の民衆が、ヒドい目に遭っている国は、急いで、打ち倒されなければいけない。民衆を救い出さなければいけない。すでに800万人ぐらいが餓死しただろう。あんな、気色の悪い独裁者の、ペクトの血((白頭山=はくとうざん=の英雄神話、作り話)で統治されている、生神(いきがみ)さま(金日成の血族)が支配する国を、世界が許しておいてはいけない。

 今の金正恩のおじいさんの、金日成(きんにっせい、キム・イルソン)は、旧ソ連政府が、モスクワにいた朝鮮族の 若い元気な男を、、戦争が終わった直後に、連れて来たのだ。本物の 朝鮮の民族独立運動(日本の植民地統治と戦った)の英雄の 金日成は、日本の陸軍士官学校の、ソウル(京城)にあった分校を出た男だ。数人いたらしい。皆、戦闘で死んでいる。これが真実だ。

 だから、今の日本は、国家体制(=憲法体制)上、国民の代表者 である議会の議員たちという団体が主権者なのである。こう考えないと、理論の辻褄(つじつま)が合わない。

 アメリカ合衆国が、典型であるが、王政(国王の権力。イギリス国王ジョージ3世)を否定して、あるいは、打ち倒して成立した(1776年、独立宣言。1783年、イギリス国が独立承認)。 共和国(リパブリック。王様がいてはいけない国という意味 )であるアメリカ合衆国は、建国後に、「誰が、ソブリン(主権者)なのか」の議論で困ってしまった。議論で揉(も)めた。 初代大統領のジョージ・ワシントンには、主権はない。だから、主権者は、上院議会(セネト、the Senate )、ということに、苦し紛れで決めた。アメリカの上院の議員たちが、Senators セネターズ である。

 だから、アメリカ合衆国は、戦争の開始の宣言(ウォー・デクラレイション)は、正式には、アメリカでは、上院議会の決議で決まる。宣戦布告は、歴史的に国王の権限だ。だから、主権者は、今では多くの国で、王様がいないので、国民議会という、国民の代表者(代理人、レプレゼンタティブズ)が保持している。 このように考えないと、理屈(理論)が通ないのだ。

 この他に、ドイツのハンス・ケルゼンの国家学、憲法学、国法学(シュターツ・レヒト)を受け継いだ、清宮四郎(きよみやしろう)、という悪い憲法学者がいて、彼が、東大の 憲法の授業の、「憲法 Ⅰ 人権」ではない、「憲法 Ⅱ 統治機構(とうちきこう。すなわち、国家体制論。支配)」を受け持った。

「憲法 Ⅰ 人権編 」 は、前述した、宮沢俊義( みやざわとしよし、しゅんぎ)が、受け持った。

 このように、東大法学部の「憲法 Ⅱ」で、「人権、人権、いろいろの人権、人権のカタログ」と、教えておいて、そのすぐあとに、清宮四郎が出てきて、バーン、と、「はい、統治(とうち。ガヴァーメント)」と教える。 この瞬間に、諸人権は、押え付けられる。 だから、「諸(しょ)人権は、無上、至上のもの」と教えておいて。ところが、そのすぐあとに、「憲法Ⅱ」で、「はい、統治」、「このように、国民を押え付けなさい」となる。これが、官僚養成学校である、東大法学部の 秘密 だ。最大の秘密だ。 

 分かりますか。私、副島隆彦が、あからさまに、このように、日本の国家体制の、成り立ちと、構造の秘密を、教えないと、知能の低い、他の日本人の知識人たちでは、世界基準(ワールド・ヴァリューズ)に合わさせた、知識の骨格が出来ていないので、ダメなのだ。私は、最近は、自信を持って、このように言えるようになった。東大を出ているわけでもないのに(笑い)、アハハ。

 私が、新天皇即位で、思い出すのは、3人の日本史の学者のことだ。久米邦武(くめ・くにたけ、1839-1931年)と、重野安繹(しげの・やすつぐ、1827-1910年)と、津田左右吉(つだそうきち、1873-1961年)のことだ。この3人が、明治から大正、昭和にかけて、この国で、一番、優れた歴史学者だった。

 久米邦武(くめくにたけ)は、1892(明治25)年、論文を書いて、「神道は祭天の古俗なり」という重要な学問的な定義を行った。


久米邦武
この「 神道(しんとう)は 神話(しんわ)であって、祭天(さいてん)の 古俗(こぞく)に過ぎない 」 というコトバが、今も、もの凄く重要だ。「日本書紀」と その他に国家の古文書に書かれている、神道の儀式(ぎしき、リチュアル ritual )は、祭天(さいてん)、即ち、「天(てん)を祭(まつ)る」、古俗(こぞく)、古くからの習俗(しゅうぞく)、習(なら)わし」である、と断定した。神話(ミス、myth、すなわち、作り話 )を事実だと、学問の名で行ってはならない、とした。 

久米は、明治の初めの権力者たちの欧米視察に随行した学者として、欧米近代(きんだい、モダーンmodern )のサイエンス(science 、スシャンス、スキエンザ、近代学問)に従った学問によって、これらの伝統的な古俗を冷静に、合理的に研究しなければいけない、とした。 

 久米邦武は、この論文を発表したことで、やり玉に挙げられて、全国の神道家(しんとうか)、神主、神官たちから、強く非難され、攻撃された。それで、東京帝国大学の国史 こくし、東大系だけは、日本史と言わないで、国史と言う )の教授を、その年のうちに、辞めさせれた(当時は、非職=ひしょく=と言った)。

 2人目の、重野安繹(しげのやすつぐ)も、同じく、近代学問(モダーン・サイエンス)としての冷静な歴史学を志した。 重野安繹の業績については、今日は書かない。


重野安繹
 3人目の、津田左右吉(つだそうきち)は、西暦720(養老4)年に成立した、「日本書紀」( どうも、「古事記」は、それから百年後ぐらいに、それを 漢文に書き直されたものだ)の記述の、「聖徳太子の実在性は疑わしい」の箇所などを、1939(昭和14)年に、右翼の、蓑田胸喜(みのたむねき)、三井甲之(みついこうし)から糾弾された。

 そして 翌年、文部省から、津田の4冊の論文集が、発売禁止(発禁=はっきん=処分)にされ、早大教授を辞めさせられた。1919年刊の『古事記及び日本書紀の新研究』と、1924(大正13)年刊の『神代史の研究』が、主著である。津田左右吉の研究は、戦後の日本史学者たちの模範となった。


津田左右吉
 だから、私、副島隆彦は、この3人の優れた先達(せんだつ)に倣(なら)って、神話のようなものを、無上(むじょう)にありがたがる風潮に強く反対する。

 戦前に、天皇は、現人神(あらひとがみ)にまで祭(まつ)り上げられた。現人神というのは、生神(いきがみ)、生き神さま、である。 天皇を、生き神 として、祀(まつり上げて、信仰の対象にしたことは、国家体制として大間違いだった。

 だから、最後は、広島と長崎に原爆を落とされて、打ち倒されて、日本の国家神道(こっかしんとう)は、木っ端みじんにされて、滅んだのだ。それまで、全国の神官(神主)は国家公務員だったが、敗戦後は、その資格は剥奪された。 神話(すなわち、作り話)なんかを、真に受けて、信じ込んで、ヘンな国家体制なんか作ると、最後に必ず、こういうことになるのだ。

 今の天皇家(皇室)は、これらのことを重々(じゅうじゅう)、腹の底から知っている。それが、昭和天皇という人だった。「私たちは、バカだった、愚かだった。知能が足りなかった。まんまと騙された。だから、戦争に負けたのだ」と深く反省した。昭和天皇は、このあと、日本国憲法という’座敷牢’に、静かに入っていった。 その前は、天皇は、帝国憲法(明治憲法)よりも上にいた。だから、今の天皇家は、神式の儀式を強調しないで、コソコソと宮中三殿で行う。あれでいい。あくまで天皇家の儀式である。

 だから、秋篠宮(あきしののみや)が、「あまり天皇家の儀式に、お金を掛けないでください」と発言して、安倍首相以下のバカ右翼たち が、仰天したのだ。今の天皇家に一番、弓を引いているのは、このバカ右翼たちだ。それと狂った政治宗教を持っている者たちだ。

 私が、もう一つ、知識人として思い出すのは、内村鑑三(うちむらかんぞう、1869-1930年)のことである。クリスチャン(アメリカのカルヴァン派プロテスタント、アメリカカン・ボード に学んだ。同志社の創立者、新島襄=にいじまじょう= が資金を出して留学させてくれた)である内村鑑三は、1891(明治24)年の1月に、第一高等学校(今の東大の駒場、教養学部)の始業式で、ご真影(ごしんえい、天皇の写真)と教育勅語(きょういくちょくご)に拝礼せず、自分だけ直立のままだった。この時、内村鑑三は、まだ若い21歳の教員だった。


内村鑑三
 そのことが、大騒動になって、却(かえ)って、内村鑑三は、有名人の「キリスト者」で、キリスト教の伝道者で、日本の独特の思想家 になった。私は、あのときの内村鑑三のような人が、今も出てくるべきだと思っている。今は、流石(さすが)に、奉安殿(ほうあんでん)とか、ご真影(ただの写真だゾ)に 頭を下げないと、不敬罪(ふけいざい)で逮捕されて、処罰される、ということはない。だが、ほんの74年前まで、日本は、そういう国だったのだ。 

 今の日本国憲法が出来るまで、日本には、人権(じんけん)というコトバは、無かったのだ。本当だ。人権(ヒューマン・ライツ)の思想は、ほんの75年前まで日本になかった。

 吉野作造(よしのさくぞう、1878-1933年)が、”大正デモクラシー”で、「中央公論」誌 に、民本主義(みんぽんしゅぎ)というコトバで、盛んに、人権思想を説いたときにも、国家主権( しゅけん、ソブリーンティ、 sovereignty )は、天皇にあったので、民主主義(みんしゅしゅぎ)とうコトバは、使えなかった。それで、遠慮して、ちょっと工夫して、吉野作造は、民本主義(みんぽんしゅぎ)と言うコトバを、使った。明らかに、democracy デモクラシー(代議制民主政体)の訳語である。

 この時には、もう、明治時代の「自由民権(じゆうみんけん)運動」の時代は過ぎ去っている。
「民権(みんけん、民衆の権利)」の反対語、対立語は、「 官憲(かんけん)」である。× 官権とは言わない。


吉野作造
 今の 日本国は、国民の多くが貧乏のまま、ヒドい不況のまま、優れていない(つまり、愚か者の)政治指導者たちがいて、国民生活が圧迫されたままの、「貧乏でもいい、平和で有りさえすれば」の、ギリギリの選択をしながら生き延びている。 

 今の日本国の最大の弱点は、指導者である。国民の各層はしっかりしているのに、政権政治家たちの能力が、あまりにヒドい。あまりにも低劣な、愚かな者たちが、一番上にいる。だから、日本は、元気が出ない。碌な国家運営をしていない。諸外国の指導者に現われるような、優れた見識と、ずば抜けた能力を持ち、優れた能力で、国を豊かにして、若者たちに職を与え、夢を与える。今の日本には、そういう、国民に敬愛される指導者がいない。立派な人間が出てくると、愚劣な人間たちが、足を引っ張る。追い落とす。

 だから、日本は、ちっとも元気が出ない。皆、おろおろしている。指導者が、国民から軽蔑されている。諸外国と較べて、どうしても、このように見える。このことが、日本国の最大の危機である。

アメリカによる、日本国からの大きな収奪(しゅうだつ)、資金の強奪(ごうだつ)が続いている。
私は、ここの20年間、ずっと、自分の金融・経済本で書いてきた。今では、日本は、アメリカに、隠れて、裏から、貢がされている、資金が 最低でも、1200兆円(10兆ドル)ぐらいある。この40年間の間も、それらは、毎年、どんどん、積もっていった。

 この累積の「融資」残高、1200兆円の、アメリカに強制的に奪い取られている、隠し資金のことを、私が、いくら書いても、誰も信じようとしなかった。 だが、そろそろ、「そういうことだろうなあ」と思う、人たちが出てきている。 だいたい、毎年、30兆円(3000億ドル)ぐらいを、アメリカの国家財政の赤字(不足分)を、補うために、貢いでいる。その担保(保証、プレッジ)は、米国債という、紙切れである。

 だから、アメリカ政府の公債(国家借金証書)を、「買う」という形で、アメリカに融資している。貸している。おそらく、この1200兆円は、踏み倒される。アメリカ帝国が、急激に落ち目になって、信用をなくすときに、1ドルは、80円、60円、40円・・・と下落する。 だから、アメリカは、日本からのこの、米国債買いの形の、借金(負債)を踏み倒すだろう。このようにして、次の時代、次の世界が始まる。それは、これから、5年先(すなわち、2024年)のことだろう。

 安倍首相は、先週、トランプ大統領 に、ゴルフに誘われて、チンコロ忠犬、ポチ公のまま、何でも卑屈に、アメリカ帝国の言いなりになることで、自分の立場を守っている。 

 アメリカと、対等な交渉をする、ということが全く出来ない。言いたいことを言うことが出来ない。だから、相手にバカにされる。軽く見られる。そのように長年、仕組んだ、アメリカも悪い。 another Ozawa 「アナザー・オザワ」すなわち、もう一人別の新しい小沢一郎( 田中角栄の後継ぎ、真の日本のの民族主義者、ナショナリスト。帝国と真剣に交渉する属国の王 )が、出てくるのが、アメリカとしては、困る。そうでなければ誰でもいい、ということだ。

 安倍は、4月27日に、首脳会談の時に、トランプに対して、「4.4兆円の、アメリカ製の軍需品 を買うと、この場で最終的に決断しますから、どうか新天皇に会いに来て下さい。これが、正式の最終のお願い(取引)です」と言った。そして、来たる5月27日(日)、28日(月)のトランプ訪日を公式に決定した。
 

安倍晋三首相とドナルド・トランプ大統領
 トランプは、きっと大相撲の最終日(千秋楽、せんしゅうらく)に蔵前の国技館の、土俵に現れて、決勝戦 を観戦した上で、必ず、土俵に上がって、優勝カップを、優勝力士に与える儀式をやるだろう。昔、パンナムの名物(めいぶつ)会長が、やったように、「ヒョーショージョー(表彰状)ジューヨー(授与)」をやるだろう。パンナムPANNAMは、もうかなり前に無くなった米航空会社だ。

 トランプは、プロレス興行が、大好きで、自分も興行主(こうぎょうぬし。プロモーター)をやっていた男だから、プロレスと、相撲が同じものだと、知っている。相撲取りの褌(ふんどし。ローイン・クローズ loin cloth )姿を、嫌わない。ビルとヒラリー・クリントンは、嫌って、大相撲を見に来なかった。

 世界中からは、きっと、日本の 相撲取り(英語では、 sumo wrestler スモー・レスラー と言う)の、あの褌姿(ふんどしすがた)は、民族の伝統衣装とは言え、みっともないものなのだろう。こういうことは、誰も言わないので、私がはっきりと書いておく。

 各種の格闘技の奴隷戦士たち(フットボールでも、バスケットでも、サッカー、ボクシングでも同じだ。競馬の馬主も。古代ローマの剣闘士=グラディエイター=も )を、自分でオウナーとして飼うことは、ある種の支配者、権力者、大金持ちにとっては、無上の喜びなのだろう。

 今や、独裁者である、トランプは、「こいつ(安倍)は、私の言うことを何でもきく、頭の足りないやつだ」と、軽く扱っている。この事実を、一番、惨(みじ)めに噛みしめているのは、当の安倍首相本人だろう。 

 日本国民の大半も、「もう、安倍、辞めろ」と、思っている。アメリカ(トランプ)と、対等に、激しく、厳しく交渉する人間が出てこないと、日本はダメなのだ。

 安倍晋三 は、来年の8月(炎天下だぞ)の、2020年の東京オリンピックの開会式までは、首相の席にしがみつて花道を飾ろうとしている。そして、そのあと、9月に、自民党の総裁選で、次の首相が決まる。 

 さあ、「令和おじさん」の 菅義偉(すがよしひで)官房長官が、次の首相になる、いや、アメリカが、「菅(すが)でいい」と、言うか。次の属国の指導者として、アメリカ帝国が認めるか。この問題は、あとの方で書く。 今年の3月から、公然と、「スガが次か」と自民党内で、騒がれ出した。


菅義偉
 5月8日から、菅義偉は、官房長官(首相の女房役)なのに、留守をして、アメリカに呼ばれて、首実検(くびじっけん)を受けにゆく。「果たして、こいつでいいのか。アメリカの言うことをちゃんと聞くかな。文句を言わないで、カネを払うか。そして日本国内を、きちんと治めることがで着るのか」の検査を受けに行く。 さあ、この重要な問題を、私は、予測、予言しなければいけない。 

どうも、ウイリアム・ハガティ という、今の、駐日アメリカ大使が、動き回って、トランプ政権に、この案、計画を持ち上げているようだ。 ウイリアム・ハガティの周辺を調べなければいけない。

副島隆彦の「帝国 – 属国」理論の、公式(フォーミュラ)を、自然に当てはめると、自分たち帝国が、ある国の、次の 属国の王 を決めるときの、帝国側の権限者は、アメリカ大使である。だから、ウイリアム・ハガティが、動かないと、今のような、微妙な感じには、ならない。

・・・・私は、たった今、決めたが、もう、「菅義偉が、次の首相になるか」問題は、今日は書くのをやめた。次回に回す。 今日は、天皇家の代替わりの話だけにしよう。それで、このあとに、BBC(英国国営放送局)の、特派員の、新天皇の即位と、皇室のことについての、優れた記事があったので、少し長いが、それを貼り付ける。これだけにする。 副島隆彦記

(転載貼り付け始め)

〇 「 天皇陛下、その人間らしさ 」
Japanese Emperor Akihito’s human touch 

2019年04月30日 BBC ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ 東京特派員


 春らしい清々しい朝だった。私は先週、東京西部の郊外の路上に立っていた。道路の両側には何百メートルにもわたり、興奮した面持ちの人の列が続いていた。そのとき、ほとんど何の前触れもなく、黒色の大きなリムジンが両側にオートバイの警護隊を従えて橋を渡ってきた。

その車両が通り過ぎたとき、ほんの一瞬、明仁天皇、美智子皇后の両陛下が体を前に傾け、軽く手を振るのが見えた。歓声のうねりとビニール旗の波が起こり、やがて消えた。私にとって、それは少々あっけなく思えたし、そう思ったのは私だけではなかった。近くにいた高齢の女性は警察官を責めた。

「どうしてあんなに速く行ったの?」と女性は聞いた。「普段はもっとゆっくりなのに。お顔を見る機会なんてめったにないのに」。

 警察官は辛抱強くほほ笑んだ。警察官が車列の速度を決めることは、もちろんできない。この日の天皇・皇后両陛下の昭和天皇山稜への拝礼には、筋金入りの皇族ファンが数百人集まる程度だろうと思っていた。だが実際には、5000人以上は集まっていたはずだ。集まった人たちが三々五々に散らばり始めると、中には涙を拭う姿もあった。

「日本人のためにしていただいたことを、ありがたく思っています」と、美しい着物姿の女性は話した。「長い年月に対する深い感謝の気持ちを込めて手を振りました」。「本当に感動しました」と女性の友人は言った。「長年のおつとめを終えられた天皇陛下が、ゆっくりと幸せな時間を過ごされることを願っています」。

だらりと垂れた大型の日よけ帽をかぶったスギヤマ・カオルさんも、友人たちと一緒に来た。「私は戦争世代ではありません」とスギヤマさんは言う。「でも、振り返ると、平成時代の日本が平和だったのは天皇陛下のおかげだと思います。ですから、陛下の最後の訪問でお顔を見て、感謝の気持ちを示したいと思ってやって来ました。陛下には『ありがとうございました』とお伝えしたいです」 こうした気持ちを抱かせる天皇陛下は、いったい何をしたのだろうか。

「最高慰問者」
 1989年1月、昭和天皇の死去にともない、天皇陛下が即位した。
楽観的な時代だった。日本は金回りがよく、戦後の経済発展のピークを迎えていた。ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収する直前で、三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターの買収を目前にしていた。世界中で、新たな「超大国」としての日本が話題になっていた。


天皇陛下(1990年撮影)
 しかし、天皇陛下が即位した翌年、災難が起こった。バブル経済がはじけ、東京の株式市場で株価が35%も暴落した。バブル崩壊から30年近くたつが、日本の株価と地価は1990年代の水準を下回ったままだ。

 ほとんどの日本人にとって、平成(「平和の達成」を意味する)時代は経済停滞を意味してきた。加えて、悲劇に見舞われた時代でもあった。1995年1月、マグニチュード6.9の大地震が神戸の街を襲った。ビルや道路の陸橋が倒壊し、火災が何日も続いて空が暗くなった。死者は6000人を超えた。

 2011年には、さらに甚大な被害をもたらす地震が東北地方の沖合で発生した。マグニチュード9は、記録が残る中で、日本における4番目に大きな地震だった。この地震は巨大津波を引き起こし、東北沿岸の町々に壊滅的な被害を及ぼして、約1万6000人の命を奪った。この2番目の災害の後、天皇陛下は過去の天皇がしなかったことをした。テレビカメラの前に座り、国民に向けて直接語りかけたのだ。

 その2週間後、天皇・皇后両陛下は、東京から離れたスタジアムに設置された避難所を訪れた。被災者たちは、床の上にわずかな所持品を積み重ねて生活していた。多くの人々は、福島第1原発の損壊によって出た放射線から避難していた。ほとんど全てを家の中に残したまま、いつ、果たして戻れるのかどうかさえわからずに、避難生活を送っていた。天皇・皇后両陛下は床に膝をつけて家族を一組ずつ訪ね、静かに話しかけ、質問をし、いたわった。

 
東日本大震災の被災者と話す天皇・皇后両陛下
 保守層にとってはショッキングな、天皇陛下の姿だった。天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫にあるべき振る舞いではなかった。しかし、それを上回る数の日本人が、天皇陛下の人間味あふれる感情表現に深く感動した。

「陛下には道徳的な権威がある」とテンプル大学東京校のジェフ・キングストン教授は話す。「陛下はその権威を自ら獲得した。最高慰問者(consoler in chief)だ。陛下は父親(昭和天皇)には決してできなかった方法で民衆と関係を築いている」。

「陛下の避難所訪問は、政治家が写真撮影のために訪問して手を振って立ち去るのとは違う。人々の隣に座り、一緒にお茶を飲み、戦前には考えられなかった風に会話をする」

父親の罪
 天皇陛下は革命家には見えない。背は低く、控えめで語り口は柔和だ。発言と行動は戦後の憲法によって厳しく制限されている。イギリスのエリザベス女王と違い、陛下は日本の国家元首ではない。その代わり、陛下の役割は「国民統合の象徴」とあいまいに定義されている。政治的な発言は認められていない。
こうした儀礼的で窮屈な役割の中でも、陛下は見事な成果を上げてきた。

まず思い出すべきは、陛下は日本がアジアで暴挙を繰り広げた1930-40年代の約15年間に日本を治めた、神格化された昭和天皇の息子だということだ。広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えた時、陛下は12歳だった。


昭和天皇(右)と新聞を読む天皇陛下
 教育を受けていた時期のどこかで、陛下は強固な平和主義者となり、それは現在も続いている。このことについては、アメリカ人家庭教師のエリザベス・グレイ・ヴァイニング氏の影響を指摘する人もいる。天皇陛下は昨年12月には「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べた。平成の間に1人の自衛隊員も、戦争や武力紛争で犠牲にならなかったことに、何より満足しているという。

 陛下は日本のかつての敵や被害者とも心を通わせる努力をしてきた。北京、ジャカルタ、マニラからスペインまで、昭和天皇の下で生じた傷を癒すために尽力した。
「陛下は、日本の和解のための最高の特使という、天皇の新たな役割をつくり出し、地域内を何度も訪問し、償いと悔恨の意を示してきた。基本的に、過去の戦争の傷を癒そうとしてきた」とキングストン教授は指摘する。


天皇陛下と皇后陛下は1959年にご成婚された
 1990年代には、それはあまり議論にはならなかった。国内の政治家は陛下を支え、1992年には歴史的な中国訪問を実現させた。だが、陛下が年齢を重ねるにつれ、日本の政治は急激に右傾化した。

 かつての「謝罪外交」は、平和主義とともに支持されなくなった。安倍晋三首相は、日本の平和憲法を改めると宣言している。安倍氏や右派の人々は愛国的な教育を復活させ、彼らの言う戦後の「自虐史観」を消し去りたいと考えている。


天皇・皇后両陛下が見守る中、戦没者追悼の式典の壇上に立つ安倍晋三首相(2014年) (副島隆彦注記。この写真で、天皇、皇后が、安倍首相を、厳しく睨(にら)み付けていることがわかる。もっと、そのことがはっきり写っている同じ写真もある。BBCは、それをわざと避けた)

 目立たないように、しかし強い意志をもって、陛下は繰り返し歴史修正主義者たちに対する軽蔑心を表してきた。2015年、戦後70年の節目で、安倍氏は談話を発表した。「安倍氏は基本的に、日本がいま享受している平和と繁栄は、300万人の戦死者のおかげだと述べた」とキングストン教授は言う。

「翌日、陛下はそれを否定した。陛下は日本がいま享受している繁栄は、国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識によるものだと、お言葉で述べた」

テレビ中継を見ていた何百万人もの日本人にとって、それは疑いようのない批判だった。東京で開かれた園遊会では、右派の東京都の教育委員会委員が、国歌を斉唱するときには全教員を起立させると陛下に誇らしげに伝えた。

陛下は静かに、だがきっぱりとこう言って、その委員を諭した。「強制になるということではないことが望ましい」

長い別れ
 在位期間を通し、陛下は最も大切な伴侶で助言者の美智子皇后と一心同体だった。一般家庭の出身の皇后陛下にとって、時に宮中での暮らしは極めて大変だった。1993年には、皇后陛下は精神的疲労から倒れ、2カ月間、言葉が出なくなった。


皇后陛下
 皇后陛下は最近、天皇陛下の決意に対する畏敬の念を文章で表している。「振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました」

 しかし、ここしばらく、天皇陛下の健康状態は衰えつつある。がんを患い、心臓のバイパス手術も受けた。陛下に近い人は、陛下が健康悪化によって動けなくなり、公務を果たせなくなることを一段と心配していたと述べる。2009年ごろから、陛下は皇太子さまへの皇位継承が認められるよう静かに世論に訴え始めた。これは決して簡単なことではない。

戦後制定された憲法では、天皇は「終身」その地位にあると明確にしている。そのため、政治家たちは陛下の願いを無視してきたと、原武史放送大学教授は説明する。

「9年間にわたって、政府は陛下のお気持ちにまったく同調しなかった。退位したいという陛下の希望を受け入れたら、天皇が重要な決定権限をもつことになってしまい、それは憲法違反だと考えたからだ」


5月1日に新天皇に即位する皇太子さまと雅子さまご夫妻
 これは、まさに日本独特の難問だ。原教授によると、焦燥感を募らせた陛下と宮内庁は、ある計画を編み出した。「陛下と宮内庁はどんどん我慢できなくなっていった。そこで、宮内庁の職員がNHKに情報を流し、NHKが陛下の希望を報じた」 NHKにとってそれは大スクープとなり、こう着していた局面が打開された。1カ月後、陛下は再びテレビ放送されたビデオメッセージを通して国民に直接語りかけ、退位して皇位を皇太子さまに引き継ぎたい意向を示唆した。

 世論調査の結果は、大多数の日本国民が陛下の意向を支持していることを示した。安倍首相と保守層は従うしかなかった。それから2年の年月を要したが、陛下はついに退位の日を迎えた。5月1日、皇太子さまが新天皇に即位し、時代は「令和」に変わる。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦 拝