[2335]この夏、京都で。

片岡 裕晴 投稿日:2018/08/14 09:20

【京都駅・ミラーと風穴】

東京から遊びに来る友人を車で京都駅に迎えに行くような時、烏丸通を南下して京都駅に向かいます。烏丸通りが東本願寺に差し掛かるとあたかも、お東さんの権威を示すように烏丸通りは(お東さんに遠慮するように)カーブして東に約50メートルほどずれます。
東本願寺を過ぎると通りはまたカーブして西にずれ、元の位置に戻る。
すると突然、正面に京都駅ビルのファサードが現れる。京都駅の壁面はミラーガラスで出来ていて、ここに京都タワーが映り込むように設計されている。京都タワー(山田守設計 1964年竣工)も京都駅ビル(原広司設計 1997年竣工)もその建設が決まると、一大反対運動が起こり(京都の伝統が壊されるとか・・・)、それぞれ何十万人もの建設反対署名が集められたはずですが、今ではすっかり京都の風景となり、親しまれています。
さらに、烏丸通のちょうど正面にあたる部分には巾15メートル位の縦長の開口部があり私は勝手に「風穴」と呼んでいます。この「風穴」を透かして駅の南側の空が見えます。これは建築学的にも、おそらくは風水の思想にも叶った設計で、特に車で京都駅に向かって南下する人は、もしここに「風穴」がないと本当に鬱陶しい建物と感じてしまいます。
私は京都駅のミラーに映る駅の北側の風景(京都タワーの虚像)と「風穴」を透かして見える駅の南側の空気が同時に見えるという演出(建築のポストモダン的装飾と言いたい)がとても気に入っています。
恐らく設計者は、車で烏丸通を南下して京都駅に向かう人に駅ビルがどのように見えるかを十分に計算している。

京都タワーが竣工した年は東京オリンピックが行われた同じ年、1964年です。(オリンピックは10月10日から10月24日まで開催。一方、タワーデパートは10月1日に開業したが、タワーの営業開始は12月28日となった)
またこの年、東海道新幹線が10月1日に開通している。京都駅を通過する新幹線の車体ともよくマッチしたデザインと構造(モノコック構造)であり、東京タワーのような鉄骨を用いたトラス構造ではなく、応力外皮構造が採用され、この方式で建てられたタワーとしては当時も今も世界一の高さの建物である。応力外皮構造(モノコック構造)とはエビやカニのように外皮が構造物を支えている構造をいう。

ここで、注目すべきことはオリンピックに合わせて色々なものが作られたが、新幹線をはじめとして、このころから世界一と言えるものが、日本で作られる様になったことです。
というのも、私の小中学校時代(1953年~1962年)に授業やホームルームでの担任の先生の話、そして校外学習で見学に行った時、バスガイドさんの説明や大工場のベルトコンベアの前で話をしてくれた工場長さんの説明。それらには必ず共通の言葉が挿入されていた。「このダムは東洋一の規模のダムです」「この煙突は東洋一の高さです」「東洋一長い橋」「東洋一速い汽車」「東洋一大きな港」私たち生徒は少なからず誇らしい気持ちになって、「日本はすごいなぁー」という感想をもって聞いていた。しかし、ちょっと考えてみれば分かることだが、「東洋一の○○」とは「世界一ではない」ということだ。
世界一は白人たちの国、欧米にある。だから、日本は二流国であり、白人には叶わないのだと言う言外の意味があり、巧妙に潜在意識の中に埋め込まれた古い皮質が私たちの中にあることを知らなければならない。広い意味での洗脳と言っていい。
低学年のころ、若い女の先生が担任で、「日本は東洋のスイスになります」と言う話をよく聞かされた。ここでも「東洋の」という言葉が使われていて、理想とするものは西洋にある、という洗脳が行われていることに気付くべきだろう。今思い出して考えてみると、この先生が自分で勉強してそういう結論に達したわけではなく、学習指導要領か教育委員会の指導の下に生徒たちに話したに過ぎないと思うし、おそらくこの先生はスイスが国民皆兵の国で徴兵制度があることなど知らなかっただろうと思う。これも日本を永久に武装解除しようとしたころのマッカーサーが言ったことだろうが、当のマッカーサーはとっくに罷免されたのに、どういう経過(あるいは日教組経由かも知れない)で10年も経ってからこういう話が出てくるのかと不思議だが、そのアメリカはこの頃(1955)にはもう日本の再軍備を目指していたのに。でも生徒たちはアルプスの牧場の少女と羊の美しいイメージと共に平和な国スイスと刷り込まれたし、アンケートでも取れば好きな国の一番はスイスだったろう。

【門川はん、いけずやわぁ】

今出川通と東大路通の交差点、すなわち百万遍の交差点の南東角は京都大学のキャンパスの石垣があり、ここはちょうど立て看板を立て掛けて置くのに都合のいい場所で、もう半世紀以上に亘って立て看板が立ち、京都の風景の一部となっていました。
七月の中頃、ここを車で通った時、立て看が一枚も無かったので、何か風景が物足りなかった。つい一週間前にはここに「門川はん、いけずやわぁ」という立て看が立っているのを見たのだが・・・。
「門川はん」とはあの和服の市長の門川大作京都市長のことであり、「いけず」というのは昨年秋だかに、京都市景観条例が出来、立て看撤去の法的根拠を作り、この春ごろから、京大に対して立て看を撤去するように圧力を掛けている、その「意地悪」を批判したものである。「シン・ゴリラ」なる立て看もあったが、これは京大の山極総長がゴリラ研究の第一人者であることを絡めて、揶揄(からか)ったものだろう。そして、大学当局が遂に立て看を撤去すると、翌日にはまた新しい立て看が出来るというイタチゴッコを繰り返している。
アフリカでゴリラと仲が良かった山極さんも、学生の気持ちは分かるとしながらも、大学総長という立場上、「男はつらいよ。ゴリラはいいなぁ」と思っているだろう。
1960年代の最盛期には、石垣に立てかける場所が無くなり、石垣の上に二段重ね、三段重ねで立て看が林立していた。
あの独特の文字で「自己否定」「大学解体」「日帝粉砕」という文字が躍っていた立派な立て看。立て看が無くなるのは寂しいと思っている京都市民は本当は多い。

「立て看がアカンのやったらタテタタミならええやろ」と下宿からタタミ一畳を持ち出した奴がいて、石垣に立て掛けて置いたところ、夜中にタタミが放火されるという事件が起き、これは大学当局がわざとやった放火だと噂され、翌日には新しいタタミが一枚持ち出され、それには「燃料②」と大書されていた。
さらに、立て看がダメなら、立て缶ならいいよねと、コーヒーやジュースの空き缶を200本位縦に並べベニヤ板に貼り付けたのを置いたり、七夕の頃には立て短冊なら許してねとベニヤ板の短冊に「造反有理」などと書いて、樹木に吊るすという様な抵抗を学生たちは続けている。
あんなに堂々と立派に威張って自己主張していた立て看が権力に押し潰されそうになって、生き残るためにメタモルフォーゼ(変態)して短冊になってしまった。
お前、こんなに貶められて、縮小しちゃって、「造反有理」と叫び続ける元気がまだあるのか。 ・・・・・偉い。

一か月ほど前には京都造形大学のカフェに京大の立て看を展示し、トークショーを開くなどのタテカンフェスが行われ、立て看もアート化という新局面に。さらに七月末には「立て看文化を守れ」デモが京都の街中で行われ、警察官を沢山護衛に従えてデモ隊が練り歩いたりしている。

立て看を見ていると、もう50年も経ったんだという深い感慨が湧いてくる。一体あの大学闘争は何だったのかという問いが浮かぶ。

50年前の1968年春、パリで起きた学生労働者たちの「禁止することを禁止する」というスローガンを掲げた反体制運動「5月革命」をきっかけに、世界中の多くの大学で学生たちの反乱が起きた。
アメリカのコロンビア大学の闘争では学生が記録したクロニクルをもとに1970年に映画化され『いちご白書』として公開された。
日本でもほとんどの大学でバリケードが出来た。当初は大学の学費値上げ反対闘争や学生食堂の運営権など身近な問題がきっかけであり、多くの一般学生が参加して、大学当局との大衆団交が行われ、それなりの成果も得られた。
しかし、この運動の本当の意味はこんなところにあったわけではなく、全共闘運動の歴史的意味は正しく評価されないまま混乱と困惑の中で失われてしまった。それはバリケード封鎖が長引き、新左翼学生の行動が過激化し、ついには殺人事件が起こるようになり、一般学生の支持を失い、自滅的に収斂していく中でその意味さえ蒸発してしまった感じだった。

多くの一般学生はそれほど政治的関心が高いわけではなくノンポリ学生であり、かつ心情左派と呼ばれていた。共産党系の民青は一般学生の間では全く人気がなく、新左翼の学生には共感を持っていた。そして、有名な企業に就職して、幸せな家庭を築くというような平凡な夢は小市民的幸せを求める奴ということで軽蔑の対象でさえあった。
では、この運動は何だったのか。それは自分の「加害者性に気づけ」という運動だったように思う。個々の学生は自分の思索の深さの程度に応じて、このことを理解し(理解しなくても)若者の鋭い感性で新左翼の主張に共鳴していた。

当時の学生たちの親世代は、太平洋戦争で酷い目にあい、空襲や敗戦後の新円の切り替えで財産のほとんどを失った戦争の被害者であったが、朝鮮戦争やベトナム戦争の特需で、少しづつ豊かになり、いま自分たちは親の仕送りで曲がりなりにも大学生活を送っている。しかし、それは戦争で犠牲になった人の死の上に築かれた幸せではないのか。喫茶店で議論しながら飲むコーヒーは第三世界の人々の不正に強いられた労働で搾取された結果ではないのかという問いであり、自分たちはそのような権力者の側に付くことを拒否する運動であった。そしてそれは「自己否定」という言葉に結晶する。自己とはモダンの思想を受け入れている自分自身のことであり、若者たちはポストモダンを模索していたのではなかったか。

しかし、ポストモダンの思想に行きつく前に、運動は自滅し、「全共闘世代」に属する人々に大きな影響を残したにも関わらず、不燃焼のまま終わってしまったのだろうか。

時代はすでに70年代の高度経済成長期に入っていた。私の子供の頃(1950年代)には、周りの大人たちの日常会話の中に、「ヤンキー・ゴー・ホーム」という言葉が普通に飛び交っていた。経済的に豊かになるにしたがって、こんなことを言う人は(沖縄の人々を除いて)もういなくなった。
経済成長に浮かれた世の中に説得されて(母親に泣き付かれたりして・・・)大人の選択をしてしまった(あんなに軽蔑していた小市民的幸せを選択してしまった)苦い経験を、忸怩(じくじ)たる思いを、うまく纏めて荒井由実は『いちご白書をもう一度』(1975年)というこの時代を象徴する曲を発表した。
どんな解説を読むよりも大学闘争の顛末を見事に伝えるこの曲は全共闘世代の気持ちをたちまち掴みヒットした。
この歌詞の中の『いちご白書』とはもちろん一義的には映画『いちご白書』のことを言っているが、本当は大学闘争で追及したことの本質を意味していると理解するべきだろう。

2018年8月14日投稿