[2328]『福沢諭吉 フリーメイソン論』は歴史捜査手法による完璧な論証である
『福沢諭吉 フリーメイソン論』を読み耽りました。
石井利明研究員が長くこの論文に腐心していたことは良くわかっています。断片的な話は本人からも聞いてはいました。
本書は「ユニテリアン≒フリーメイソン」を柱にして、幕末の中津藩の下士の家に生まれたとき(1835)から永眠(1901)までの諭吉の全生涯を、読みやすく、遺した書や記録を大胆に推測した”ブレのない”見事に人物伝である。
一日で読了し、今日も読み返しました。
いちばん驚いたのは人脈関係を網羅し、諭吉が秘匿したかった人脈まではっきりと断定していることです。思想で分類整理することはとても難儀な作業です。
読み進めるうちに明智憲三郎氏(本能寺の変 431年目の真実 (2013年)の著者)が唱える『歴史捜査』手法とよく似ているなと感じました。
人目に晒されることを意識した文章や記録からでは真相はわからないとして、実行動から動機とその背後を探る思考法です。
諭吉は窮理学(きゅうりがく:物理)に精通し、アイザック・ニュートン「プリンキピア」の日本語版を出版したことでも知られています。それは蘭学で出世した父の影響であったし、その師帆足万里(ほあしばんり:表向きは儒学者だが蘭学者)だった。こんなことも初めて知りました。
大坂の留守居役(諸藩や幕府との交渉や連絡をする藩の代表)にまで上り詰めた父、百助は切腹させられた!という笠原和夫(仁義なきシリーズを描いた脚本家)の解釈も衝撃です。蛮社の獄(1839)の3年前で、蘭癖大名への監視が強くなった頃とつじつまが合います。
門閥制度は親の敵だと言い放つ諭吉の執念は不条理な父の死(殺害)からだったのか。
当時の蘭学者がいかに迫害されていたかは「崋山・長英論集」(岩波文庫 1978年)で当時の蘭学者たちの実態がよくわかります。
渡辺崋山は三河の田原藩の重臣であり、西洋画風を取り入れた絵師でもあり、高野長英は町医者です。この二人は蘭学という共通の対象で師弟関係というかスポンサーと研究者(学者)といった関係です。
そこでは1838(天保九)年三月、江戸参府に来たオランダ商館長ニーマンとの対談の模様を記した渡辺崋山の「鴃舌小記・鴃舌或問」で「実学」という言葉を使っているだけです。
他では慎重に蘭学を「蛮学」と記しています。 実学という言葉は儒学者を馬鹿にした蘭学者同志の隠語だったのです。
この隠語を蛮社の獄のあとに堂々と実学を熊本藩内で使い始めたのが横井小楠です。
(蛇足おわり)
以降緒方洪庵の適塾時代、長崎の通詞の人脈、そしてフリーメーソンにつながる人脈による世界情勢を知り、さらに大胆にドイツ連邦成立(1815)をモデルとした諸藩公儀制を諭吉も考えていたことを深く理解できました。
英国高教会(ハイ・チャーチ:大英帝国のエスタブリッシュメントのための教会)の宣教師A.C・ショーと諭吉のきわどい関係も石井氏は鋭く解説している。巷で言われるような先進国から厚遇で迎え入れた家庭教師役などという単純な話ではない。
なんせ当時英国は日本同様、きびしい階級社会だ。その固定され集中された権力への対抗軸はユニテリアン(≒フリーメイソン)しかなかったんだよなあ。諭吉がいかに深謀遠慮であったかを本当によく理解できた。
それではアメリカからのユニテリアンは日本に根付かなかったのか!?
定例講演会でも石井氏が最後に解説されてましたが、ユダヤ思想の蔓延でアメリカ建国の原動力であったユニテリアン勢力が衰退してしまったから・・・ああ悲しい
本来であれば諭吉と中津藩・適塾らの同志達が設立した慶應義塾大学がユニテリアン(≒フリーメイソン)の啓蒙思想を体現させる教育機関であって欲しいのですが、新自由主義経済推進者である竹中平蔵が名誉教授ですから何も期待はできません。
米国ユニテリアンにより創立された同志社大学も政治力があるとも思えない。関西圏での人気は近畿大学です。
プロテスタントによる国際基督教大学が強くなっている感がありますが、キリスト教系大学は副島先生がそのうち解説してくれるでしょう。
最後に高杉晋作を長州藩が斬首刑としようとしていたという証拠が見つかったという新聞記事を掲載しておきます。
英国が育てたテロリストとして働き、病没後は伊藤博文ら長州ファイブらに引き継がれていった。攘夷派たちの怪しさは長州藩上層部もうすうす(そら恐ろしく)感じていたということでしょう。
『福沢諭吉 フリーメイソン論』は幕末明治を正確に、それも手っ取り早く理解できる力作であると、私からも強力に推奨いたします。