[2316]「言論(表現)の自由」を履き違える日本のマスコミ
ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に基づいて、日本のマスコミ報道を批判する。「個人の自由の不可侵性、言論の自由の重要さ、政府(権力)の干渉の許容範囲」を明らかにした古典的名著『自由論』は、明治4年に中村正直訳『自由之理』で刊行され、自由民権運動の柱となって日本の社会に貢献している。その内容は、「他者に危害を与えない限り、個人の行動の自由は保障されるべきであり、それ以上の干渉を加えるのは国家の越権行為として慎まなければならない。」という現在では常識となった主張である。
ところで民主化された社会(国民の自由選挙によって選出される民主政体)の権力者は、メディアの動向によって右往左往する多数派を占める「国民自身」であるという主張に少し戸惑いを覚えるのは、日本のマスコミによって造られる権力者のイメージが、国家権力や政府の特権官僚になっているからである。ミルの“民主政体では、大臣を任命し国会を解散する権力を行使できる権力者は内閣総理大臣であるが、党の総裁としての次の選挙に勝つ「多数派の票」を得る事が全ての行動原理にある”というロジックを理解すると、報道内容で国民を無意識に誘導している日本のマスコミが「闇の権力者」という事実が浮かび上がる。
「言論の自由」が人類社会を進化させる原動力である事を100%理解した上で、マスコミ批判をしなければならない。なぜ、大桃珠生さん(女子児童殺人事件)の報道で氏名や写真を掲載しなければならないのか(匿名性を順守すべきである)。一方、福田淳一事務次官を退職まで追い込んだ女性記者をなぜ匿名性で扱うのか(実名と写真を公開すべきである)。「権力の乱用」を監視することは日本社会を健全にする大切な報道機関の役割である。しかし、痴漢や盗撮等の行為を伴うセクハラ問題は刑法で処罰されるが、隠し撮りされた録音行為(不正行為、録音する場合許諾が必要)の発言でセクハラの罪で辞任に追い込むのはいかがなものか。組織内の上下関係を利用したセクハラに問題があるのは、組織内の力学(強制力)が働いているからである。しかし、記者と役人の関係は商取引のような自由な関係に等しいと私は考える。対等な自由な関係における会話中の発言が、隠し撮りの録音物による「セクハラ」の証拠となって退職に追い込むのは、「言葉狩り」と同じ行為であり、「言論の自由」を拘束している。権力者(特権官僚)の発言が、社会に損害を与える場合は、自由の領域の問題ではなく道徳や法の領域であるが…。そして今回の発言は、道徳(品位、教養)の問題であって、法の領域ではないので処罰の対象にしてはいけない。
財務省の不祥事としてセクハラを認めた財務省の対応にも問題があるが…。私は「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」と同じ匂いを嗅いでいる。福田淳一氏を財務省から外すことで、裏取引が行われたのか、麻生財務大臣を失脚させる為の犠牲者なのか分からない。このままだと大衆の権力者への嫉妬心は、いずれマスコミの「闇の権力者」へ向かうだろう。日本のマスコミが健全になるには、官僚機構だけでなくマスコミこそ公平に情報公開しなければならない。匿名記事をなくし、堂々と個人名や写真を記載して自由に意見を公表すべきである。主権者である国民が、優れた才能と教養をもつひとりか少数の人物の助言と影響に従って判断する時、健全な社会が形成される。