[2301]NHKをめぐる若干の考察(2)

片岡裕晴 投稿日:2018/04/07 16:53

車を運転していて、NHKのラジオ放送を聞いていると、番組の途中でニュース速報が入り、せっかく楽しく聞いていた番組が途中で中断されることがよくある。
その番組が、時の人へのインタビューであったり、著名な識者の興味深い話の途中であったりしたら、まったく腹立たしく思う。しかもそのニュース速報はほんの取るに足らないような地震速報であったり、交通情報であったりする。

私は滋賀県に住んでいるのだが、例えば、「・・・・震源地は和歌山市の西方20キロメートルの海底で、各地の震度は、震度2が和歌山市、震度1は・・・・。この地震による津波の恐れはありません」とか、「ここで大阪から交通情報をお伝えします。・・・・・送電線のトラブルで不通になっていた南海電車の運行は先ほど・・・・復旧し運転が再開されました」などほとんど緊急性もなく、縁もゆかりもない土地の情報を(恐らくは関西の2府4県で)聞かされることになっている。

これは、2011年の東日本大震災以降、頻繁に行われるようになり、当時は本当に異常さを感じた。今でも違和感と腹立たしさは感じるが、だんだん馴らされてきているのかも知れない。

通常の番組のディレクションとは全く別のしかも最高に強力なディレクションを行う権限のある上部組織がNHKの中に置かれていて、そこの判断によって、通常の番組に割り込む形でニュース速報を流しているのだろう。
だから、国会中継も意図的に中断することが出来るのだ。

しかし、このような些細なニュースを流す意味はニュース自体にはほとんど存在しないから、あるとすれば別の意図が存在するのだろう。(異常な事態を常態にする為?)
異常を普通のことと感じさせる為に、国民を慣らしてしまおうという意図が感じられる。

また、2012年以降の国政レベルの選挙における開票速報も異常である。
投票締め切りの午後八時を過ぎて、開票速報の特別番組が始まると途端に流される自民党圧勝のニュース。当確の速報。NHKの出口調査に基づくという。

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広々とした緑の草原に散らばって草を食(は)んでいる平和な羊たちの周りを、牧羊犬が走り回り、時には吠えて、何千頭もの羊を駆り立てて見事に一か所に集めてしまう。そんな光景が目に浮かんで来る。

【後ろめたさと世間体を逆手に取り脅迫するNHKの集金人】

受信料に関するNHKの公式なコメントは次のようなものである。

「放送法第64条で『NHKの放送を受信できる受信設備を設置した者は、NHKと受信契約をしなければならない』と定めています。したがって、テレビをお備えであればNHKを見る見ないにかかわらず、受信料をお支払いいただくことになります」とNHKは主張している。

しかし、この主張は半分しか正しくない。つまり、真実の中に真実でないことを巧みに潜り込ませて、相手をだましてしまう、典型的な詐欺師の手口と同じなのだ。

その上、更に問題なのは集金、契約業務を下請け業者に丸投げし、夜遅く戸別訪問をし、大声を出し、ドアを叩いたり、蹴ったりするという悪質、卑劣なことをしている。

その際、彼らは法律を前面に持ち出し、「法律違反は恥ずかしいことです。電波をただで使うのは犯罪です」というようなことを大声で、隣近所にわざと聞こえるように叫ぶ。さらに、「払わなければ、裁判に訴えるぞ」と脅す。(地方から上京してきたばかりの一人暮らしの若い女性のマンションに夜遅くこのようなNHKの集金人が来た時の恐怖や恥ずかしさを想像してください)

人に「後ろめたさ」を感じさせ、「脅迫し」、「世間体を保つ為に」やむなく契約させるためのあざとい手口なのだ。

小説『1Q84』の中で、女主人公の青豆が隠れているマンションの部屋に、NHK集金人が戸別訪問してきて、実にイヤらしく、ねちっこく語る口上(こうじょう)が、素晴らしい描写力で真にせまるリアルな筆致で描かれています。

Book3の95ページから一部を省略して引用します。ゆっくり鑑賞してみましょう。

(引用はじめ)

ドアベルは十回は鳴っただろう。セールスの人間にしては執拗(しつよう)すぎる。彼らはせいぜい三度しかベルを鳴らさない。青豆が沈黙を守っていると、相手は拳でドアをたたき始める。それほど大きな音ではない。しかしそこには硬い苛立ちと怒りが込められている。「高井さん」、中年の男の太い声だ。僅かにしゃがれている。「高井さん、こんにちは。出ていただけませんか」
高井というのは、部屋の郵便受けに出してある偽名だ。
「高井さん、お邪魔でしょうが、出ていただきたいんです。お願いしますよ」
男は少し間を置いて反応をうかがう。返事がないとわかると、再びドアをたたき始める。前よりも少し強く。
「高井さん、中におられることはわかっております。だからややこしいことは抜きでドアを開けて下さいな。あなたはそこにいるし、この声が聞こえている」・・・・・・
・・・・・・ようやくノックが止み、男の声が再び廊下に響く。
「高井さん、わたくしNHKの受信料をいただきに参りました。そうです。みなさまのエネーチケーです。あなたが中にいらっしゃることはわかっております。どれだけ息をひそめていても、それはわかるのです。長年この仕事をしておりますから、本当にお留守なのか、居留守を決め込んでいるのか、見分けられるようになります。どれほど音を立てないように努めても、人間には気配というものがあります。人は呼吸をしますし、心臓は動いていますし、胃は消化を続けています。高井さん、あなたは今現在部屋の中におられる。そしてわたくしがあきらめてひきあげるのを待っておられる。ドアを開けるつもりも、返事をするつもりもない。なぜならば受信料を払いたくないからです」
男は必要以上に大きな声を出している。その声はマンションの廊下に響き渡る。それが男の意図していることなのだ。大声で相手の名前を呼び、嘲り、恥ずかしい思いをさせる。そしてそれを近隣の人々への見せしめにする。もちろん青豆は沈黙を守り続ける。相手にすることはない。・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・しかし男は青豆の部屋の前で演説を一席ぶつことに決めたようだ。
「高井さん、かくれんぼはもうよしましょう。こちらも好きでこんなことをやってるんじゃありません。わたくしだってこれでけっこう忙しいのです。高井さん、あなたはテレビを見ておられるでしょう。そしてテレビを見ている人は誰しも、エネーチケーの受信料を払わねばなりません。お気に召さないかもしれませんが、法律でそのようにきまっております。受信料を払わないのは、泥棒窃盗をしているのと同じなのです。高井さん、あなただってこれしきのことでドロボー扱いされたくないでしょう。こんな立派な新築マンションにお住まいなのだから、テレビの受信料くらい払えなくないはずです。そうですよね?このようなことをみんなの前で大声で言い立てられて、あなただって面白くありませんでしょう」・・・・・・・「高井さん、しつこく繰り返すようですが、わたくしにはわかっておるんです。あなたが部屋の中にいて、じっと耳を澄ませておられることが。そしてこう思っておられる。なぜよりによって自分の部屋の前でいつまでも騒ぎ立てるのだろうと。どうしてでしょうね、高井さん。たぶんわたくしが居留守というものをあまり好きではないからです。居留守というのはいかにも姑息ではありませんか。ドアを開け、エネーチケーの受信料なんか払いたくないと、面と向かって言えばいいではありませんか。すっきりしますよ。わたくしだってむしろその方がすっきりします。そこには少なくとも話し合いの余地があります。ところが居留守というのはいけません。けちなネズミみたいに奥の暗い所に隠れている。人がいなくなったらこそこそ出てくる。つまらない生き方だ」・・・・・・・どこでもいい、どこかの部屋の前で派手に騒ぎ立てて、まわりの住民を威嚇することがこの男の本当の目的なのだ。自分の部屋の前でそんなことをされるくらいなら、受信料を払ってしまった方がましだと、人々に思わせようとしている。この男はおそらく方々で同じようなことをして、それなりの成果を収めてきたのだろう。
「高井さん、わたくしのことを不快に思っておられるでしょう。考えておられることはそれこそ手に取るようにわかります。はい、わたくしはたしかに不快な人間です。それは本人もわかっております。しかしです、高井さん、感じのいい人間には集金なんぞできません。どうしてかと言いますと、世間にはエネーチケーの受信料を払うまいと心を決めた方々がたくさんおられるからです。そういうところからお金をいただこうとすると、なかなかそういつも感じ良くはしていられません。わたくしにしても、『そうですか、エネーチケーの受信料なんか払いたくないと。よくわかりました。どうもお邪魔しました』と言って、気持ちよく立ち去ってしまえればと思います。しかしそうはいかんのです。受信料を集めるのがわたくしの職務でありますし、またわたくしは個人的に、居留守というものがどうしても好きになれんのです」
男はそこで口をつぐみ、間を置く。それからノックの音が十回続けて響きわたる。
「高井さん、そろそろ不快な気持ちになったのではありませんか。自分が本物の泥棒のように思えてきたのではありませんか。よくよく考えてみてください。我々が問題にしているのは、そんな大した額のお金ではありません。そのへんのファミリー・レストランで食べるつつましい夕食一回分程度のものです。それだけ払ってしまえば、泥棒扱いされることもありません。大声で偉そうなことを言われ、しつこくドアを叩かれることもありません。高井さん、あなたがこのドアの奥に身を潜めておられることはわかっております。あなたはいつまでもそこに隠れて、逃げおおせられると考えておられる。いいですよ、隠れていらっしゃい。しかしどれほどこっそり息を潜めていても、そのうちに誰かが必ずあなたを見つけ出します。ずるいことはいつまでも続けられません。考えてもごらんなさい。あなたよりも遥かに貧しい暮らしをしている人たちが、日本国中で毎月誠実に受信料を払っておられます。それは公正なことではありません」
ドアが十五回ノックされる。青豆はその回数を数えている。
「わかりました、高井さん。あなたもかなり頑固な方のようだ。けっこうです。今日のところは引き上げましょう。わたくしもあなただけにいつまでもかかわっているわけにもいかない。でもまたうかがいますよ、高井さん。わたくしは一度こうと決めたら、簡単にはあきらめん性格です。居留守も好きではありません。またうかがいます。そしてまたこのドアをノックします。世界中がこの音を聞きつけるまで叩き続けます。約束します。あなたとわたくしとのあいだの約束です。よろしいですね?それではまた近々お会いしましょう」
足音は聞こえなかった。たぶんゴム底の靴を履いているのだろう。

(引用おわり)

放送法は昭和25年6月1日(1950年)に施行された。第二次大戦に敗戦し、日本がアメリカ軍の占領下にあった時期である。

三週間後に朝鮮戦争が勃発する。マッカーサーがトルーマン大統領によって連合軍最高司令官を罷免され日本を去るのは翌年の4月である。二年後(1952年)の4月サンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本は形式的に独立する。

朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)をきっかけとして、日本経済の目覚ましい復興が始まる。

繊維業界では戦後の衣料品不足に加え、朝鮮戦争による特需が起こり、ガチャマン景気(機織り機がガチャっと動くと一万円儲かるほどの好景気)といわれたし、あらゆる業界の景気が良くなった。
当時、私の父は繊維業界に関係していたので、糸を巻き取る木製のスピンドルの様々な見本を沢山持って帰ってきてくれ、子供たちはそれをオモチャにして遊んでいた。

このような時代の状況を背景に、最も手軽な娯楽としてラジオが広く一般の家庭に普及していった時期でもあった。

私が5歳のころ、父が米軍払い下げのポータブルラジオを買ってきた。樹脂製のワインレッドの角が丸みを持った小型ラジオで、家にあった木製の筐体(きょうたい)のラジオと全く違う色と形をして、別の世界から来たもののように感じた。

そして、確か日曜日の朝10時ぐらいから『立体放送の時間』というNHKの番組があり、父は箪笥の上に置いていた古いラジオの隣に、このポータブルラジオを少し離して並べて置き、一つをNHK第一に、もう一つをNHK第二に合わせて、立体音響でクラシック音楽を楽しんでいた。(まだFM放送はなくNHK第一と第二を使ってステレオ放送でクラシック音楽を流していた)
こういう風にすると音楽が立体的に聞こえると説明してくれたが、五歳の私には何のことかさっぱり分らなかった。

まだステレオという言葉もなく、レコードはSP(standard playing78回転)の時代でLPレコード(long playing 33 1/3回転)はまだ日本では発売されていなかった。

話を戻すと、この放送法の成立過程ではマッカーサー麾下(きか)のニューディーラーたちの意向が強く働き、ある意味でNHKは理想の公共放送を目指した時期でもあったと私は推測する。

受信料を徴収するために、多くの集金人が募集され、この人たちは非常に真面目に根気よく公共放送の意義を広める伝道者としての役割も果たしたと思われる。

娯楽を求めていた国民はある程度「同意」した上で、受信料を払っていた人が多い。

【受信契約義務はあるが受信料の支払い義務はない】(放送法さえ守らないNHK)

繰り返しになるが、NHKはこう主張する。
「放送法第64条で『NHKの放送を受信できる受信設備を設置した者は、NHKと受信契約をしなければならない』と定めています。したがって、テレビをお備えであればNHKを見る見ないにかかわらず、受信料をお支払いいただくことになります」

放送法の解釈としては、このNHKの主張の前半は正しいが、後半は正しくない。放送法のどの条項にも受信料支払いの義務は書かれておらず、また支払わなかったとしても罰則があるわけでもない。

もう一度繰り返すが、放送法ではNHKとの契約は義務としているものの、受信料の支払いについては規定されていない。当然のことながら、受信料を支払わなかったとしても罰則は一切ない。

つまり、「受信契約義務」と「受信料の支払い義務」は全く別物であるのに、一体であるかの如く主張するNHKは『放送法』にさえ違反したことを主張しているだけでなく、法律よりも上位にある憲法に保証された「契約の自由」や「思想信条の自由」にも抵触する疑義(疑い)がある。

さらに、放送法では「放送の不偏不党、真実および自律を保障」(1条2項)や「政治的に公平であること」「報道は真実を曲げないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」(4条の2)が定められているが、NHKの報道は明らかにこれらの条文に違反している。

つまり、NHKのは受信料の支払い義務については放送法を偽り、詐欺的口上で主張する一方、放送法に定められた義務については一切無視をしている。

これでは、ろくでもない記事を満載した雑誌を(頼みもしないのに)毎月送りつけてきて、購読料を請求し、支払いを拒否すると暴力団が押しかけてきて脅迫するのと同じではないか。

テレビを勝手に見て、電波を盗んでいるというのなら、盗まれたくないなら、スクランブルというカギをかけて受信料を払った人だけが見れるようにすればいいだけのことだ。

ところが、このスクランブル方式に一番賛成しないのは、当のNHKなのだ。

なぜなら、スクランブルにすると受信契約をする人が激減し、NHKの収入も激減することは確実である。私の感覚では今現在スクランブル方式をすれば、国民の3~4割しかスクランブル契約をしないだろう。
そして、その数は今後、高齢者がどんどん消えていくことから、年々少なくなることも確実だろう。

戦後、放送法が出来た当初、公共放送の理想に燃えスタートしたNHK。良い番組を沢山作り、かつては国民の求心力の要(かなめ)として、重要な位置にいたNHK。

それが、今や国民にとって危険な存在に成り下がっている。NHKの放送する番組の内容からも、NHK職員の犯罪の多さからも、NHKの受信料の徴収の現場の実情からもそれらのことはいくらでも指摘できる。

さらに、さらに言うならば、NHKの主張は人類が過去の歴史において獲得してきた諸原理原則を、ないがしろにしている。

18世紀のアメリカ独立戦争のスローガン「代表なければ課税なし」と同じで、「発言権なければ受信料支払いの義務なし」と主張できるのだ。

この投稿の冒頭紹介した事例のように放送のディレクションや報道の内容に不満があっても、それを変えさせる手段がわれわれ国民にはないのだ。

13世紀、英国のマグナ・カルタにおける「同意なしには課税できない」という原則。

NHKを視聴しない人、NHKを視聴したくない人、NHKなんかそもそも必要と考えない人に対して、NHKは契約締結と受信料の支払いを拒否する権利を認めなければならない。当たり前のことではないか。

平成30年4月7日 投稿