[2269]NHKをめぐる若干の考察

片岡裕晴 投稿日:2018/01/31 11:57

村上春樹の小説『1Q84』はBOOK1からBOOK3の三巻の作品であり、二人の主人公が登場する。第一章には青豆(あおまめ)という名前の女性の主人公が、第二章には天吾(てんご)という名前の男性主人公が登場する。以後、奇数章には女性主人公(青豆)が、偶数章には男性主人公(天吾)が登場し(BOOK1とBOOK2においては)一巻ごとに24章あり交互に12章のパートという構成になっている。

一枚の絵としてみれば、シンメトリックな構図のしっかりとした絵画作品に例えることができる。

この絵は宗教という名前の色(絵具)で下地が塗り込まれ、独特のマチエール(画肌)の上に様々なモチーフ(素材)が確かなデッサンで描かれている作品である。

読みだせば、誰もが思い当たる宗教団体やカルト集団、過激派の名前(オーム真理教、エホバの証人、ヤマギシ会、連合赤軍など)が仮名で登場する。しかしなぜかNHKだけは実名で登場することが興味深い。

女性の主人公青豆の両親は「証人会」という宗教団体の信者で彼女は三歳のころから母親に連れられて、布教のため戸別訪問のお供をさせられている。それは小学校5年の時、家出して両親と縁を切るまで続いた。

一方の天吾の父親はNHKの集金人で同じく幼少期から集金のために父親のお供をさせられて戸別訪問をする。小さな子供を連れている方が、集金がし易くなるからという理由からである。小学校5年生の時、ずいぶん考え抜いた末に、父親に向かって宣言した。もうお父さんと一緒にNHKの集金業務について回るのは嫌だと。

ここで注目すべきことは、(少なくとも普通の人には)馬鹿げた終末論を説く宗教団体やカルト集団や過激派とNHKが並列して描かれていることである。

天吾の父親は敗戦後、定職がなかった時に知人の逓信省の役人の紹介でNHKの正規集金人として採用され、公共放送としてのNHKの役割と受信料を収めることの意味を正しく説明するための講習を受け、NHKの制服を着て、与えられたノルマを我慢強くこなす優秀な集金人として描かれている。

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敗戦当時のNHKはマッカーサーが連れてきたニューディーラーたちの指導と影響を受けてある意味で理想の公共放送を目指したのではないかと私は思う。

しかし、それはあくまでも建前上であり、国民に説明する理想の公共放送とは裏腹に、結局は権力者のスピーカーであったことに間違いない。

その最も強烈な最初の事例は極東国際軍事裁判に関する放送だろう。私が一歳のころ行われた極東国際軍事裁判を当然、私は知らない。

極東国際軍事裁判(1946年5月~1947年11月)をNHKはどのように報道したのだろうか?それは実況中継されたのだろうか?それとも、ニュース速報的に逐一報道されたのだろうか?

そして、何よりもそのオープニングの曲に何が使われたのか、私は知りたいと思う。(きっと正義の神が最後の審判を下すような演出が注意深く計画されたであろう)

当時は普通の日本国民の手紙が検閲のためアメリカ軍により開封されていた時代である。(大戦中は日本軍により検閲されていた)

私の手元には昭和22年に東京にいた祖母が関西に住んでいた私の父に宛てた封書が残っているが、この封筒の下部はカッターで公然と開けられ、更に検閲済みであることを示す文字が印刷された透明テープで閉じられている。

ここから類推すれば、極東国際軍事裁判に関するNHKの放送はアメリカ軍により細部に至るまで管理されていたであろう。そして、その放送は絶対権力者であるビッグ・ブラザーの声として、この時代の日本人は聞いたであろう。

この時、日本民族の脳に刻まれたサイコロジカルな傷は癒(い)えることがあったのだろうか。

【かっては国民の求心力の要であったNHK】

敗戦のショックからようやく立ち直りかけた国民にとって、NHKのラジオ番組の音楽や笑いやスポーツが最も安価な娯楽であり、ラジオは戦前と比べようもないほど広く普及していった。だから、NHKは受信料を集めて回る現場の人間を大量に必要とした。そして、このころの集金人は真面目に公共放送NHKが国家や企業のお金で運営されるのではなく、国民から広く集めた受信料で支えられている意義を根気よく丁寧に説明して集金する人たち、いわばエバンジェリスト(伝道師)であった。

一方、国民の側もNHKのラジオ番組を楽しみにして聞いていた。青木一雄アナウンサーの「私はとんち教室の青木先生です」で始まる『とんち教室』や土曜日の夜七時半から放送されたクイズ番組『二十の扉』(アメリカのクイズ番組『Twenty Questions』がモデル)は圧倒的に人気があった。『話の泉』『私は誰でしょう』などの夜の番組。

そして、何と言っても多くの国民にとって忘れられないのは昭和27年(1952)~昭和29年(1954)放送された、菊田一夫の名作連続ラジオドラマ『君の名は』だろう。真知子と春樹のすれ違いのストーリーが続くメロドラマで毎週木曜日の夜8時半から9時までの30分間放送された。

当時は自分の家に風呂がない人がほとんどだから、たいていの人は銭湯に行くわけで、『君の名は』が始まると銭湯の女湯が空っぽになる(風呂に入っていた女性たちが放送を聞くために脱衣場にあるラジオの前に集まった)といわれるほど女性に人気のある番組であった。

日曜日のお昼には『のど自慢素人演芸会』(後の『NHKのど自慢』)が人気があった。宮田輝アナウンサーの名司会が際立った。大晦日の『紅白歌合戦』の司会も通算15回に渡って担当し、国民に慕われた。

だから、昭和49年(1974)参議院選挙の全国区では当然のように宮田輝がトップ当選した。『紅白歌合戦』は一年を締めくくる国民的行事であり大晦日の夜は家族そろってラジオの前に集まってゆく年を惜しんだものである。

私の記憶に鮮明に残っている昭和30年代頃の『のど自慢素人演芸会』は出場者が今の倍以上いて、(時間内に出場者全員に歌わせるため)最初の一小節を歌い終わっただけで、鐘一つで落とされる人が続出していた。鐘が三つ鳴るような、とても上手な人やキャラが際立っている人だけが最後まで歌うことができ、宮田輝と話をしていた。

そして敗戦後10年以上経ったこのころでも必ず『リンゴの唄』を歌う出場者が二人や三人はいた。それほどよく歌われた曲(サトウハチロー作詞 万城目正作曲)である。敗戦の年、昭和20年(1945)に並木路子が歌い、敗戦でボロボロになった日本人の心に明るい光を灯(とも)した歌であった。

私の母がこの歌を初めて聞いたのは、昭和22年(1947)3月、大連から舞鶴港に向かうの引揚船の甲板の上であった。(昭和21年12月から昭和22年3月までの4か月間に大連から20万人の日本人が引き揚げてきた)戦争中大連に住んでいた両親は生後六か月の私を背負って、大連から舞鶴港に帰還した。

その時、引揚者の世話をする為に内地から迎えに来てくれた青年たちがいて、その青年たちが「いま、内地ではこの歌が流行っています」と言ってアコーデオンの伴奏で『リンゴの唄』を歌ってくれた。そしたら、舞鶴港に着くまで船中でみんながこの歌を口ずさみ、何度も何度も歌ったと、母はその時の感激を話してくれた。

スポーツではプロ野球中継と大相撲の中継があった。
古関裕而作曲の『スポーツショー行進曲』のオープニング曲で始まる夏の夕方のプロ野球中継を男の子たちはみんなわくわくして聞いていた。

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このように戦後から昭和50年代(1975~84)位まではNHKは多くの国民から信用されていたと思う。公共放送の意義を伝える伝道者であるNHKの集金人の説明を国民の大半はある程度受け入れ、進んで受信料を払う人たちも沢山いた。NHKの集金人も公共放送の意義を心底信じて、まるで伝道者のごとく家から家へ集金に回る真面目な集金人(NHK側のNHKの信者といってもいい人たち)が沢山いたのだと思う。

私の実家も親戚の家も独立後の私自身もなんの迷いもなく当然のごとく受信料を払っていた。やがて、テレビの時代が始まり、白黒テレビはいつの間にかカラーテレビとなって行ったが、私の場合は50歳代半ばまでニュースはNHKしか見なかった。事件があればNHKのニュースで必ず確認をするという習慣があった。それほどNHKを信頼していた。(国民の側にもNHKの信者は沢山いる)

昨年の11月のこと、立花孝志氏(政治家、ユーチューバー 元NHK職員、元船橋市議会議員 現葛飾区議会議員、NHKから国民を守る党党首 50歳)が東京都葛飾区議会議員選挙に立候補した。その際、駅前で「NHKをぶっ壊す!」と選挙演説をしていると、それに対する反応(特に高齢者)が二極化していたとユーチューブの動画で伝えている。

一方は少ない年金でガツガツの生活をしている高齢者がNHKの集金人(NHKの集金は今では下請け業者に請け負わせているのがほとんどで、本当に質の悪い人たちが多い)に脅されて無理やり受信料を払わされているNHKの被害者であり、立花孝志に助けを求めてくる人たち。

もう片方は「受信料を払わなければNHKがつぶれるではないか」と本気で抗議してくる(NHKの信者の)高齢者も沢山いる。

とにもかくにも、立花孝志氏は定数40人中33位で当選した。

平成30年1月31日投稿

(つづく)