[2250]俗ニーチエについて 付記 続き
2211『膣ケア本2冊についての警告 2』で「セツクスの本質とは、他人同士が仲良くなる為にあるもの、コミユニケ―シヨンの方法の一つ、或いは単純に、子供をつくる為にするもの」と言ったが「子供をつくる為にするもの」の後に「男女の場合」と付け加える。膣ケア本2冊のうちの一つ『ちつのトリセツ』の中で、作者が、看護師兼助産師さんに、女性のトルソーの膣の中に、指を入れてみなさいと指示されて戸惑い、実際に指を入れてみて、衝撃を受ける場面がある。で、私は断言する「やっぱり女には、肉体関係を伴う同性愛の経験が、本当は必要だ」と(膣ケア本の作者には、ここ迄の認識は、到底無理だろう。が、私は、中途半端な理解では済まさない)。はっきり言うが「女は男とセツクスする事によって一人前になる(処女でなくなる)」なんてのは大嘘だ(笑)。
副島先生が、ニーチエとワグナ―の関係について「同性愛だ」と断言されている事について、私は2161『俗ニーチエについて』で「人類の歴史に、同性愛は不可欠なものだ。副島先生が人類最高の芸術家と呼ぶミケランジェロだってホモだった(ついでにここで付け加えるが、ダ・ビンチだってホモですね。だからミケランジェロもダ・ビンチも、女と結婚していない)。この事について副島先生は、どう思っているんだろう?自分がホモじゃないから興味ないのか?と思っていた」と言ったが、本当は、ニーチエ本以前に、副島先生の映画評論本の『アレキサンダー』という米国映画についての記述の中に『古代世界では、ホモセクシユアリテイ(同性愛)はごく自然なものだったようだ。それをキリスト教時代以降の善悪観で描いて大いに驚いてみせるのは、現代アメリカ的だ。』とあるのを見つけてはいた。ホモに限らず、女の同性愛も、歴史上、当たり前に存在している、というのが本当だが、ホモが衝撃的なものとして語られる事が多いのに比べ、女の同性愛には、人は、何故かあまり衝撃を受けない。これは「人間の原型は女であるという事実」を、皆、漠然と感じているからじゃないか(男イコ―ル女の変種どうしの結び付きはグロテスクだが、女イコ―ル原型どうしが結びついても当たり前)と、私は何となく思う。大方の男は、女について「男に愛されたがっているもの、愛されなきゃ嫉妬するもの」程度の、オメデタイ、間違った認識しか持ってないからな―、である。
で、2161『俗ニーチエについて』で私が「私が愛した或る女性」と書いた部分を、副島先生は『私が愛した同性愛者の或る女性」と書き換えておられたが、「私が愛した或る女性」は、『同性愛者』ではない。私以前に、同性とどうのこうのという経験は全然無い、そういう意味では、ありきたりの『異性愛者』だった人である。それが、私という『同性愛者』に惚れ込まれて引きずられた、である。世間には、こういう『同性愛関係』が、あるんですよ。