[2221]今こそ姥捨山の復活を 9
藤森かよこ先生が、施設が老人を寝たきりにさせているのは、そのほうが管理しやすいからだ、という旨を述べておられたが、はっきり言うが、世間知らずのインテリに、こういう知ったかぶりをされるのは、現場の人間として、もの凄く迷惑だ。『寝たきりにさせている』のでは無い『最初から寝たきり状態』で、入所して来るんですよ(笑)。人間は、生物学的に言って、110歳以上は生きない、という話を聞いた事がある。どんなに丈夫な人でも、死なない人はいない。「金さえ払えば健康だって買える」というのは大嘘だ。もっと正確に言うと「金さえ払えば健康にしてもらえる」なんて安易な事は存在しない。マスコミや、現場を知らない知識人の言う事を鵜呑みにしているのか、100近い婆さん、爺さんをつかまえて「うちのお父さん、お母さんは、施設の都合で寝たきりにさせられている」と言う愚かな家族が後を絶たない。100近い寝たきり老人が、本当は元気になれる筈なのに、施設が努力していない、などとオメデタイ事を考えている。どこまで他人のせいにすれば気が済むのか。以前、職場の上司に「病院も、病人は嫌なんですよね」と言った。上司は、笑って頷いた。
『俗ニーチエについて 付記』続き
澁澤龍彦氏は『ババリアの狂王(「異端の肖像」所収 河出文庫)』で、ル―トビヒ二世とワ―グナーの関係について、以下のように述べている。引用する「王の同性愛的傾向を、ワグナ―が知らなかった筈がない。しかしワグナ―は、自尊心と虚栄心とから、そのパトロンの自分に対する熱愛に、性的なものはないと信じ込むふりをしていたようである。確かにその通りだったかもしれない。というのは、ワグナ―に対する場合にのみ、王はその欲望を昇華させることができたからである。これは異例な事であり、音楽家の天才を証するものであろう。音楽家と王との関係が潔白であったという事は、後年、王がその日記の中に、肉の欲望に負けまいとして、ワグナ―の名前を呪文のように引用している事によっても知られる。もし音楽家が王の罪の共犯者であったならば、決して王は彼の名を、純潔の守護神のごとく紙の上に喚起したりはしなかったであろう。」「用心深いワグナ―も、手紙の中で失策をやっている。ある女友達に宛てて『王の愛情があるからと言って、私に女があきらめられましょうか?むろん、そんなことはできやしません。でも、女なしで過ごせたらばよいがと思います。そして王の写真を見ていると、それが出来そうな気がしてくるのです』と書いているのだ。」ニーチエとワグナ―の関係も、多分こういうもの(肉体関係は無い)だったろう、と思う。普通の人なら、こういう関係は「同性愛的ではあるが同性愛そのものではない」と言って逃げる。しかし副島先生は、ニーチエとワグナ―のそれを「同性愛だ」と断言している。やはり、副島先生は天才である。