[2180]公共事業で揺れる人間関係を描いた「ひかりのたび」
六城雅敦です。今日は8月23日です。昨日澤田サンダー脚本・初監督の映画「ひかりのたび」を観てきたので、それの簡単な感想をかきます。
この映画は副島先生が長い感想を寄せられています。
(はりつけ始め)大きな泥臭いお金の話を正直にしないで作られて来た、これまでの社会派映画の限界が、この映画で明らかになった。人間の営み(人生)のあらゆる場面に、こういう交渉ごとと掛け引きがある。企業で働き続ける人間にも企業(経営者)や上司、同僚との日々の掛け引きがある。幼い頃から、そういう親の姿を見ながら、子供は自分の人生環境を運命(与件(よけん)。既に与えられてしまったもの)として引き受けながら生きてゆく。(はりつけ終り)
このようにパンフレットに記されているので難しい映画かな?と構えてしまいそうですが、実際は田舎らしくゆったりと時が流れる映画です。
例えるならば黒澤明の「生きる」に近いかも知れません。大資本による大きな社会問題ではなく、あえて身近な地域問題として過疎地の公共事業を描いた映画です。
出稼ぎ労働者の外国人も困惑の種となります。
脇を固める役者さんがとても自然で渋く、さすがプロなのだなあと思いました。
舞台は群馬県中之条町です。どんなところかというと群馬県のど真ん中で吾妻線という電車が走っています。
上越線・渋川からずっと山間部川沿いを走り、草津温泉、万座温泉へ行く路線ですが、東京からは新幹線を使っても二時間半はかかります。
利根川の上流に位置するので、悪名高き無駄な公共事業「八ツ場ダム」が建設されている場所です。
ずっとダム建設ですったもんだがあった土地で、30年前からずっと「水没するぞ、水没するぞ」と言われていた地区です。
だから観光業が発展することなく、昔からの温泉宿が路線沿いに点在するだけという場所です。
車でも行ったことがありますが、初冬でも山間部は降雪で凍結することもありますから、気軽に夏タイヤで行くと冷や汗をかくことになります。
市街地をはずれると山しか見えません。
東京から越してきた不動産ブローカーの父と娘の話です。
この父は大規模開発に先駆けて土地買収を行う先遣隊の役目であって、目的が達すればまた別の土地へ移り、再び土地をまとめ上げるという仕事を生業としています。だから父はよそ者であり、嫌われ役です。
売りたい事情、売りたくない理由、売らざろう得ない事情が元町長、若夫婦、息子を失った女にはそれぞれあります。
「土地取引はね、人それぞれの計り知れない心の内が見えてくるのだよ」
こんな台詞をブローカーの父(高川裕也)が吐きます。
やがて反対派であった人徳のある元町長も譲渡書に捺印するのでした。
土地ブローカーに屈服したからでしょうか?いえ、違います。
反対を続けても、やがて巡り巡ると土地とは手放すハメになるのです。また寿命もあり、いつまでも反対運動が続くわけにはいきません。 一抜け二抜けと承諾するものが現れてしまうのは当然です。
大規模開発や巨大公共事業に反対運動は無力となる現実です。
なぜならば個人の利害など大多数の声しか通らない世界では全く顧みられないから。
それと不動産ブローカーの父親はいちおう不動産の看板を出していますが、日中は何をしているかというとひたすら車にのって町内を走り回っているだけです。そして裏金をばらまくだけ。
こうして人心のゆれうごきをずっと待つのが仕事です。賛成反対のどちらにも顔が利く状態にしておくという商売のようです。
この映画は澤田サンダー監督の実体験もあるそうです。
土建王国・群馬県は今後も変わらないし、全国でも同じ状況なのでしょう。
土木業からの上納金が福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫といった首相を生んだ背景にあるというのは言わずもがな。
レストランでアルバイトをする主人公(志田彩良)の先輩が「あ~あずーっとこんなとこで働き続けるなんて考えてもいなかった」とぼやく場面があります。
「ひかり」を感じていないやさぐれたアルバイトの先輩と「ひかり」を見いだそうと懸命な主人公なのでした。
この映画を観て思うことは、自分自身が「私の故郷はどこか」と自問しています。東京都市圏に住む人々の大部分が根無し草です。
ここが故郷だと18歳で宣言できることは、いちばんしっかりした生き方なのではないでしょうか。
映画公式サイト:http://hikarinotabi.com/#home