[2174]「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ」(副島隆彦先生の本)と、「キリスト教は邪教です」(適菜 収氏訳)、を読んで
初めて、この欄に書きます。福松と申します。
始めに、去年の副島先生の「トランプ大統領とアメリカの真実」「ヒラリーを逮捕せよ」(この本のヒラリーの顔写真は傑作だった)の二冊。
トランプ大統領誕生、見事的中だった。なのに あれから半年以上経っているのに評論家の佐藤 優氏だけが「いち早くトランプ大統領当選を当てたのは副島先生だけです。」という賞賛の声。なんとたった一人だけ!
「功、天下を蓋う者 賞されず」という 古い中国のことわざは、今の日本でも生きているのかと痛感した。
日本もアメリカも マスメディアの底意地の悪さは、骨の髄まで染み込んでいる。その陰険さは、まるでキリスト教会とウリ二つ、そっくりだ。
副島先生のこの度のニーチェ本38ページに出てくる「家畜のような人間たち」(ニーチェでは畜群)は、まさに先生がずーと以前から主張、大テーマの一つ「属国日本論」そのものだ。
「家畜人間たち」はまさに戦後72年にわたる日本人洗脳教育の賜物、その成果だと考える。
昔、私が中学生の時、英語の教科書の中に「コントレーディ ガール」という題名で、ブスのアメリカ人とおぼしき女の子が登場。(漫画チックな挿絵付き)
彼女の、やること なすこと 全て貶して くさして 馬鹿にする。そういった内容だった。
その時思った。「日本人どもめ 戦争に負けたのだから アメリカ指導部の言うことを逆らわずにちゃんと聞け!「天邪鬼」だの「反逆者」なんて、けしからん。許さんぞ!」と いうことか。
なーんだ、英語に駆けつけた、道徳の授業じゃないか…と、実に不愉快だった。というのを、未だに昨日のことのように覚えている。
適菜 収「キリスト教は邪教です」本の108ページに その「道徳」なるものの正体を明確に書いてある。「道徳」を利用して人々を支配すること。
先生のニーチェ本155ページ「ディオニソス祭の絵画」の類いは 絶対に日本の学校教育では生徒たちには見せない、教えなかった。今でもそうだろう。
そしてニーチェ本158ページに出てくる「アマーレ」男女交際、恋愛に対し、「不純異性交遊」という教育的な言葉が使われていた。いまでも嫌な響きの言葉だ。やっと下の毛が生えた中学生ぐらいで、生意気にそんなこと考えるな!色々面倒かけるな、そんなことより勉強しろ!」が当時の学校の雰囲気だった。男と女が恋愛するのが、どうして不純なんだ。他にそれ以上の何が楽しみでもあるのか?冗談じゃないぞ。自分の好きな女の子と付き合って何が悪いんだ。(と思ってたけど、実際にはなかなか口に出せなかった)
適菜 収の「キリスト教は邪教です」の本の20ページに「原罪」に騙された哲学者達の話が詳しく出ていた。そのことに関して、以前、副島先生の講演会で「ローマ教会 キリスト教会」が原罪なるものをデッチあげて、それを武器に人類に奴隷思想を押し付けた。諸悪の根源だ。
信長爆殺も、その尖兵のイエズス会が真犯人だと教わっていたので、すぐに腑に落ちた。
アレクサンドリアの女(哲学、天文学)学者、ヒパティア(強者だ)の話もそうだ。彼女も、暴徒化した弱者どもであるところのキリスト教徒たちに惨殺された。その映画のことも先生に教わった。
最近の例で言うなら、韓国の朴クネ大統領もそうだ。
母や父を殺害されても、なお、気丈にも政治家を目指して、ついに韓国の大統領に登りつめた。(つまり強者だ)。ところが、弱者どもの韓国の扇動された暴徒たちによって(連日のデモ行進)大統領を解任されてしまった事件があった。
小室直樹先生の本(だと思うが)で聖書の中の「ヨシュア記」を日本ではキリスト教の僧侶(宣教師、神父)たちは信者たちに決して話したがらないと書いてあったのを思い出した。もちろん十字軍の話もそうだろう。余りにも残酷すぎて、無理だろう、日本人は、キリスト教に対しては理屈ではなくムードだけの信者がほどんどだから、そんな話をしたら一発で白けて布教がおジャンになるからだ。
だから、適菜本「キリスト教は邪教です」の88ページにあるように、キリスト教の「奇跡を起こす人」や「救世主」が登場…。とあるように、布教にはこれら インパクトのある「ヨタ話」が必要とされるのだ。しかし、「ヨタ話」などと侮れない。既に長年の布教の努力のかいがあって、日本だけでなく世界中にそのキリスト教会の毒が回ってしまっている。
そのキリスト教会の毒が、各種社会制度にまで巧妙に組み込まれているとの適菜氏の指摘は、私たちの身近にそこかしこに溢れている。
ゆきすぎた社会福祉だの 重税問題、年金問題、老人介護問題、結婚制度、選挙や各種デモや労働問題など キリがない。
適菜本の90ページ「教会の自虐史観」を嗤う、に書いてある。まるで精神病院のようなキリスト教世界について。に、僧侶の正体は寄生虫「あの世」「最後の審判」「霊魂の不死」といった大嘘を武器にして支配者となった、とある。
神は知恵ある者に恥をかかせる為に…世の無に等しい、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた。それは、誰ひとり神の前で誇る事がないようにするためだ。と、あらゆる下層民の心理学について適菜氏はパウロのコリント前書1の21以下を鋭く分析している。全く同感だ。
かさねがさね言うが、日本の(アメリカも)新聞、テレビ、雑誌など、ほとんどのマスメディアの手口、そのものだ。
まるで巨大な精神病院の中で日々生活しているみたいだ。
適菜本の117ページの「キリスト教が戦争を招く理由」から122ページの「科学とは原因と結果」は正に現代社会にピッタリ当てはまる。マスメディアの風潮は「原因と結果」の検証を無視するが、歪めている。
特に原因の方を(なぜそのような結果を招いたかを)一切無視して結果ばっかりをクローズアップして大問題だ、驚け!と勝手にワーワー騒ぐだけ騒いで 煽りに煽って、しばらくして何事も無かったかのように知らんぷり。を、繰り返している。まるで突発性発狂症だ。
本当に適菜氏の強調するする精神病院そのものだ。
いちいち取り合うのも馬鹿馬鹿しいことだ。うんざりだ。
そして「キチガイ」という言葉は、いつの間にか公の場では使用禁止にされてしまったが、他にも使ってはいけない言葉がごまんとなってしまった。言葉狩りだ。実に窮屈な世の中になったものだ。
何年か前に、「不思議なキリスト教」だの「愉快な仏教」などという本が出版されていた。が、われわれ日本人にとって 仏教なんかちっとも愉快でも何でもない。一言で言えば葬式仏教だ。キリスト教も不思議でも何でもない。適菜流にいえば「イカレポンチのキリスト教」の題名がふさわしいと思う。
適菜 収氏はニーチェ本の、前書きの結論部分で今こそ(2005年)ニーチェと強調していたが、2017年の今でも(ますます)本当に面白い。
難解と言われるニーチェの著作を、決してペダンチックにならずに我々にも訳してくれた。これでもか これでもかと説得を試みている。(ニーチェの思想は、ニーチェの生きていた時代にも時空を超えて今でも生きている、通用する、と思う)。
12年前に出版された、適菜収氏の「キリスト教は邪教です」は、副島先生のこの度の力作ニーチェ本をきっかけに家の本棚にあったのを読み返して、改めて大変素晴らしいと思った次第です。
副島先生の読者の一人として、勢いでつい、グダクダとつい口を挟んでしまいました。