[2171]NHKの大河ドラマ「おんな城主 直虎」について

副島隆彦 投稿日:2017/08/11 08:31

副島隆彦です。今日は、2017年8月11日(金)です。

 私は、NHKの歴史ドラマ 「おんな城主(おんなじょうしゅ) 直虎(なおとら)」を、これまでに4回見た。一年間ものの「大河ドラマ」で、もう8月だから、半分以上を越している。

 8月6日の回では、幼年、少年、というよりも幼児の 井伊直政(いいなおまさ)が、
現れていた。随分、利発(りはつ)でお利口さんの感じの、いかにも、自分が、井伊家(いいけ)(本当は、井伊氏(いいし))をこれから引っ張っていって、井伊一族(いいいちぞく)を隆盛させる人間だ、という感じの描き方だ。

 後(のち)に徳川四天王(してんのう)というよりも、家康(いえやす)四天王のひとりと呼ぶべき、井伊直政(なおまさ)を育てた、叔母(おば)の、井伊直虎(いいなおとら)という女性を主人公にした、戦国時代物のNHKドラマである。

 私が、このあと、ここに載せる文は、7月22日に書いた自分のための備忘録(びぼうろく、メモランダム)の文だ。私は、思い立って、やや本気で、「だからこそ今から、井伊の一族の徳川家康との関係での本当の歴史の真実を掘り出さなければ」と思った。

 それで、別個に、私は今「真実の井伊一族と 三河(みかわ)大名=岡崎城主=松平元康(まつだいらもとやす)を謀略で殺してすり替わった家康と、この男が実は17年も居城にした浜松城の真実」という内容の文を、書いている最中だ。

 そうしたら、この7月22日のメモランダムは、その前宣伝というか、急いで、重たい掲示板の方に載せておこう、と思った。それで、今日ここに載せる。

そのあとに、食わせ者の、日本中世史=つまり戦国時代 の、日本史学者の小和田哲男(おわだてつお)静岡大学名誉教授の NHKの「女城主 直虎」への解説文のような、やや長い記事がネット上にあったので、これも載せる。 なぜ、戦国時代についての、日本史学者の、日本では、まわりから第一人者(だいいちにんしゃ)とか権威(けんい)とされる、小和田哲男が、大嘘つきであり、日本史の真実を、覆い隠し、捏造(ねつぞう)してきた勢力に、気弱そうに荷担してきた男であるか。を、私、副島隆彦は、満天下に、証明しなければいけない。

 しかし、この知識作業は、簡単なことではない。私、副島隆彦の熱心な年季の入った読者たちでも、「本当かなあ」と、私の書いていることに、何でもかんでも無条件に賛同するわけではない。そのもどかしさを、ずっと私は、抱えながら、今日まで、“真実暴(あば)きの言論人”をやってきて、「私は、大きな枠組みの中の真実、しか信じない。おかしい、と自分が思ったことは、徹底的に調べ上げて、大きな真実」を表に出す。その際は、世の中で流通している定説(ていせつ)や、学校の教科書に書いていることや、主流派・体制派が押しつけて「これを正しいと信じなさい」という内容や、学問的に正しいとされる理論、などを逐次(ちくじ)、否定してゆく。

 以上の長いまえがきになった。今日のぼやきの方に、ここの重たい掲示板に載せる文を引き継いだ、本格的な文を近いうちに載せます。 それは、私が追求している、「真実の井伊直政、そして 本当は、17年間もずっと浜松城にいた(岡崎城ではない)真実の家康」論である。
 
 7月22日。副島隆彦 記。
 私は、このNHKの「女城主 直虎」のドラマに出てくる、この女たちを描くことで、 これから起きるだろう、来年4月と予定されている北朝鮮への、アメリカ軍と中国軍の攻撃、小さな戦争(副島隆彦の予言)に賛成して、日本の女たちも、戦争に動員されろ、という 密かな観点から作られている国民扇動ドラマのひとつだ、と考えた。

 こんな 歴史資料もはっきりしない、「女城主」などいなかったろうに、それを「ドラマですから」でやっている。元気な女、女の時代(ヒラリーが、大統領になる予定で、世界中に振りまいた計画。日本では、ヒラリーの子分であり、同じMoonie ムーニーである小池百合子を 首相にして、中国との戦争を、着着と準備してきたことの一環。それが、トランプ当選で、ぶち壊された)

 「女城主」なんて、どうせ、始めかっらパッとしない人気で、視聴率もほとんど無い歴史物ドラマと思われていた。なのに、戦争賛美、扇動の雰囲気で、女たちを今よりも、もっと凶暴化させようとして、それなりの人気が出ているらしい。これで若い男たちが、ますます なよなよと、女化か、ゲイ化する。

「女城主」で、大河ドラマを作りたいなら、本物の本当の優れた女城主だった、埼玉の今の行田(ぎょうだ)史にあった、実在の 忍(おし)城の、女主人が勇壮に戦った史実(しじつ)の戦争の話にすればよかったのに。

“井伊の赤備(あかぞな)え”という、徳川の軍団の中で、最強の突撃集団 を作った、家康4天王のひとりの、井伊直政(いいなおまさ、 1561-1602)) は、“24人持ち大筒(おおづつ、大砲。本当は、ウイリアム・アダムズの船から運んだ洋式の当時世界最新鋭の大砲)の本多忠勝(ほんだただかつ)”や“知恵伊豆”などと並んで、”井伊の赤鬼(いいのあかおに)“と呼ばれて、勇猛だったのは事実だ。

 が、家康がそのように配備したからであって、そのあと 直政は、42歳で死んでいるから、井伊家(氏)は、「高家(こうけ)」(譜代の中で格式が、なぜか特に高い)にはなった。なぜ、井伊の赤鬼部隊が、最強だったかというと、その前に滅ぼした 甲斐(かい、山梨県)の武田勝頼(たけだかつより)の甲州武田軍を、織田信長が、井伊直政に配備して、それで、最強の突撃隊を作ったからだ。
敗北して服従した人間たちには、その後の過酷な運命が待っているものなのだ。 それが人類史の真実だ。

 1600年の関ヶ原の合戦に敗れた、総大将の石田三成(いしだみつなり)の居城、佐和山(さわやま)城を、直政は、拝領して、この年、18万石の大名になった(40歳)。

 この不吉(ふきつ)であるに決まっている佐和山城をさっさと壊して、その石垣の大石を運んで、5キロ?ぐらい先に、彦根(ひこね)城を作った。それが、幕末まで続く 譜代(ふだい)大名の井伊氏だ。が、どうも、ここにもあと一つ、私、副島隆彦が解かなければいけない 秘密がある。 

 先週、私は、大阪での講演会にゆく際に、新幹線の窓から、ハッと、「佐和山城跡(あと)」の看板を初めて見た。以前は無かった。関ヶ原の国境を越してすぐだった。目を凝らしたが、そのあとにはるがずの彦根城は、分からなかった。

「女城主 直虎」の 直虎が、女だった証拠の文献は、どうも無いようだ。この前、
私は、八重洲ブックセンターで、真面目な歴史学者たちの、 直虎もの の NHK大河ドラマに合せて、急いで書かせて作られた感じの本を、数冊、さらさら立ち読みした。そうしたら、「直虎が女である文献(歴史史料)はない」とのことのようだ。 

 あんな、浜名湖の北の方の、誰も知らない、ほとんど誰も行かない、誰も知らない(と書くと、現地の田舎者が怒るかな)土地の地侍(じざむらい)、国人(こくじん)程度の、小さな在郷(ざいごう)武装集団程度( 鎌倉時代以来、武家の頭領から任命された地頭=じとう=職が大名になっていったのだから、地頭職などよりもずっと小さい)の、小さな地域の話だ。  

 駿府(すんぷ。今の静岡市)の今川方に付かないで、三河大名の松平氏に属していた、このあたりの、奥三河(おくみかわ)の地侍(じざむらい)衆は、今川氏親(いまがわうじちか)が、ものすごく強くなった時代に、駿河大名(するがだいみょう)の今川氏の勢力圏に入った。遠々江(とおとおみ)の浜名湖周辺も、今川氏に服属していた。

 だから、織田信長が、二重スパイの戦場の忍者(最先端の軍事スパイ)から作った男で、三河の岡崎城主・松平元康まつだいらもとやす  にすり替わった男 )である徳川家康 の側近に、15歳 でなったのが、井伊一族の家督を継いだ、井伊直政だ。

 この直政 を 立派に育てた叔母さん が、直虎で、ということに作り話をして、「テレビのドラマなんだからいいじゃないの」で無理やり作って、それで、国民歴史教育として、いつもの国民洗脳をやっている。直虎が女だった、という史料はあるのか?  真面目な歴史学者たちに、史料に基づく真実を語らせなければいけない。

 私、副島隆彦は、浜名湖の北側一帯の 三ヶ日(みっかび)にも行ったことがある。 都田(みやこだ)にも行って辺りをぐるりと回ったことがある、と、言えば、その西側の山地(やまち)である、井伊一族の発祥の、井伊谷(いいのや)城の城跡の、あの地の辺りの人たちは、「そうか現地を知っているのか」と、言うだろう。

 私が、三ヶ日(みっかび。浜名湖の北側。中国古典ものの歴史大作を書く、小説家の宮城谷(みやぎだに)なんとか、が住んでいる)にも私は、5年前に行って、調べている。そこから峠の山一つ北西に越した井伊谷(いいのや。現在は、新城(しんしろ)市。JR飯田線沿い)だ。

 浜名湖の東側の、遠州(えんしゅう)と言う国の中心である、大きい浜松城( JR浜松城から北に2キロぐらい。かつては、引馬=ひくま=城と呼ばれた)そのものに、なんと、ここに、「17年間、家康公(本当は、世良田元信、せらだもとのぶ)はずっといたのだ。ここが根城(ねじろ)、本拠地だ。家康は、自分が、謀略で乗っとった三河の岡崎城にはほとんど行っていない。そこは、松平信康(まつだいらのぶやす)という、自分がすり替わった元康(もとやす)の息子を、城主ということにして、そのまわりを、本物の三河武士(みかわぶし)たちに守らせていた。

 それで、自分こそは、すり替わって松平元康なのだけれど、居づらくて、それで、浜松城にずっといたのだ。 そして、子の 信康を20歳の時に、、正妻の築山御前(つきやまごぜん、今川の重臣、関口氏の娘)ともども、殺した(1578年)。家康に、跡継ぎの秀忠(ひでたた。2代将軍)が生まれたからだ。用なしになったので、殺したのだ。

 彼らは、徒党=山賊、夜盗の集団で、喇叭(らっぱ)、スッパ、の一団であり、戦場スパイの集団として、1561年から、浜松城を根城(ねじろ)にして、ずっと住んだのだ。そのあと、信長軍団の先兵( 同盟軍などではない)として、徳川軍団は、次第、次第に、17年かけて、今川氏を追い詰めていって、1679年には、ついに駿河まで攻め取って駿府城を取り、そこに移った。その前に、信長の軍団の一部として、甲斐(山梨県)の武田氏を滅ぼしにゆく。その先陣の役割を、徳川軍団はやっている。

 17年間も、すり替わったあとの家康は、浜松城にいたのだ。この驚くべき真実を、歴史学者たちは、まとめて全員が、知っているくせに、ゴモゴモして、言わない。三河大名の徳川家康は、岡崎城 に居たことにしないと、日本史の戦国時代が、まずいのだ。ウソで堅めてあるので、今さら、真実を書けなくなって、無様(ぶざま)に歴史の偽造を、日本史学会が、一団となって、小和田哲男を筆頭にしてやっている。

 私は、2015年に、浜松城の天守閣(観光用に鉄筋コンクリートで再建したもの)に行って、じーっと史料を眺めていて、ボランティアのガイドの人たちと、話していたら、真実はバレた。

 私は、ボランティアのガイドに、聞いた。「17年間、家康は、この浜松城にいた」という歴史考証は、誰がやったのですか。小和田哲男教授ですか? 」と。 そうしたら、「いえ、ちがいます。同じ静岡大学の、・・・先生です」と言った。その教授の名は、聞きぞびれた。

私は、これらのことは、この調査の後すぐに書き上げた、私の「歴史物での真実の暴きの大著」と自画自賛する、『信長はイエズス会に爆殺され、家康は、すり替わった』(PHP 刊 2016年) にほとんど書かなかった。

 浜松城には、西暦1560年時点で、今川氏の 戦略上の重要な城として、誰か? が、今川の重臣として守っていて、その城主が死んで、その奥さんである女が城主として、数十人の家臣と居残っていた、と浜松城の壁に貼ってあった 史料に書いてあった。 それがどうも、井伊家と関係しているようだ。 だから、井伊の一族が、このとき、本当に、浜松城にいたのではないか??? 私、副島隆彦は、そのように、霊感で思う。 それ以上の詳細な真実は、今はまだ分からない。

 この1560年5月(永禄3年)に 尾張と三河の国境(くにざかい)の桶狭間(おけはざま)で戦いがあって、これで、駿河大名の今川義元(よしもと)が急襲されて死んで、今川勢は、ワーッと東海道をずっと、東の方に、に敗残兵の群れとなって、どんどん逃げ帰って行った。このときに、浜松城を守っていた連中も、「自分たちも 尾張(おわり)勢に殺される」と思って潰走(かいそう)したようだ。 だから、当時でも東海道の主要地だから大きな城である浜松城 は、ほとんで、もぬけの殻(から)に近い状態になったようだ。

 そこへ、忍者集団であり、まさしく盗賊、夜盗の集団であった、そして、翌年の
1562年4月には、岡崎城主(一応、三河の大名)の松平元康を、「ご子息を生きて連れて参りましたぞ」と、計略で中に入り込んで、まんまと元康を城内で殺してすり替わった。そして徳川家康が誕生した。このあと4年間の間に、松平元康から、コロコロと、家康、そして、徳川 に名を変えた。の徒党が、浜松城を占拠して、そして、この後(あと)17年間、家康は、駿府を1579年に、攻め取って移るまで、ずっとこの浜松城にいたのだ。 これが歴史の真実だ。 副島隆彦の暴き言論の成果、業績のひとつだ。

 副島隆彦の本の、頭のいいはずの熱心な読者たちでも、まだ、ここまでは付いて来れない。それは仕方が無い。 どんなことも時間がかかるんだ。私、副島隆彦は、「大きな枠組みの中の真実 しか信じない」と、言いながら死んで行く。 私が、死んだ後、私が書いた本たちが、見直されて、「やっぱり、この問題でも、副島隆彦が、大きくは正しかったのだ」と皆で、私の業績を 認めるだろう。 私は、生きている限り、ずっと我慢に我慢で、耐えに耐えて、ただひたすら、「総合的な人類の真実の組み立て」の作業をやり続ける。他にやるべきことはない。


小和田 哲男 静岡大学名誉教授

以下の文を作った、小和田哲男(おわだてつお)という、静岡大学の教授を最近までしていた 歴史学者は、食わせ者の大嘘つき である。多くの点で、世の中に逆らわないように、逆らわないように、で、生きてきた 小心者の男だ。

“ 生き方上手の 歴史学者”だ。歴史資料(古文書である文献)の読み込みは、それなりに、かなり正確に出来る男だ。だが、やっぱり、いざという段になると、体制に逆らわない、ふにゃふにゃ になる 男だ。

 以下の文を、私、副島隆彦は、「直虎が女だった史料はない」という一点で、小和田哲男は、ここでも上手に、すっとばして触(さわ)らないようにして、逃げているようだ。 
小和田は、“業界のボス” になるような、政治力を行使して、業界で、若い真実を書こうとする学者たちをいじめるような男なのか、そうでないのかまで、私、副島隆彦は、まだ突き止めていない。そのうち判明するだろう。

 副島隆彦の闘いは、日本史の各所でも、自由自在にやる。私は、古文書(こもんじょ)の歴史資料の読み込みはできない。が、正直者の歴史学者たちの書いたものを、私の、このずば抜けた眼力で、精査、判定して、その上で、これからも真実の歴史を、粗(あら)っぽく大きく描く。  副島隆彦 記

(転載貼り付け始め)

● 知略で井伊家を救った「おんな城主」直虎

2017/06/05 日経BIZ 

小和田哲男 氏、造(ぞう)事務所

 NHKの大河ドラマで注目の井伊家。今川家の支配下にあって桶狭間の戦いや暗殺によって当主が不在となり、家を継いだ”おんな城主”直虎に育てられたのが、直政である。やがて徳川軍団に加わった直政は、「赤備え」の精鋭を率いて活躍し、敵から「赤鬼」と恐れられた。徳川四天王でもっとも若い直政は、最終的に石高は徳川軍団トップ、筆頭家老となった。

没落していた井伊家をみごとに再興したが、自身は42歳の若さで命を落とす。火花のごとく激しくも短い直政の生涯からビジネスのヒントを探る。
最後のひとりとなった井伊家の嫡男

 井伊の名前で歴史に名を残した有名人物といえば、幕末に大老を務め、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼(なおすけ)だ。直弼の肩書は、譜代大名筆頭・彦根藩井伊家13代当主。もちろん直政の子孫である。

 そんな井伊家のはじまりは平安時代までさかのぼる。『井伊家系図』によると、藤原道長などが輩出した名門・藤原北家の出とされている。もとは名家の一族なのだ。
 鎌倉時代に遠江一帯に勢力を広げた井伊家は、周囲を山に囲まれた井伊谷(いいのや)の国衆として、貴族の血を引くという誇りを胸に平和な日々を過ごしていた。

 しかし、戦国の世になると駿河(静岡県東部)の今川氏親に攻めこまれ、その影響下に置かれるようになる。今川家が井伊家を戦において先鋒として使うようになると男子が次々と戦死し、桶狭間の戦いでは当主の直盛が戦死した。その後、今川家が衰えていくなかで当主となった直親(直政の父)は、家康に通じたと疑われて謀殺された。

このとき、虎松こと直政はまだ2歳である。その翌年には、老体をおしてふたたび当主となった直平が急死する悲劇に見舞われた。

直政の曾祖父である直平までたどると、家康とも姻戚関係となる
 こうしてわずか3年の間に当主を立て続けに失い、井伊家の男子は2歳の虎松だけとなってしまうのだ。虎松を生んだ母は、夫・直親の死後すでに徳川家臣と再婚していた。そこで虎松の後見人となったのが直虎である。直虎は直親のもと許嫁であった。

 男子がいなくなった井伊家を継いだ”おんな城主”直虎は、井伊家の男子で生き残った虎松を育て上げた。徳川方につこうとした井伊家は、その後も幾度となく今川家に圧力をかけられ、各地を転々としている。

 逃亡生活を送りながら、虎松は8歳まで直虎に保護・養育され、その後は寺に避難。井伊家を再興するため、一族によって必死で守られていたのである。

再興した直政、地位を確立した直孝
 今川家に内政干渉されていた直虎はじっと耐えていたが、1568(永禄11)年11月、ついに井伊谷城を今川家に明け渡して領土を失う。じつは、これは直虎があえて選択した、生き残るための手段だった。直後に徳川家が今川領を攻め、井伊谷は家康の支配下となる。

 もしそのまま井伊谷城に残っていたら、井伊家は今川家の命を受けて徳川軍と戦うことになり、滅ぼされていただろう。絶妙なタイミングで明け渡していたのである。

 井伊家の復活を模索していた直虎は、徳川家康に賭けることを決意。15歳になった虎松を家康の家臣に送りこんだ。直虎の母の再婚先である松下氏の口利きもあって、鷹狩りを楽しんでいた家康との謁見に成功している。

 家康は、虎松の父・直親と親交があったことを理由に虎松を快く迎え入れ、井伊家を継ぐことを認めた。こうして虎松は、家康の幼名・竹千代にちなんで、「万千代」と名づけられたのだ。

 さらに家康は、城も家臣もない会ったばかりの少年に300石を与えている。なぜ、そこまで手厚く処遇したのか――美少年だった万千代を寵愛したからともいわれるが、本当のところは不明である。
 その後、家康は万千代を小姓として召し抱え、政治や武芸を学ばせた。家康は、戦場においても戦略を細かく指南したという。手塩にかけて育てたといえる。

 時は流れ、1602(慶長7)年3月、病床にあった直政は、家老の木俣守勝を呼んだ。「井伊家があるのは徳川殿のおかげであることを忘れてはならぬ。家督を継ぐ者は代々、御奉公第一、忠節一筋を心がけることを申し送るよう努めよ」と言い残してこの世を去る。

 直政にはふたりの息子がいた。家康の養女である正室・花との間に生まれた直継と、侍女に産ませた直孝である。主君の娘ということもあり、直政は花にはかなり気を遣っていたらしい。恐妻家だったともいわれる。侍女が直孝を連れてきたときも返事をあやふやにして、城に置くことなく領内の名主の家を転々とさせていた。

 直孝が12歳になったとき、直政は内々にようやく会って、愛用していた采配(戦場で指揮をするときに使う道具)を与えた。親子で対面したのはそのあと一度だけ。ついに、直孝を城に迎え入れることはなかった。

直政の魂を受け継いだ次男・直孝(なおたか)
 直政の死後、木俣守勝は駿府の家康を訪ねて、直孝が直政の隠し子であることを伝えた。そして直孝は2代将軍・秀忠に仕えることになった。

 直孝は器量と働きを認められ、大坂の陣に出陣。とくに夏の陣では大活躍した。その後、直孝は秀忠の遺言で3代将軍・家光の後見役を任され、4代将軍・家綱も補佐した。正室の子でないにもかかわらず、井伊家の2代目当主も継いだのである。

 そもそも、直孝を家康に謁見させたこと自体が、家康と守勝による井伊家の当主交代の下準備であったともいわれている。長男・直継は家臣をまとめる力がなかったのか、病弱とされて江戸に閉じこめられたまま。その経緯はわからない。

 なお、父とほとんど交流のなかった直孝は、それでも「井伊直政の息子」であることを誇りとし、最後まで父の遺言を守って幕政のために奔走した。この直孝の功績もあり、井伊家は江戸幕府で重きをなした。幕末までに大老10人のうち5人は井伊家より出している。大老は江戸城では徳川一門につぐ席次であり、別格の存在であった。

 現代においても、直政や直孝の血脈は受け継がれている。1953(昭和28)年、16代当主の直愛は彦根市長選挙に立候補して当選し、9期36年もの長きにわたって市長を務めた。「殿さま市長」と呼ばれ親しまれたという。

小和田 哲男 監修、造事務所 編著 『徳川軍団に学ぶ組織論』(日本経済新聞出版社、2017年)、第3章「井伊直政 先鋒として敵陣に突入した赤備えの猛将」から

小和田 哲男(おわだ てつお)
静岡大学名誉教授、公益財団法人日本城郭協会理事長
 1944年静岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。日本中世史研究の第一人者。NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の時代考証を担当。主な著書に、『戦国武将』『軍師・参謀――戦国時代の演出者たち』(ともに中公新書)、『「人望」の研究』(ちくま新書)、『石田三成』『豊臣秀次』(共にPHP新書)、『歴史探索入門』(角川選書)、『名城と合戦の日本史』(新潮文庫)など多数。

造事務所(ぞうじむしょ)
歴史・文化・宗教に造詣が深く、雑学から、生活実用まで幅広いジャンルの単行本の編集・執筆を行う。1985年設立。編著となる単行本は年間40数冊にのぼる。主な編集ものに『30の都市からよむ日本史』『リーダーの英断』(いずれも日経ビジネス人文庫)など。

徳川軍団に学ぶ組織論 (日経ビジネス人文庫)
小和田哲男 監修、造事務所 編著 出版:日本経済新聞出版社 価格:896円(税込)

●「柴咲コウNHK「直虎」10・6%で自己ワースト」
2017年8月7日 日刊スポーツ

 女優柴咲コウ(35)が主演し、6日に放送されたNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」(日曜午後8時)の第31話の平均視聴率が、関東地区で10・6%だったことが7日、ビデオリサーチの調べで分かった。前週は11・3%だった。これまでの最低だった4月30日放送第17話の11・0%を下回り、自己最低を更新した。

 同作は男が絶えた井伊家を「男」を名乗って守り抜き、後に徳川四天王の1人に数えられ彦根藩の藩祖となった井伊直政、幕末の大老として知られる井伊直弼へと子孫をつないだ女領主・井伊直虎を主人公とした物語。

6日の回は、井伊直虎(柴咲コウ)は今川氏真(尾上松也)の命に従い、徳政令をうけいれる。これは井伊谷が今川の直轄地となり、井伊家が取りつぶしになることを意味していた。直虎と小野政次(高橋一生)はいったん今川家に従うふりをして時を待ち、裏で徳川家康(阿部サダヲ)と手を組むことで井伊家復活を図るという策を取ったのだ。虎松(寺田心)をはじめとした井伊の一族は領地を追われ、川名の隠し里に残ることになる。

 川名に移った直虎は、家中の者たちに政次の真意を伝える。そんななか、氏真は政次が城代に据える条件として、虎松の首を差し出すよう要求してくる。直虎は要求を予測し、身を隠すべく虎松を三河の寺へ送り出す。政次は氏真からの要求を満たすため、郎党を引き連れて井伊の川名へ。

 しかし虎松はすでにおらず、代わりに直虎を城に連行。虎松のものとされる幼子の首を改めさせる。疱瘡(ほうそう)のためと偽り厚化粧を施された首は、虎松の身代わりとして政次が殺めた子供のものだった。直虎は首をかき抱いて涙し、経を唱える。一部始終を見た関口氏経(矢島健一)は追求の手を緩め、直虎と政次は窮地を脱する、という内容だった。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。私が書いた、『信長はイエズス会に爆殺され 家康はすり替わった』(PHP刊、2016年) を読んで下さい。

副島隆彦 です。 8月17日です。さらに追加で新聞記事を一本載せます。この記事に、
井伊直虎(いいなおとら)は、男であって、女ではない、という 歴史史料 が有る、発見された、発表された、という記事だ。 おずおずと、NHKの「女城主 である直虎」のドラマの邪魔をするのも、いやだなあ、という感じで、書かれている記事だ。 これを載せる。

(転載貼り付け始め)

〇「おんな城主・井伊直虎、実は男だった!?京都の美術館が発表 NHK来年の大河ドラマ主人公 」

2016年12月15日 産経新聞
http://www.sankei.com/west/news/161215/wst1612150007-n1.html

 戦国時代が舞台となる来年1月のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・井伊直虎について、井伊美術館(京都市東山区)は14日、井伊家が所有する古文書に「井伊(次郎)直虎」を男子とする記述が見つかったと発表した。直虎は別の文書から女性とされてきたが、もともと史料に乏しいこともあり、同美術館は「もしかしたら直虎は男だったかもしれない。今後、さらに研究が進んでほしい」としている。

■どうするNHK 女優の柴咲コウ主演、大河ドラマ影響は

 同美術館によると、古文書は、直虎を補佐していた今川家の武将、新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の娘らから、彦根藩(井伊家)の家老(左馬助の孫)が寛永17(1640)年に聞き書きし、子孫が約100年後にまとめた『雑秘説写記(ざつひせつしゃき)』。「(領地は)新野殿のおいの井伊次郎殿に与えられた」「関口越後守氏経の子が井伊次郎」とあるのが見つかった。

 過去には、関口氏経と次郎直虎の連署がある書状も見つかっていたことも合わせ、井伊直虎が男子だった可能性があるとした。

 ただ、ここには「井伊次郎(直虎)」が井伊家の当主だったかどうかなどは触れられていなかった。

 これまで直虎については、江戸時代中期に龍潭寺(浜松市)の和尚が記した『井伊家伝記』で、度重なる当主の戦死などで幼い男子しか残らず、その後見人として井伊直盛の一人娘の「次郎法師」が「井伊直虎」と名乗って井伊家を救ったとの内容が、記されている。

京都女子大の母利(もり)美和教授(日本近世史)は「史料が極めて少ない直虎の研究に、新たな進展を示すことになる発見」とした。

 今回の発表にからみ、女優の柴咲コウさん主演の大河ドラマ「おんな城主 直虎」について、NHK広報局は「ドラマはあくまでフィクションであり、影響はないと考えている。1年間、視聴者の皆さまに楽しんでいただける大河ドラマを制作していく」としている。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝