[2170]「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!まず知識・思想から」をぜひ読んでください

六城雅敦 投稿日:2017/08/06 21:07


5月25日に発売された「ニーチェに学ぶ 奴隷をやめて反逆せよ!まず知識・思想から」の感想を書きます。

なぜ書評が遅れたのかというと、あまりにも少部数であったために、駅の書店や近所には置いていなかったからです。7月に東京日本橋の丸善書店でやっと入手できました。
二階の隅にあるコーナーの「オカルト」という棚の一番端に一冊やっと探し当てたのです。

「ニーチェに学ぶ」は哲学書の棚に置いて然るべきなのですが、なぜかオカルトの棚に一冊だけでした。
副島隆彦の新作は平置きという思い込みでずっと探していたのですが、丸善でさえも隅のオカルト本の類と一緒に、ほんとに隅に一冊だけあったのです。カバーが擦れてヨレヨレですから、たぶん多くの人が手にしてくれたのでしょう。そのヨレヨレのカバーの本をレジに持ち込んで、読みました。

副島先生から伺ったのでここで公表しますが、初刷りはたったの5000部なんです。
5000部では首都圏の大規模書店でさえ、平積みにはならないという現実です。2万部ぐらい刷って貰わないと、地方中心都市の書店では並ぶことさえありません。平積みされるのは私の感覚では4,5万部はなければならない。

今回の新著は少部数だと伺っていたので、覚悟はしていましたが、新大阪駅のキオスクにもなく、地方都市の大型書店でも取寄せ扱いでした。そして上梓から一ヶ月も経ってやっと東京日本橋の丸善で一冊買えたのです。しかし哲学ではなくオカルトの類とされたことに、私は丸善に幻滅を覚えました。
「ニーチェに学ぶ」の横には我々の論文集「蕃書調所の研究」も同じオカルトの棚に置かれていました。
正直いえば、悔しいです。

(ここで、副島隆彦の割り込み、加筆。2017年8月8日。 六城くんは、勝手に、私のニーチェ本の
初刷り(発売部数)は、5千部だと、書いている。 5000部というのは、六城くん、君の本が出るときの部数だ。私の本は、そんなに少ない部数ではないよ。

出版社の名前が悪いので、オカルトのところに自動的に置かれてしまうようだ。出版社の社会的な、信用と格付け(レイティング)というものは、有るものだ、と私も改めて思った。

 それでも、私、副島隆彦が、必死になって書き上げて、「まるで黒沢明(くろさわあきら)監督の映画を見るような、筋立て(ストーリー)の分かりやすさと、明確さ」で、まるで、「映画監督が事前に作る、シナリオライター(脚本家)よりも早く出来る、コンテ絵=映画全体の構成=20枚ぐらいに相当する、図版(画像)をはじめの方で、徹底的に描いて見せた。これが、副島隆彦の生き方であり、出版物作成戦略だ。この本を読む気になって、手にとって本の中を開く、読み手だけは、全体に、捕まえて花座無いぞ。絶対に、分からせてやる、という私の深い決意がある。

ドカーンと、ニーチェという人類の思想家であり、超ブランドである、思想を、読み手のひとりひとりに突きつける。分かり方は、その人それぞれの、知能と知性のレベル(水準)に依(よ)る。それでいい。
映画を見る感じで、読み手=お客を惹(ひ)き付けなければいけない。私、副島隆彦のこの深い決意を
分かる者は少ない。 

 お客、観客、消費者、参加者 として 人生をおわる人間と、 舞台の上で、自分の踊りを踊ったり、役を演じたり、歌を歌ったり、スポーツの競技という肉体演技を見せたり、そういう 見せびらかし人間たちの、深い決意を分からない者たちの人生を、向こう側に見つめて、演技者、表現者たちは、生きている。

 すべては、出しゃばり根性。見せびらかし、目立ちたがりの精神である。これを、英語では、
show off ショウ・オフ という。 見せびらかし、こそは、人間(人類)がやってきた行動の中心に有るものだ。このことを、いやがったり、謙虚そうに見せかけたり、「自分なんかたいしたことないから」と、人前に出ることいやがったり、と、そういう人間たちを、はね飛ばして、「オレが、オレが」と、人をかき分けて前に出て、演説をしよう、歌を歌ってやる、ということをしないような人間は、そうやって、歴史の藻屑(もくず)の中に消えてゆけばいいのだ。

目立ちたがること、ひけらかすこと、着飾(きかざ)ること、自分の裸体をわざと衆人(しゅうじん)の目に晒(さら)すこと、こそは、女たちの主要行動であり、男たちの権力欲の源泉だ。
これを、ソースタイン・ヴェブレンは、衒示的消費(げんじてきしょうひ)、conspicuous consumption
コンスピキュアス・コンサンプション という。 「私を見て、キレイでしょ」と「どうだ、すごいだろ」と着飾って、見せびらかすためにこそ、人間(人類)の行動の根源がある。

 食べるために生きている、生きるのがやっとだ、次に、人類がやってきたことは、すべて、この衒示的な消費、見せびらかしだ。  私、副島隆彦は、、今や絶滅種(ぜつめつしゅ)に近い、死にかかっている産業である、花街(かがい)、料亭文化の、芸者(芸妓、げいぎ。黒留め袖、か 紋付き)を数人引き連れて、ぞろぞろと、パリのシャンゼリゼ通り や、パリ・オペラ座のあたりを、何の意味も無く、歩きたい。それが、私の人生の残りで、やりたいことだ。 ただし、チンドン屋や、コマーシャルの宣伝と間違われることを怖れる。 他に、生きていて、何をすることがあるか。

 見せびらかし、自己顕示、オレがオレがの精神以外に、人類(人間)は、一体、何をすることがあったか。みんな、本気でこういうことを考えなさい。それが、ニーチェの思想を分かり、リヒャルト・ヴァーグナーと奥さまのコジマ(当時、ヨーロッパ最高のピアニストだったフランツ・リストの実娘)と、ニーチェが、スイスのトリープシェンの館で、3人で、4年間、一緒に寝て過ごしたか、そして、その後、決裂して、激しい憎しみの関係になっていったを、分かることだ。

六城くん。君の、その軟弱な、「オレなんて、どうせ」と恥ずかしがり屋の性格が、自分の人生を低く、低くしているのだ。出しゃばり、目立ちたがり、「どうだ、おれの考えはすごいだろ」と、見せびらかす精神を今こそ、大事にしないと、本は書けないぞ。 何十度言ったら、分かるんだ。 この、奴隷の卑屈な、根性を、自分で叩(たた)き直せ。 卑屈な人間が、何か、ニーチェを分かったようなことを、書いて、それで満足するな。

私が、一昨日、彼に、「本は進んでいますか。原稿はどうなってるの」と電話したら、栃木県(しもつけ、下の毛の国)の足利市(あしかがし)の足利学校の前を、自転車を漕いでいる、とのことだった。
「帰ったら、先生のニーチェ本について書きます」と言いやがった。馬鹿が、何を考えてるんだ。
頭はいいのだかから、さっさと自分の思想、考えを纏(まと)めろ。

 私、副島隆彦が、舞台で、踊っているときに、観客席から、「つまらねえなあ、下手だなあ」という者がいたら、私は、即座に、舞台から下りていって、そいつの胸ぐらを掴(つか)んで、「それなら、お前が踊ってみろ」と、舞台に引きずり出そうとする人間だ。 このことを、私は、弟子たちに、ガンガン、指導している。「お前が、人前で、踊れ、歌え、演説せよ。いつまでも、観客席から、ぐだぐだ言っているな。分かったか」と、厳しく叱るから、だから、彼らは私に逆らわない。今にも、舞台に引き釣りださされそうになると、彼らは分かっているからだ。 副島隆彦割り込み、加筆、終わり 。ふん )

さて気を取り直して、副島先生の新著の紹介をさせていただきます。

本書は前半だいたい3章から4章あたりまではニーチェという人物と関係者(とくにヴァグナー)による思想の解説です。
5章以降はニーチェ自身の(44歳で)死に至るまでの足取りです。

つまり前半は適菜収「キリスト教は邪教です!現代語訳アンチクリスト」(2005年 講談社α新書)をさらに理解を深めるための副読本(理解を進めるための教材)という体裁です。適菜氏の著作を読んでいなくても十分理解できるでしょう。

ところが後半は副島先生にニーチェが乗り移ったかのように、ギリギリの苦しみの状況と発表した著作を時系列で解説されています。

いわばニーチェの代弁を120年後の今、ニーチェの魂をなぞるかのように書き記している感じがしました。普段の文体とは異なっていて性急な文章なんです。
それだけ一気呵成に書き上げた副島先生の熱気を感じます。

弟子の私が解説しますが、後半はドイツ哲学に精通している編集者の小笠原豊樹氏によるものだと思いました。

副島先生のそばで見てきましたが、副島先生の数いる編集者の中でも小笠原氏ほど卓越した人はいないと私は思っています。
本来なら(博識の)小笠原氏も書き手側ちゃうんかい!と二人の関係を眺めてます。

つまり小笠原氏は副島隆彦と同じく「ニーチェの狂気」を分かち合える希有な編集者なのです。
だからこの「ニーチェに学ぶ」は前半は副島先生、後半は小笠原氏による<実質は>共著なんじゃないのかなあと弟子の私はそう感じながら読みました。

「ニーチェに学ぶ」は狂気の著者と編集者による魂の叫びである

この本は副島隆彦先生と小笠原豊樹氏の狂おしいほど「わかってくれ!」という叫びなのです。
ざっと目を通して、私はよくわかります。そしてニーチェ本は適菜収氏とこの「ニーチェに学ぶ」の2冊で十分な破壊力があります。
どうかこの文章をおよみの皆様、「ニーチェに学ぶ」をお近くの書店で(陳列はされていないので)注文して下さい。

もっと売れて欲しいと心底思います。(現実には丸善でさえも一冊しか置いていません)

以下、簡潔に感想を述べます。

私が心に留まった箇所は、ニーチェ(とヴァーグナー)が捉えていた「ギリシア的なもの」です。
ヨーロッパ人(とくにフランス人)がホメロスとかギリシャ神話に憧憬をもつ理由が分かります。
それは言い換えればキリスト教的なるものが全く「人類の解放」にはなっていないことの証左なのでしょう。
ディオニュソス的(すなわち乱交パーティ)がギリシア芸術の根幹だと言い放ったことでしょう。

216ページ
ショーペンハウアーは、「この人間世界は、グチャグチャの非理性と、盲目的に突撃する意志で覆われており、人の人生は愚かな欲望に振り回されるものなのだ」と考えた。欲望に振り回されるから人の一生は苦痛である。この苦痛からの救済は精神をしっかりすることだ。そのためには自分の意志を否定して、無私に徹して、そうすることで永遠の理想と向かい合うべきだ。だからショーペンハウアーにとっては、芸術、哲学、宗教はこの盲目的な意志からの開放である。それが苦痛からの開放の道となる。前半生のニーチェはこのショーペンハウアーに学んで、ギリシャ芸術を賛美し、美しいギリシャ彫刻を、人間解放の道とみなした。
 ギリシャ人は、なんと「最もよきことは、この世に生まれないこと。だから次善は、早く死ぬことだ」という至言を生み出した民族だ。「人は生まれなければよかった。だからさっさと死ぬべきだ」という恐ろしい言葉をギリシア文明は一方で隠し持っている。この苦痛ばかりである一生を耐えうるものにするためには、ぞっとする死の深淵と関わること。そして、終わることのない生命(生活)の苦痛があるからこそ、ギリシア人は明るく輝く芸術の神殿を建てた。芸術こそは、人間の生を生きる値にするものにするための企てである。このようにショーペンハウアーは組立てた。この思想の基本骨格をニーチェもヴァーグナーも初めは強く支持し受け容れていた。
 だから、ニーチェはディオニュソス的とアポロ的の、二つの、すなわち退廃(淫靡)と健康(光輝)の二つの芸術がギリシア悲劇の中で対立したまま融合していることを『悲劇の誕生』で証明した。

この勢いで坊主の思いつきに過ぎない宗教的規律を強いるローマ・カトリック教会へと批判が進みます。
ああ、ここでニーチェが存在している現世は「愚かな悪意と愚行の連続」であり、それが歴史となることに気付いたということです。

220ページ
 ニーチェ2冊目の本は、『反時代的考察』(1873-1876年、29-32歳)である。ニーチェはこの本で、ヘーゲルがやったように、歴史の問題を過激な刀で切り裂いて見せた。
 世界史という、人類の血だらけ泥だらけの歴史が持つ意味は、あの威風堂々の劇作家であるシラーが見抜いたとおり、善悪のどちらであれ、人間の歴史はその偉大さの記念碑であるとする。常に決断を迫られる、人間の生のエネルギーを弱めるものは、すべて否定されるべきだ。その代表がローマ・カトリック教会である。彼ら坊主たちが、人間に忍従と我慢と謙虚さを強いてくるとき、人間の生のエネルギーは弱められる。
 1870年ぐらいまでは、ショーペンハウアーの哲学とヴァーグナーに、ニーチェは狂ったように心酔して入れあげていた。ショーペンアウアーにとって歴史とは、ひとりの天才が出現したときにだけ素晴しい、とするもので、あとは愚かな人間達の悪意と愚行の舞台に過ぎないとする。

ニーチェはキリスト教の唱える「真理」に異議を唱えます。見ることも存在すらもわからないのに「真理」があるとするキリスト教に懐疑を抱くのです。キリスト教の神=真理だという教義、さらに真理により善悪が決まるという欺瞞にニーチェは120年前に真っ向から立ち向かったのです。

291ページ
『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Bose)では、なぜ人間は真理(ヴァールハイト)を欲するのか、とニーチェは問いかけている。真理を求める意志は、生(生きること)にとって真理が有用だからだ。ところがニーチェは、ここで、「真理とはウソの尺度である」というとんでもなく矛盾する定式化を行った。なぜなら、ウソの尺度がなければ、真理を求める生命そのものも存在しないからだ。
 ニーチェは、生命(生き生きと生きること)を自分の思想の中心に置いている。その際、毒もまた健康によいということを、彼は知っている。スイスの新聞が、ニーチェの哲学を指して「ダイナマイト」と名付けた。「丈夫で堅いヨーロッパの偽善的キリスト教というイデオロギーの容れ物をニーチェは爆破しようとしている」と書評したのだ。「どうせ落ちて腐る物を落ちるに任せるだけではいけない。突き壊すべきだ、とニーチェは主張している」と評した。この評論(評価)は今読んでも優れている。

上記の抜粋箇所が後半の要点だと私は感じました。


適菜収氏の「現代語訳アンチクリスト」と併せて、副島隆彦著「ニーチェに学ぶ」を読むと、より深く時系列でニーチェがどのように影響されて、また思想を深めていったのかがわかるでしょう。そして私は読了後どのように考えたのかを申し上げるとニーチェは無神論者として葬られましたが、無神論者(atheism エイシイズム、エイシイスト)ではないでしょう。

 (六城。当たり前だ、だから、ニーチェは、自分こそは、イエスだ、自分こそは、ゾロアスター(すべての世界規模の救済宗教の元祖)だ、と、考えて、あの「ツアラトウストラ(ゾロアスター)、かく語りき」の大著を書いたのだ。)

むしろ(キリスト教的ではない)神の存在を信じて真理を追究して日夜没頭する人、今で言えば現代物理学者や天文学者、数学者といった人たちです。ニーチェは有神論者(theism シイイズム )だということ。だからこそ無政府主義(アナーキズム、 秩序破壊活動者 )という裏の顔をもつキリスト教を憎んだのです。そして欲望・快楽を否定することが真理だという人間性のない危険思想に警告を出し続けたのです。

5000部という希少本(図書館にも並ばない自費出版に毛が生えたレベルの部数)で終わってしまうのは惜し過ぎる!
こんな少部数ではブックオフの中古本ではまずこの部数では出てこないです。
どうか流通している間にお読み下さることを私は切に望みます。