[2166]今こそ姥捨山の復活を 2

8067浅川京華 投稿日:2017/07/31 01:15

医療サイドが、介護業に無茶を押し付け、知らん顔をしている(全部介護業のせいにしている)一例を挙げる。老人は、本当に、食べない。食ベたいという自然の本能が、消滅している。という事は、もうお迎えが近い、という事だから、食べないままにして、静かにその時を待っていれば良い。しかし、これを現代日本社会は「介護放棄」「老人虐待」と言う。だから、医療サイド(医者や看護師)は、食べない老人に「食事介助しろ(食べさせろ)」と言う。どうしても食べたがらない老人に、介護士が食べさせているのを医療従事者達が見て「無理矢理食べさせている」「虐待だ」「利用者(介護サービスを受けている人の事)を、人間扱いしていない。物として扱っていると言う(笑)。

『2161俗ニーチエについて 付記』続き
私は「私は愚か者」などと、何度も言わない。そういう言い訳は、私はいちいちしない。あと、「こういうミケランジェロへの讃辞は、他に書く人が、きっとたくさんいるだろうと私は思った」は「こういう副島先生のニーチエ本への讃辞」の間違いである。

市川崑の映画『破戒』の話に戻る。猪子の妻のような女像(どんな自分であっても、受け入れ、肯定してくれる女)を男が理想とする事を指して「マザコン」と言う、と、私は何度も書いた。これは別に、私の恣意的な考えではない。客観的に見て、そうとしか言いようがない。が、この事は、一先ずおく。丑松と、猪子の妻の考えと、どちらが妥当か?どう見ても、どちらも妥当だ、と私は考える。これは、相補って完全、という種類のものだ、と。

「女の中の頭の良いのは、他人を突き放している。他人は自分の思い通りにはならない、という真実を受け入れている」と、私は書いた。副島先生の言うように『結婚制度に守られている女』に限らない。『人間は、母親の体内にできた最初は、皆女だった。それが途中で男に変化したり、女のままだったり、で、生まれてくる』『男女は、体が違う』この2点のみが、男女についての『事実』で、この2点以外の「女はこうだ」「男はこうだ」は、所詮、それを言う人の思い込みに過ぎない(だから勿論、前述の私の考えも、恣意だ)。随分昔「女性をミス、ミセスと言わず、ミズと呼ぼう」というコマーシヤルがあった(こんなCMがあった事、今では誰も覚えていないだろう)。日本では、女は、結婚したら「奥さん」と呼ばれる。結婚してなきゃ「おじょうさん」だ。だから私のように、結婚していない50前後の女など、なんて呼んで良いのか、皆困っている(笑。このあいだ職場で、或るボケ老女が私に「オ―ルドミス!」と、なつかしい言葉を言った。ボケ老人がこういう差別用語を使う分には、お咎め無しである)。先進国と言われている欧米も『ミス、ミセス』、フランスなら『マダム、マドモアゼル』と、女を結婚しているか、いないかで区別する。男に、そういう区別は無い。つまり「女は男しだい」という前提を、世界中の女が今だ受け入れている、この1点で「女は総じてバカだ」という副島先生の言葉は事実だ。