[2161]俗 ニーチエについて

8067浅川京華 投稿日:2017/07/15 04:43

私は自分を、絵本『ベロ出しチヨンマ』の、過酷な年貢米の取り立てを訴えて、磔(はりつけ)にされた百姓、の類の人間だ、と規定している。( 副島隆彦加筆。 十字架に縛り付けられて、下から槍で脇腹から心臓を突き刺して殺す刑や、獄門さらし首や、首つり自殺 では、死者の口から舌(した、ベロ)がはみ出した状態になることが多い。これを、「ベロだし」と江戸時代の民集が、小塚原=今の南千住 や、大森、烏森の刑場に、街道沿いに、見せしめで何日も放置してある死体の姿から、呼ぶようになった。副島隆彦の割り込み加筆終わり )

 まぁ、私だって、磔にされるのは嫌だが。だからこの例えすら、カツコ良すぎるだろうが。
介護福祉士という下層労働者である自分の現実を、学問道場の会員であっても、私は忘れていない。
 下のナカヤマ氏の投書を読み、自分の本業の介護の現実について、ここで本格的に発表させて頂きたいと、ずっと思っていた。そうでありながら、他の事についてばかり投書してきてしまった事に焦りを感じている。

 私は一生、雇って貰う側だろうし、雇う側になりたいとも思わない。雇う側の人間を、尊敬してもいない。
はっきり言う。 副島先生の『 隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか? 』(2012年、PHP研究所刊)の中で、三島由紀夫の遺作『豊穣(ほうじょう)の海』(全5巻、新潮社刊、1970年)について小室直樹氏が、つ次のように書いていた。 

「最も適切な仏教入門である」、「法相宗(ほっそうしゅう、副島隆彦加筆。中国経由でインドから日本に伝わった南都六宗 のうちの一つ。一番古い宗派。本当のゴータマ・ブッダ(お釈迦様)の考えを伝えている。あとは、副島隆彦の本を読むべき。副島隆彦の加筆終わり )の徹底的解説である」、

 「(第一巻の主人公、松枝清顕(まつがえきよあき)の友人で、この松枝清顕の恋人であった綾倉聡子(あさくらさとこ。のちに出家して奈良の尼寺の門跡になっていた。この女性のモデルは、三島由紀夫がまだ若い大蔵省の職員時代に、お見合いをした、現在の皇后、正田美智子と言われている )が、本田・・・から尋ねられて、「松枝清顕という人は、もともといらはらなかったんやないですか」、綾倉聡子が、答えた。この 言葉の意味は、人間は輪廻転生(りんねてんしょう)しない、という事だ」 という説を、『隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?』から私は、知った。

 確かに、綾倉聡子(あやくらさとこ)の寺は法相宗(ほっそうしゅう)と、はっきりと『豊穣の海』に書いてあった。この事を思い合わせて、私は、雷に打たれたような感動を覚えた。色々な人が、三島由紀夫の自殺の真相について書いた。しかし、これこそはそのものズバリだ。

 三島由紀夫は、来世(らいせ、あの世)も前世(げんせ)もない、人の一生は一度きりである。だから他人からどう言われようが、思われようが、やりたい事をやって死のうと、私は思った。

 三島由紀夫の思想を本当に理解した人間は、小室直樹氏一人きりだった。この事実に、私は暗澹(あんたん)となった。来世も前世も、そして現世(げんせ、現実の世界)さえもない。そして人生は一度きりである、という法相宗(ほっそうしゅう)の説く真実を知って、私は以後、迷わなくなった。

 それ以前は、時に、病的な孤独感に苛(さいな)まれる事もあった。
「若かった20才の自分に戻りたい」などと言う人に、私は言う。「 それは、今までの自分の人生に不満だからでしょう。そういう人が、何回20才に戻っても、同じ生き方しかできない。やり直す力のある人なら、20才に戻らなくても、今やり直す」。

 本題。 副島先生のニーチエ本を読み、「 昔は本物の知識人は、最後は精神病院で死ぬ」を覚悟している人種だった。今は、そういう本物の知識人がいない。 副島先生が遂に、同性愛問題を正面から書いた。

 人類の歴史に同性愛(ホモセクシュアリティ)は不可欠なものだ。副島先生が人類最高の芸術家と呼ぶミケランジエロだってホモだった(89歳で死)。それについて副島先生はどう考えてるんだろう? 自分がホモじゃないから、関心ないのか、と思っていた。

 こういうミケランジェロへの讃辞は、他に書く人がきっとたくさんいるだろうと私は、思った(、が、誰も書かない)。 私はここでは、週刊誌的な下劣な立場から、自分の感想を言う。私はこれまでニーチエについて、その著作を読んだ事は無い。だが、週刊誌的な興味から、この有名な思想家について、色々知っていた。

 澁澤龍彦(しぶさわたつひこ。フランスのマルキ・ド・サドを研究した。小説家)は、ただの耽美(たんび)主義者だと思っていた。ところが、澁澤氏が書いた、『ババリアの狂王(きょうおう)』という、ルートビヒ2世(副島隆彦加筆。バイエルン国王(首都ミュンヘン)のルードヴィヒ・デア・ツヴァイゼ。リヒャルト・ヴァーグナーの終生の愛人。一歳違いのニーチェがその後を継いだ )についての小文は、ひょっとして、ルートビヒ2世 について書かれた物の中で、日本で一番良いのではないか? と思う。

 私は副島先生が、ニーチエのように、最後は孤独地獄の果てに発狂するのではないか。現代風に言うと、ボケ老人になるのではないか、という危惧を覚える。副島先生がボケたら日本の損失なので、私のエゴから敢えて言う。

 ニーチエが狂った理由を、誠実に考え詰めた天才だったから、で終わらせてはいけない。ニーチエが狂ったのは、 「他人は自分の思い通りにはならない」という簡単な真実を受け入れられなかったからだ、と、愚か者である私は、勝手に考えた。この程度の知能しか、私にはない。 

 ニーチェは、自分の文章で、他人を説得しようと本気で思ったからだ。女の中の頭の良い、悪賢い者たちは、たいてい、本心は、他人を突き放している。 他人はどうせ自分の思い通りにはならない、という事を受け入れている。( 副島隆彦注記。そして、この悪賢い女たちは、極めて上手に、男を一人、自分の奴隷にして、この男に寄生して、楽をして一生を終える。男と競争して、自分の力で生きようなどとは、金輪際、思わない。この手の悪賢い女は、自分の力で生きる、という考えで、必ず苦しい人生になる労働者の女たち=職業ウーマンたちを、腹の底から、見下している。副島隆彦の妻がそうである。副島隆彦の割り込み加筆、終わり)。

 しかし男の場合は、生まれながらに相当に頭の良い者は、自分の考えを人に押し付けようとする。人を自分の思い通りにしたい、という欲から抜け出せない。自分のような凡人の女には、到底、太刀打ちできない人々だ。

 天才的な人間は、確かに実在する。しかしそういう天才も、普通の人だ。特別な人間などいない、例外は一人もいない。私はこの事を、自分の失恋から学んだ。私が愛した同性愛者の或る女性は、私が、天才というものを、初めて現実に見た、人だった。この人となら、生半可な恋ではすまないだろう、きっと私式の愛し方が通じる人だろう、と、思い込んだ。そして10年がたって、私は、自分が愛したこの女性から、「重荷で重荷で息がつまる」「あなたと付き合っていると、胃は痛いし、仕事もできない」と突然言われた。

 それから大分たった。私はつくづく彼女も普通の人だったのだ。それなのに、自分が、勝手に、この人を理想の男性だと思い込んだことを、大変、申し訳ない事をした、とわかった。 この人は天才だからと、彼女に依存しきっていた自分の愚かさを深く反省した。私が本気で自分の人生を反省したのは、この時だけだ。 私は愚か者である。