[2118]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2017/03/27 13:54

  今一度「壬申の乱」について

 壬申の乱(西暦672年)は、天智天皇の長男・大友皇子(明治に追号され弘文天皇)を天智の弟と『日本書紀』が記す大海人皇子(天武天皇)が討伐した戦いです。
 『日本書紀』は、日本国の最初の正史です。その正史は、天武天皇の決起は正統(正当)であったと主張しています。

 奈良時代「壬申の乱」に触れた文献は4点残されている。『日本書紀』・『古事記』序文・『万葉集』第二巻の高市皇子に奉げた柿本人麿の挽歌・『懐風藻』の大友皇子伝です。

 『日本書紀』『古事記』『万葉集』の三者は、天武天皇の正統性を主張しています。もっとも『日本書紀』は、天武の命令で編纂を開始されたのですから、天武を正統化するのは当然でしょう。

 しかし、現在我々は何の疑いも抱くことなく天武の決起に始まる内戦を「壬申の乱」と呼んでいます。
 「乱」とは、秩序(現状)を破壊する行為を指します。天武の行為を「乱」と呼んだ最初の文献が『懐風藻』です。
 『懐風藻』は、天武の決起を「乱」であったと言い切ります。天武の正統性、正義を否定しています。

 『懐風藻』は、天平勝宝三年(741年)に上梓されています。東大寺大仏の開眼供養の前年です。『懐風藻』は、天武天皇の正統性を全面的に否定したのですが、何のお咎めを受けることなく現在に受け継がれてきました。そして「乱」と呼ぶことが定着したのです。
 これは奈良時代の人々の誰もが、天武天皇の決起に正統性がなかったことを認識していたからではないか、真実は『懐風藻』にある、と。

 『万葉集』は、単に歌を収集した歌集ではない。明らかに政治的意図(天武天皇の即位を正統化する)を持った歌集である。柿本人麿の作歌は『日本書紀』編纂作業と密接に絡み合っているのである。

   大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に 庵(いほ)らせるかも (第三巻)

   玉襷(たまたすき) 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いやつぎつぎに 天(あま)の下 知らしめししを 天(そら)にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天離(あまざか)る 夷(ひな)にはあれど 岩走る 近江の国の 楽浪(さざなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊(みこと)の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処と言へども 春草の 繁く生ひたる 霞立ち 春日の霧れる ももしきの 大宮処(おほみやどころ) 見れば悲ししも (第一巻、29)

 ともに人麿の歌です。大君は 神にしませば・・・の歌は、何の解説も必要ないでしょう、明快な歌です。故に〈29〉の歌の解説をします。
 この歌の題詞に「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」とあります。『万葉集』に登場する最初の人麿歌です。

 内容
「畝傍の橿原の宮に即位された神武天皇以来、神の御子である天皇が次々と大和の地で天下を治めになっていたのに、どのように思われたのか天智天皇は近江の国の大津に都を遷された。
 その大津の宮は、今は荒れ果て、大宮の跡、大殿の跡はこの辺だというが、春の草が生い茂っているばかりである。春霞の中、大津の宮を見ていると悲しみがこみあげてくる。

 初代の神武天皇以来、神の御子である天皇が絶えることなく大和の地で、天下を治めてこられた、と歌っているのだ。
 しかし、私は『旧唐書』を基に七世紀後半まで、日本の代表王朝は、筑紫に都を置く倭国であったことを論証した。倭国と日本国(大和王朝)は別王朝であったのだ。倭国が上位で大和王朝は下であった。この関係が逆転するのは天智天皇の時である。倭国が無謀な朝鮮出兵に惨敗したためである。倭国の自滅により天智天皇が日本の王者に就いたのである。
 それが真実の歴史である。天武天皇の歴史編纂は、真実を隠蔽する、歴史を改竄する作業であった。人麿もこの歴史改竄事業の真っただ中にいたのである。歴史改竄、全く新しい歴史創造の中心人物こそ柿本人麿である。
 人麿が、地方の下級官吏などであったはずがないのだ。