[2034]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/11/04 11:13

    大伴安麿の妻・石川郎女について

  大伴安麿の二度目の妻・石川郎女は、皇太子・草壁皇子と大津皇子が争った曰く付きの石川郎女であった。皇太子・草壁皇子の求婚を蹴って大津皇子に走ったことは、当時の大スキャンダルであった。

   大納言兼大将軍大伴卿の歌一首(巻四、517)

  神樹(かむき)にも 手は触るとふを うつたへに 人妻といへば 触れぬものかも

 (大意)神聖な御神木でさえ手で触っていいのに、人妻と云うだけで絶対に触って悪いというのか。

 人妻と云うのは、大津皇子の妻・石川郎女である。大津皇子は、天武天皇崩御の直後、皇太子に対する謀反の罪を着せられ殺害されていた。この歌は石川郎女に対する求愛の歌である。

    石川郎女の歌、即ち佐保大伴の大家(おほとじ)ぞ(巻四、518)

  春日野の 山辺の道を 恐(おそり)なく 通ひし君が 見えぬころかも

 (大意)春日野の山辺の道を、なに畏れることなく通ってお出でになっていたあなたが、この頃さっぱりお顔をお見せになりませんね。

 佐保大伴は、大伴安麿の宅が佐保にあった事に依る。大家(おほとじ)は、主婦の尊称。
 石川郎女は、石川氏のお嬢さん。石川氏は「壬申の乱」以前の蘇我氏である。蘇我氏は、滅ぼされた大友皇子(天智天皇の長男)軍の中核であった。
 一方、大伴氏は一族結束して天武に味方した。安麿は、その大伴氏の中で最も活躍した人物であり、天武の王朝の真の主宰者・高市皇子の篤い信頼を得ていた。
 春日野の山辺の道は、蘇我氏の勢力圏です。大伴安麿は、蘇我氏の恨みを買っていたのです。そんなことは少しも恐れずに石川郎女に求愛し通っていた。

 安麿には最初の奥さんとの間に三人の息子が居りました。長男は大伴旅人と云い『万葉集』に優れた歌を多く残しています。
 次男は、田主と云い、三男は、宿奈麿と云います。次男の田主が、父・安磨の再婚に懸念を持ったようです。無理もありません、相手は皇太子・草壁皇子を振ったあの石川郎女ですから。持統天皇の怒りを買った女性です。
 巻二の126~128に、石川郎女が田主の理解を得ようとする興味深い歌の遣り取りと物語が残されています。

    大津皇子の侍(まちかた)石川郎女、大伴宿禰宿奈麿に贈る歌(巻二、129)

  古りにし 嫗(おみな)してや かくばかり 恋に沈まむ 手童(たわらは)の如(ごと)

 (大意)年老いたお婆さんなのに、こんなにも恋に沈むものなのでしょうか、まるで幼い子供のように。

 大伴宿奈麿は、安麿の三男。古にし嫗と言っているが、石川郎女はまだ三十前のはずだ。安麿は、和銅七年(714年)正三位、大納言兼大将軍で亡くなるが、石川郎女は、天平七年(735年)でも健在であった。
 安麿が石川郎女に求婚したのは、草壁皇子が亡くなった持統三年(689年)以後だろう。
 また安麿の息子たちは、二十歳を過ぎていた。
 私が石川郎女にこだわるのは、柿本人麿の正体を解く鍵は石川郎女にあると確信しているからだ。柿本人麿こそ、万世一系の天皇制の歴史を創造した中心人物と確信している。