[2030]天武天皇の正統性について
大伴安麿の妻・石川郎女について(その2)
前回(2025)で皇太子・草壁皇子と太政大臣・大津皇子の関係に付いて述べました。草壁皇子は天武天皇の皇后(後に即位して持統天皇)の間の出生で、大津皇子は皇后(持統天皇)の実の姉(大田皇女)と天武天皇の間の出生です。
二人の皇子は、共に石川郎女に求愛しましたが、石川郎女は大津皇子を選びました。これが大津皇子殺害の原因だ、という学者もいるのです。石川郎女を巡る二人の皇子の争いは、当時の大スキャンダルだったようです。
天武天皇が崩ずるや、その喪も明ける内に、大津皇子に謀反の罪を着せ、事の審議もせず即座に殺害しています。
草壁皇子は皇太子に立てられていたのですから、天皇に即位するのが自然ですが、即位することはなかったのです。天皇は空位でした。そんな状態で三年経ち草壁皇子は病を得て亡くなってしまいます。苦肉の策で仕方なく皇后を即位させました持統天皇です。
どうやら大津皇子殺害が、時の最高権力者・高市皇子の許しを得ずに皇后一派の独断で行われたらしい。これが高市皇子の逆鱗に触れた。
高市皇子こそ、この天武の王朝の創業者です。彼は、大津皇子の大きな才能に期待するところが大でした。しかし、それこそ皇后にとって嫉妬の種だったのです。
学者たちは、天武・持統朝を天皇親政の最も成功した時代と、天皇政治の理想のように持ち上げますが、この時代の真の主宰者は高市皇子です。その高市皇子は、持統十年(696年)七月に突然亡くなります。日嗣(ひつぎ)のことなど何も決めていませんでした。
ここに持統天皇は、主な皇族・貴族を宮中に招いて誰を日嗣(皇太子)に立てるべきかを諮問した。天武天皇の皇子の中には、自分こそ次期天皇に相応しいと野心をのぞかせる者もおり、衆議は紛々とした。
そこに葛野王(かどののおほきみ)が立ち「我が国の法では、神代より子孫相うけて天位を継いできた。もし兄弟が相続するような事態になれば、必ず世は乱れる。素直に天の心を聞くならば聖嗣(日嗣)は自ずから定まるはずである。それに異論をはさむ余地があるか」と一喝した。
つまり、先の皇太子・草壁皇子の子・軽皇子の立太子(日嗣)に正統性があると喝破したのであった。
天皇は、この葛野王の言葉をたいそうお喜びになり葛野王に大きな褒賞を与えた、と『懐風藻』は記している。
不思議に思うのは私だけではあるまい、『日本書紀』は、天智天皇と天武天皇を実の兄弟と記している。「壬申の乱」と云うのは、天智天皇の長男・大友皇子を天智の弟の天武が滅ぼした戦いである。兄の息子の皇位を弟が奪った戦である。
『懐風藻』の論理では、それは「乱」以外の何物でもない。『懐風藻』の論理では、天武は正しい秩序の破壊者となる。
不思議なのは、持統天皇が葛野王の論理を「是」として夫である天武の行為の正統性を否定していることだ。
葛野王の言葉で、草壁皇子の子・軽皇子の立太子が決まり、翌年八月、持統天皇は譲位し、軽皇子が即位なされた。文武天皇である。
注意して欲しいのは、この構図は天孫降臨神話と瓜二つ、いや全く同じだという事である。
持統天皇の即位にしろ、文武天皇の即位でも、その正統性に疑問があったのだ。正統性を創造したのである。文武天皇の即位を正統化する為に、天孫降臨進派を創造し、神話の時代にはめ込んだのではなかったか。
葛野野王とは、「壬申の乱」で滅ぼされた大友皇子と十市皇女の間の出生。
十市皇女は、天武天皇と額田姫王の間の出生。
『懐風藻』、天平勝宝三年(751ねん)に上梓されたわが国最古の漢詩集。なおこの翌年、東大寺大仏の開眼供養があった。