[2025]天武天皇の正統性について
大伴安麿の妻石川郎女について
〔2015〕の続きです。
石川郎女は『万葉集』で最も魅力的な女性です。その登場を見て行きましょう。
大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首(巻二、107)
あしひきの 山のしづくに 妹待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに
石川郎女、和(こた)へ奉る歌一首(108)
吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
大津皇子、密かに石川郎女に婚(あ)ふ時、津守連通(つもりのむらじとほる)その事を占へ露(あら)はすに、皇子の作りましし御歌一首(109)
大船の 津守の占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて わが二人寝し
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首(郎女、字を大女児といふ)
大女児(おほなこ)を 彼方(をちかた)野辺に 刈る草の 束の間も われ忘れめや(110)
大津皇子は、大海人皇子(天武天皇)と天智天皇の娘・大田皇女の間に生まれています。大田皇女は、西暦661年正月に斉明天皇の筑紫行幸の際、難波を出発した二日後船上で大来皇女(おほくのひめみこ)を出産した方です。以前私は、斉明天皇の筑紫行幸は、身重の大田皇女を筑紫(倭国)に無事送り届ける為のものであった、と論じました。
大津皇子は、その大田皇女を母に持ち、筑紫で生まれたと言われています。大田皇女は、天武天皇の皇后で、後に即位した持統天皇の実の姉です。実の姉妹で、先に結婚したのは大田皇女ですから、大田皇女の方に皇后になる優先権があったはずですが、大津皇子を御産みになって間もなく亡くなってしまわれたのか、その後の歴史に登場せず、妹(後の持統天皇)が皇后になりました。
(110)の歌の作者、日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)とは、天武天皇と皇后(持統天皇)の間に生まれた草壁皇子で、皇太子に立てられていました。
大津皇子の方は、太政大臣です。『懐風藻』によれば、大津皇子は明朗快活で衆望を集めていたとあります。
(107)と(108)の歌は大津皇子と石川郎女の密会の歌です。石川郎女の返しの歌のなんとも妖艶なことよ。
しかし(110)で分かるように、草壁皇子も石川郎女にぞっこん惚れ込んでていたのです。
刈る草の間も「本当に少しの間も」われ忘れめや「私は忘れることが出来ようか、いや忘れることなど出来るはずがない」
皇太子・草壁皇子が悶々と思いを募らせていたのに、石川郎女は大津皇子の下へ走ってしまった。
このことは、陰陽使(占い師)津守連通の占いで直ちに露見しました。
大船の 津守の占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて わが二人寝し(109)
「津守の占いで事が露見することなど、そんなことは承知の上で私たち二人は寝たんだよ」
この大津皇子の男らしさ、潔(いさぎよ)さ。皇后(持統天皇)は、嫉妬していたに違いない。自分が腹を痛めた草壁皇子が皇太子に立てられていたとはいえ、衆望は大津皇子に集まっていた。大津皇子は、実の姉の子である。皇位継承順位だって、どちらが上か微妙なものがあった。
朱鳥元年(西暦686)九月、天武天皇が崩御するや、直ちに大津皇子に謀反の罪を着せ殺してしまった。
(つづく)