[2015]天武天皇の正統性について

守谷健二 投稿日:2016/10/13 20:06

〔2006〕に書いた『万葉集』第三巻、大伴坂上郎女が尼理願に奉げた挽歌について。

〔2006〕で、小生は、この尼理願は新羅王朝が日本の王朝と婚姻を結ぶために送られてきた新羅王女だったのではなかったか、と推察した。尼理願が亡くなったのは天平七年(735)です。
『万葉集』第十五巻に天平八年の遣新羅使の歌が残されている。この遣新羅使たちは、新羅王朝に入国を拒否された、門前払いを食わされのだ。
天平七年と云うのは、新羅王朝の唐への朝貢がようやく復活した年です。
 西暦668年、新羅と唐は協力して高句麗を滅ぼすことに成功しましたが、朝鮮半島経営を巡り、両者には対立が生じていました。新羅は善戦奮闘し、唐軍を半島から一掃することに成功を収めた。両者の敵対関係はそれ以来六十年余りも続いていたのです。
 新羅王朝が、背後に控える日本国に心を砕いていたのは当然でしょう。しかし、日本国は大宝三(703)年に唐への朝貢を復活させていたのです。
 今日書きたいのは、東アジアの国際関係ではなく、尼理願に奉げられた挽歌の左注にある大納言大将軍大伴卿と大家(おほとじ)石川命婦についてです。

 大納言大将軍大伴卿は、和銅七(714)年五月一日正三位で亡くなった大伴宿祢安麿です。彼は「壬申の乱」の際、大和古京で天武方に就く大伴氏を中核とする決起を成功させ、それを不破関(現在の関ヶ原)に本陣を敷く高市皇子(天武の長子で「壬申の乱」の首謀者、天武・持統朝の真の主宰者)に報じた人物です。
 高市皇子は、この一報を受けて全軍に進軍を命じました。高市皇子の大伴安麿に対する信頼は篤いものがあった。天武・持統・文武・元明朝での重臣です。その安麿が、新羅尼理願を預かっていたのです。

 大家(おほとじ)石川命婦は、大伴安麿の奥さんです。結婚する前は、石川郎女(いしかわのいらつめ)と呼ばれていました。石川郎女と云うのは、石川氏のお嬢さんと云う事です。
 石川氏と云うのは「壬申の乱」以前は、蘇我氏です。蘇我氏は、七世紀前半で大和王朝の最有力豪族です。第41代持統天皇、43代元明天皇は、天智天皇と蘇我氏の娘との出生です。
 石川郎女と云うのは、蘇我氏の出自と云う事です。持統天皇・元明天皇と極近い近親者と考えられます。
 この石川郎女と大伴安麿の間に生まれたのが、大伴坂上郎女です。石川郎女は、大伴安麿の二度目の奥さんです。最初の奥さんの間には、三人の息子が誕生しています。『万葉集』の歌人として名高い大伴旅人・大伴田主・大伴宿奈麿です。
 
 石川命婦は、元明天皇・元正天皇に深く信頼されていたことが解る歌が『万葉集』第二十巻に残されています。
 石川郎女は、普通の庶民ではない。まぎれもない日本のエリート貴族です。
 次回は、大伴安麿の最初の奥さんの事を書きます。