[2011]天武天皇の正統性について
『古事記』偽書説について
『古事記』序文は、和銅五(西暦712)年正月二十八日に、太(おおの)朝臣安麻呂が「稗田阿礼の誦(よ)む所の勅語の旧字を撰録して献上せしむ」と記す。
一方、『日本書紀』は、日本国の二番目の正史『続日本紀』に養老四(720)年五月に撰上記事がある。
つまり、『古事記』の方が『日本書紀』より八年前に完成されていたというのである。
しかし、二つの史書を比べると、『古事記』の方が簡潔でスッキリしており、あたかも『日本書紀』の記事を参考ににし、それを整理抽出して書いたかの印象を与える。この為『古事記』は、『日本書紀』より後に書かれたのだ。
『古事記』序文の、和銅五年に完成したと云うのは【偽作】だ、本当は平安時代に入ってから書かれたのだとする『古事記』偽作説が、度々唱えられてきた。
私は、『古事記』と『日本書紀』の二つだけを比較検討する事には、落ち度があると考える。
『旧唐書』「日本国伝」も併せて考える必要があるのだ。
何故なら『旧唐書』「日本国伝」は、大宝三(703)年の遣唐使・粟田真人の報告で作られているのです。和銅五年の十年前です。
この報告が、それまで中国に蓄積されていた日本列島情報と、あまりにもかけ離れていた故に、唐朝の史官たちは信ずることが出来なかった。
「・・・その人、入朝する者、多く自ら矜大(誇り高く堂々としている様)、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・」『旧唐書』日本伝より
日本国の歴史(由来)創造は、大宝三年にはすでに完成していたのである。粟田真人は、それを唐朝に報告するために派遣されたのである。
しかし、粟田真人は唐の史官たちを説得することが出来なかった。当然である、僅か四十年前に朝鮮半島で倭国と唐は戦争していた。倭国の派兵は三万と、倭国総力を挙げての大戦争であった。
倭国の惨敗の後から、六七二年(壬申の乱の年)までの十年間に、唐使・郭務宋は四度も筑紫に来ていた。唐朝は、豊富で詳細な日本情報を持っていたのである。
唐の史官たちを納得させることに失敗した日本の王朝は、天武天皇の命で作られた歴史に修正を加える必要があった。
唐では、魏徴により最新の正史『隋書』が既に撰上されていた。粟田真人は、必ずこの『隋書』手に入れて帰朝したはずである。日本の歴史編纂は『隋書』を研究し参考にして修正の手を入れられたのである。
『隋書』倭国伝で特筆すべきは「対等外交の国書」を隋の煬帝に送った倭王・多利思比孤(たりしひこ)の記事である。
「大業三年(607)、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たって仏法を学ぶ」と。その国書にいわく、「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや、云々」と。
帝、これを覧(み)て悦(よろこ)ばず。鴻盧卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と。(『隋書』倭国伝より)
中国で最も有名な日本人は「対等外交の国書」と呼ばれている書を送った倭王・多利思比孤だったのです。日本の歴史の中に多利思比孤を取り入れて作る必要が生じたのです。これが聖徳太子のモデルです。
粟田真人は、当時長安に到着していたキリスト教の知識も持ち帰ったのではなかったか。聖徳太子の幼名を、厩戸皇子(うまやとのみこ)と言います。
大宝三年の粟田真人の報告、『古事記』『日本書紀』の三者を比較すると、真人の報告が、一番単純でスッキリしていたのではなかったか。『隋書』にすり合わせる必要が出来たために混乱が生じたのではなかったか。